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コラム 南から北から
「逆出稼ぎ」の兆しは未だ?


 10月18日、やっとわが家の稲刈りが終わりました。例年より1週間早く稲刈りが終わった周囲の田圃の中で、わが家のコシヒカリだけが「まだ青くて刈らんねえ」となったわけです。

 畑の方は、ノラの会の産直用野菜や、冬の加工品の原材料となる赤カブ、大根、人参、青菜などをみんなで分担して栽培し、11月~12月の怒涛の加工・販売作業に備えています。

 赤カブと葉物担当の私は、8月後半の播種期に雨続きで耕耘できない畑を前に、初めて、赤カブ、ほうれん草、春菊、アスパラ菜の種をポットに蒔き、育苗して、9月に入ってなんとか畑に定植することができました。今のところ順調に生育しています。気象の変化に応じて、生産者の試行錯誤が問われています。

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 白鷹町に地域協力隊員としてやってきて、その後、町職員になった若い女性が、今年の春、役場倉庫で「出稼ぎの記録」というスライドを見つけました。1965年に、当時22歳だった本木勝利さんが自ら撮ってまとめたものでした。神奈川県川崎市に先輩の農民らと一緒に出稼ぎに行った本木さんが、土木工事の現場や飯場で撮りためた写真を編集し、自ら解説した音声もオープンリールで残っていました。

 本木さんはその後、白鷹町で町議会議員を5期務め上げ、今も春は野菜苗づくり、夏は葉たばこの栽培をする農民です。

 この貴重な資料を何とか映画にしたいという声があがり、映画の製作委員会も立ち上がり、来春の完成に向けて編集作業が進められています。本木さんをはじめ、当時の出稼者や村に残された女性たちのインタビューなどの取材映像も加えられる予定です。

 1960年代初頭~1970年代、毎年2000人前後の白鷹町民が冬場に首都圏、中部・関西に出稼ぎに行きました。主には農民でしたが、それ以外の職種の人々もいたといいます。

 本木さん曰く「当時、集落には、豆腐屋、味噌屋など暮らしに欠かせない物を作る人たちがいて、それで地域が成り立っていた。「たが屋」(桶屋)というのもあって、生活の中で使う大小さまざまな桶を木で作って売っていた。しかし、60年代にプラスチックが入ってきて、たが屋はあっという間につぶれていった。 あれから60年、今ではプラスチックが溢れ、海までも汚染している。あの出稼ぎの時代が、地域社会だけでなく、日本全体を壊していく引き金となった時代だと思う」。

 当時は白鷹町人口の7割を占めていた農民が、私がこの町に来た1990年代初めのころには2割に、そして今では1割以下となりました。高齢化と少子化がこのまま進んでいけば、限界集落があちこちに広がっていきます。

 他方で、今年5月までの1年間に山形県で新規就農者となった人が357人(うち女性が94人)となり、過去最多となったというニュースも流れました(東北では6年連続最多)。コロナウィルスが今後の社会にどんな変化をもたらすかはわかりませんが、今のままでは未来は明るくなりません。

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 今年の稲刈りに、東京に住む次男が「逆出稼ぎ」にやってきました。同居の長男ともども、コンバインの操作も任され、父親と3人の稲刈り作業に汗を流しました。

 農村から都市へ家族と離れてお金を稼ぎに行った「出稼ぎ」が、都市から農村に、旨い米や野菜を育て収穫するために家族のもとに帰ってくるという流れへと転換する兆しは、まだ先のことでしょうか。

                                   (疋田美津子:山形県白鷹町在住)




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