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連載 ネパール・タライ平原の村から(115)
もう一度マミに会いたい

ネパールの農村で暮らす、元よつば農産職員の藤井牧人君の定期報告。その115回目。


 妻ティルさんが新型コロナに感染して4月29日に入院してから、5月7日に病院隔離室で亡くなるまで、唯一の同行者として付き添いました。最期、呼吸ができず歯をくいしばるように亡くなったティルさん。目を閉じてあげ、しばらくすると顔の緊張が解けたのか、この8日間で一番心地良さそうな表情となりました…苦しかったやろうなぁ。

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 行動規制下(ロックダウン)でしたが、許可車両ですぐに地元のプン・マガルの関係者2名がかけつけてくれ、死後の病院手続きを黙々と引受けてくれました。僕は隔離室を窓越しに眺めては、居ても立ってもおられず、何度も入室して遺体となった彼女のそばへ。遺体となっても愛おしく離れることができません。そして深夜、8日ぶりに家へ帰ると妻の母が泣き崩れました。戻って来たのは娘と違う方だけだったのだから。

 翌日、ガンジス河へつながるナラヤニ河沿いの軍キャンプのコロナ感染者用の火葬場でティルさんの遺体に僕は火を灯しました。昨日と全く同じ心地良さそうな表情で、顔を見るのはこれが最後だと思うと、愛おしくて胸が張り裂けそうでした。岸辺を離れても遠くから、何度も振り返りながら、彼女の頭が煤けてわからなくなるのを見届けました。

 遺体となったティルさんは、大勢の地縁血縁関係の人たちにお通夜から見守られ、バス2~3台でナラヤニ河ピトゥリの火葬場(地元地域の死者が火葬される場所)へ朝に向かうこともなかった。死後13日間、遺族がプン・マガルの親戚や近所の人たちに囲まれることもなかった。45日後の親族が集まり死者を送る儀礼もなかった。全く、みんなに愛されるティルさんらしくない最期でした。

 コロナ禍で、彼女は僕以外の誰からも付き添われず亡くなり、死後の葬送儀礼もネパールではありえないほどに簡略化されました。

 ティルさんの死から、ちょうど1ヶ月後の就寝時。いつも明るく元気にふるまう10歳の娘、ロージが寂しさと気持ちを抑え切れない表情をしていたので、「マミ(母ティルさん)を思い出したの? 僕も毎日思い出すよ」と語ると、「マッデビンドゥhospitalはどこなの? 近いの?」とロージは僕に問いました。

 最初にティルさんが僕だけ付き添って搬送された地元のコロナ感染者指定病院です。

 「ここから国道を車で15分くらいだけど、どうして?」と僕は聞き返しました。

 そしたら「救急車が来た時(水場の)蛇口で水を飲んでいたの」「救急車はすぐ行ってしまって…マミはそれで…そのまま(それきり)…」。

 ロージもティルさんの死が実感できず、どう受入れようかともがいている表現だったと思うのです。

 それでロージに「泣いてもいいんだよ」と、言っているのにロージは泣かないから、僕も涙をこらえました。

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■牛舎で、ロージ10歳とマヤ6歳

 先日の就寝時、蚊帳を張りながら遺影写真のティルさんを見つめて言いました。

 ロージ「マミも蚊にかまれるのかな?」

 僕「ハハ…かまれへんよ」

 ロージ「またババ(僕)写真だからとか言わないで」。 
               (藤井牧人)



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