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連載 ネパール・タライ平原の村から(118)
国家や制度の壁を痛感する

ネパールの農村で暮らす、元よつば農産職員の藤井牧人君の定期報告。その118回目。


 10月19日、僕は日本へ帰国しました。今、実家でこの原稿を書いています。

 理由は、5月に妻ティルさんがコロナに感染して亡くなり、これまでの配偶者ビザ更新ができなくなったためです。子どももいますが実子でなく里子であるため、親族関係ビザも取得できませんでした。他にネパールに投資するビジネスビザもあるのですが、僕の経済力では無理でした。

 今後は観光ビザで年間5ヶ月の滞在となります。せめて子どもといたいと国際養子縁組も調べたのですが、ネパールでは人身売買がこの制度の抜け穴となったことから、現在は禁止されていました。

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 本来ルールにないことをコロナ禍における特例として認めてもらいたいと、ネパールと関わる日本の方、とくに在カトマンドゥの日本人らに相談し、何人か弁護士を紹介してもらいました。

 地元の人たち、区役所から市長まで、これまで12年ネパールの人と同じように暮らして来たのだから、レター(証明書)が必要なら作ると、ビザは下りて当然とみなそう言ってくれました。でも、ネパールの役人(入国管理局)からは、一外国人の取り付く島もない話として扱われました。

 まぁ、仮にビザが取得できたとしても志半ば、僕の心はすでに折れていたのですが…。それでも、小さい子どもが僕の気持ちなどお構いなしに、「ババ(お父さん)!」と叫んで抱き着いてくるので、どうにかしたかった。

 11月になれば稲刈りだったのですが、田んぼは貸しました。ヤギは全て売りました。ウサギは全て食べました。ニワトリも在来豚も減らしました。

 3頭の水牛のうち3年半育てた牝の水牛。外部からワラの購入が増え、採算が全く合わないけれども、もうすぐ仔を産み、乳が搾れるようになることをティルさんは喜んでいました。だけれども、その水牛も売りました。

 ティルさんが亡くなる直前に連れてきた6歳のマヤは、馴染んだところでしたが先のことも考え、山岳部のご両親の元へ帰しました。

 10歳のロージはもう3年以上一緒にいたこともあり、本人の意思も僕らの意志も含めて帰らず、妻の母、姪っ子、甥っ子と暮らすことに。

 世界中がコロナ禍となり、家賃が払えない、収入がない、仕事もないと都市が厳しい状況となる中、それでも農業に軸足を置く営みだけは、大きく崩れることはありませんでした。多分、それは日本でも一緒だったのでは?

 コロナ禍であっても、そういう変わらぬ暮らしをこのお便りを通して書いてみたかった。だけど最終的には、資本主義・経済システムが生み出したようなコロナウィルスに、ティルさんは感染して亡くなりました。

 よその国で自給自足みたいな生活をしていた僕のような者は、国家や制度の前では通用しないようで、これ以上住む権利は与えられませんでした。
■ワラを喰う3頭の水牛

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 久しぶりに帰える実家への道中、近所のスーパー3軒がドラッグストア3軒に替わっていました。このお便り連載も、今後どうするか考えたいと思います。ご了承下さい。
              (藤井牧人)


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