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アソシ研リレーエッセイ
他者の危機は自らの危機につながる
前号に掲載された綱島さんのエッセイが、ここ最近の自分にとってタイムリーな内容だったので、「リレーしやすいな」と思いながら書いている。
所属している団体で、コロナ禍により困窮している人たちへの支援を進めようとしている。当然のことながら、それは以前から構造的な貧困に陥っている人たちであり、コロナ禍によってより困窮しているというのが実情だ。
具体的には、シングルマザーや外国人労働者などを支援している団体や個人と協力しながら、物資の配布をはじめとした支援を行っていくのだが、内部での呼びかけや協力者との打ち合わせからして、常に何か落ち着かない。
例えば、実際に支援の対象となる人たちと交わる場を想像してみるとわかりやすい。僕はきっと、居心地の悪さに早くその場から逃れたいと思うに違いない。ちゃんと目をみて話ができないに違いない。
なぜか? 綱島さんの言葉を引用すれば、「“あってはならない状態”を生み出さずには維持できない社会」の中に自分が生きていることを自覚し、どちらかといえば「社会的多数派のネットワークが行う搾取」を行う側にいることを自覚しているからだろう。
自己肯定が過ぎるかもしれないが、「他者から搾取していない状態を実践した当事者」への敬意に近いような何かも、そこにはあるのだと信じたい。カンパなどの間接的な関わりの中では向き合わずに済ませられた内面に、当事者やそれにごく近しい人たちと関わることで、遅まきながら向き合わずにはいられなくなったということだろう。
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一方で、自分自身が望むこと、例えば「大切に想える存在と幸せに過ごしたい」とか、「各地の自然や文化に根ざした“おいしいもの”が食べたい」とか、「身に着けたり使ったりしていて気持ちのいい道具に囲まれて暮らしたい」とか、そういう一人一人が持つ願いや希望は、決して否定されるべきではないと思う(それらが、今ある社会によって形成されるという側面は考慮する必要があるとしても……)。
自らの“それ”を肯定し諦めきれないからこそ、他者の“それ”が本人の意思に反して実現不可能であり、実現しようとすることさえもできない理不尽な状態に対して、憤りを感じることができるのだから。
もし、それらを捨て去ることでしか共に生きる道がないのだとすれば、その生き方は「まぁどうせ無理なのだから、そんなことはみんなで我慢しましょうよ」という風にしかならないだろう。
本当に「あってはならない」のは、もしかすると贅沢だとか無意味だとか言われるかもしれない、一人一人が持つ願いや希望ではなく、“それ”を実現するためには他者からの搾取を不可避としている社会システムのはずだ。
そしてその“他者”の中には自然も含まれており、行き過ぎた搾取によって、生存のための空間としての世界はのっぴきならない危機に陥っている。願いや希望は後退していくしかないのかもしれない。
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「何とか今日一日を乗り切れますように……」
そんな願いさえ“贅沢”に思えるような未来が待っているのでは? いや、未来ではなく、そのような現実に追いやられている人々は歴史上ずっと存在し続けてきた。まさにその在り方が続いてきたが故に、そうではなかった人々も順々にそこへ追いやられていくことになるのだろう。
事象によって遅速や濃淡の差はあれ、他者の危機は必ず自らの危機につながっているのだ。
「子どもに一日一食を食べさせるのがやっと……」
「自分は二日に一食で抑えている……」
「十日間何も食べていない……」
身近にも、今まさにそのような現実に追いやられている人々が多数存在している。
“支援”などという言葉を使うたびに負い目を感じるような居心地の悪さを抱えながら、その人たちと共に闘うことができれば、この危機を乗り越え、何者からも搾取せずに幸せを追求できる社会に近づけるだろうか?
(松原竜生:関西よつ葉連絡会事務局)