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震災・原発事故10年の福島訪問③

ナタネ栽培で農地再生と地域復興を展望する

南相馬市・杉内清繁さんに聞く

 東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所事故から10年。震災と巨大津波、原発事故による前代未聞の放射能汚染は福島県の農業に大きな打撃を与え、一時は先行きの見えない状況に多くの農家を追い込んだ。そんな中で、この10年、ナタネ栽培を通じて地域復興の道を切り開いてきた取り組みがある。南相馬農地再生協議会の代表、杉内清繁さんにお話をうかがった。


ナタネ栽培による除染の試み


 福島県南相馬市。福島第一原発から北へ 20.5km、20km 圏の警戒区域からわずかに外れた場所に、杉内清繁さんの自宅はある。震災直後、地元中学校の体育館に避難していたが、外出先で採石場のようなドカンという轟音に驚いたという。福島原発3号機の水素爆発、2011年3月14日のことだ。それから放射能汚染というまったく未体験の状況の中で、一時は栃木県での避難生活も送りつつ、放射能汚染と向き合う農業のあり方を模索することになる。

 杉内さんが農業を営む地域は 1993年に大規模な基盤整備事業が行われ、農水省、行政、試験場、生産者が一体となって集落営農に取り組んだ。杉内さんはその一員として、水稲 10町歩ほどを担当。しかし少人数大規模経営の栽培技術は化学肥料、農薬を多投するもので、それに疑問を抱いた杉内さんは1998年ごろに有機農業に転換した。転換にあたっては、地域で様々な葛藤があったという。

■杉内清繁さん
 有機栽培による米作りを志すにあたっては、栃木県の民間稲作研究所の稲葉光圀さん(2020年ご逝去)との出会いから影響を受けた。稲葉さんは有機栽培による稲作の先駆者、伝道者でもあり、有機稲作を核とした環境保全型の農業を推進していた。原発事故後、杉内さんは稲葉さんの誘いにより栃木県で避難生活を送ることになる。栃木県の那須周辺も放射能汚染への対応が重要な課題となっていて、稲葉さんを中心に、ナタネ・大豆・ひまわりの油糧作物による植物除染が試みられた。(このあたりの経緯については本誌119号[2014年4月18日号]と131号[2015年9月30日号]を参照されたい)

 杉内さんは震災後 2011年の秋には南相馬でナタネの播種を行った。播種時期を逸したため、結果は期待に届かないものではあったが、被災地での一歩を踏み出すものだったといえる。放射能汚染の影響で見渡す限り雑草という風景の中、菜の花の景観は希望を灯すものだっただろう。菜の花やひまわりの栽培は、放射能に汚染された農地を除染する方法として試みられた。翌2012年の千有余年の歴史を誇る相馬野馬追いの郷土祭りで、例年の水稲に代えて、ひまわり街道で騎馬を送り出すという前代にない光景が実現した。ナタネやひまわりという油糧作物の実績を踏まえて、2014年には一般社団法人として南相馬農地再生協議会が結成された。


ナタネ油「油菜ちゃん」が誕生

 2015年にはナタネ油の製品として「油菜ちゃん」が出来上がった。命名は相馬農業高校の生徒たちの提案によるもので、ナタネ栽培における支援の輪の広がりを感じさせる。商品は 300cc と 900cc があるが、その年の生産は 300cc 換算で約 6000 本。販路は生活協同組合や名古屋の支援団体「チェルノブイリ救援・中部」の関連、それからイギリスのナチュラルコスメ・ブランドの LUSH(ラッシュ)など。被災地支援のために、LUSH はナタネ油を原料にした石けん「つながるオモイ(Drop of Hope)」を発売し、その販路として大きな位置を占めた。

 ナタネは土壌のセシウムを吸着し、農地除染の効果が期待される一方、絞った油には放射能は移行しないことが確認されている。また一方、日本で消費されるナタネの 99.9%はカナダやオーストラリアから輸入され、しかもその 87%は遺伝子組み換えだ。食糧自給の観点からも、食品の安全性や生産地における環境破壊の観点からも問題が多い。また、国内での搾油に際しては化学的な抽出が行われ、さらに脱臭・脱色のための熱処理、抗酸化剤が添加されている。油からビタミンEだけを抽出し、サプリなど他の用途に使われることもある。それに対して油菜ちゃんは常温での圧縮絞りだけ、脱臭・脱色もしていない。ただ価格は一般のものに比べて4倍ほどになる。値段だけではなく、表示されない価値についてもっと伝えていく必要があると杉内さんは言う。

 油菜ちゃんの販売状況について尋ねたところ、発売当時の売り上げと比較すると、現在は半分以下だそうだ。震災後の支援の熱気は良くも悪くも薄らぎ、平常の経済状況に落ち着いてきたということだろうか。ナタネ栽培に関しては、当初は農水省による景観植物栽培に対する支援だけだったのが、現在は国・県・市による経営所得安定交付金を受けることによって、大豆と同じレベルの支援を得ることができている(栽培は大豆、水稲、ナタネのローテ―ション)。しかし、交付金によってようやく成り立つ経営環境であることには変わりがない。

 厳しい経営環境に加え、昨年来の新型コロナ禍にで販売イベントなどが中止になり痛手も大きい。一方で、昨年には南相馬市内の小中学校の学校給食に採用され、市のふるさと納税の返礼品にも採用されている。一時途絶えていた LUSH との取引きも再開の動きがあり、明るい兆しも見えている。販路も、南相馬や飯舘、浪江の道の駅や常磐道のサービスエリアなど少しずつ広がりつつある。

 相馬農業高校のクラブ活動では、さらに油菜ちゃんの姉妹品として、油菜ちゃんマヨネーズ、油菜ちゃんドレッシングが開発され商品化されている。また変わったところでは、南相馬市の小高地区で唐辛子の栽培・加工・販売を手掛ける小高工房で、油菜ちゃんと唐辛子で作った辛油が販売されている。菜の花花見会で開催された料理教室ではオリーブオイルソムリエのシェフから加熱、精製なしの油菜ちゃんは絶賛され、食材としての可能性が実演された。
 ■油菜ちゃんと関連商品

 2018 年には福島大学の仲介で、南相馬市や国際ロータリー財団の支援によって、南相馬市内の仮設の工業団地内に自前の搾油所を開設した。それまでは、栃木県の民間稲作研究所が所有する搾油機のお世話になっていたが、昨年にはナタネの栽培から製品化までをすべて自前で行う態勢が整った。


地域コミュニティーの再興へ

 この10年、放射能汚染という未経験の災害に向き合う手探りの模索を続けてきた中で感じるのは「復興」の中身だと杉内さんは言う。ただ元に戻るのではなく、次の世代がこの地に関わり、この地で暮らし、この地で働くことができるよう、稲作の生産体系に加え、ナタネの栽培とナタネ油の販売、さらにその先の見通しを作っていきたい。それによって、原子力災害で寸断された地域コミュニティーを再生し、さらに発展させていきたいのだと。

 かつて南相馬地方には広く菜の花が栽培されていた。そんなに昔のことではない。福島県におけるナタネ栽培のピークは昭和32年(1957年)であり、8768ha にも及んだ。以降、低価格の油脂原料が輸入されることで、急激に菜の花の景観は消滅することになったが、南相馬の人びとにとってナタネ栽培は地域のコミュニティーを再興する際のシンボルともなるものだっただろう。

 ナタネの栽培面積は年々拡大し、南相馬市から飯舘、浪江、富岡でも栽培に取り組む人が現れている。総面積は今では100ha ほどに広がり、栽培技術も向上するとともに収量も増大している。生産の拡大に対して販売が追い付かず、現在は生産を抑えている状態だそうだ。販路のさらなる拡大が課題だ。

 農地再生協議会は地域の人びとや全国からのボランティアが集うイベントとして、秋の種まき会と春の花見会を開催している。相馬農業高校の生徒たちや地域の子どもたちも交えて行われるイベントは、地域に根付いた環境教育として評価されている。同時に搾油所の見学会や油菜ちゃんを使った料理会なども開催し、世代を超えたつながりをつくりだしている。地域のNPOで油菜ちゃんを使った石けん制作のワークショップなども行われている。


ウクライナにおけるチェル救の取組み

 ここで、南相馬農地再生協議会を物心両面で支える二つの組織とその運動について簡単に触れたい。ひとつはチェルノブイリ救援・中部(以下・チェル救)の取組みだ。旧ソ連のチェルノブイリ原発で史上最悪の原発事故、放射能災害が起きたのは1986年4月26日。場所はウクライナ共和国のプリピャチ。原子炉爆発によって大量の放射性物質が放出され、欧州各地はもとより、遠く離れた日本の大地も汚染された。野菜やお茶、牛乳などから放射能は検出され、原発事故のすさまじさを見せつけた。

 河田昌東(まさはる)さんを中心にしたチェル救はウクライナのジトーミル州にある放射能汚染地域ナロジチ地区で救援活動を開始した。そこは汚染レベルで「第二ゾーン(強制移住区域)」と「第三ゾーン(任意移住区域)」が混在する地域だが、今も1万人以上が暮らしているという。1990年に初めて救援物資をもって訪問して以来、医療・物資支援を行ってきたが、さらに同地区の農業を再生するために 2006年から取り組んだのが菜の花栽培のプロジェクトだ。

 植物を使って大気や土壌、水などから重金属や汚 染物質を除去する方法はバイオメディエーションと呼ばれる。菜の花の栽培でセシウムやストロンチウムなど放射性物質を除去しようとするものだ。菜の花から採取したナタネ油には放射能は移行しない。ナタネ油を加工してBDF(バイオディーゼル燃料) をつくり、トラクターの燃料として利用する。ナタネの搾りかすや茎・葉・根などは放射能を含むので、メタン発酵させBG(バイオガス)をつくり、最後は放射性廃棄物として処分する。

 しかし、菜の花栽培による放射能の除染効果は当初期待したような結果は得られず、息の長い取り組みが必要だと判明した。一方で、ナタネの裏作で栽培する小麦、ライ麦、蕎麦などには放射能がほとんど移行しないことが分かった。土壌から染み出る水溶性のセシウムなどをナタネが吸収するためだ。放射能汚染によって不毛の地とみなされていた大地に菜の花が咲き、BDFの生産が可能だという事実を見て、村人たちの間に希望が芽生えていった。

 2007年以降、様々な試行錯誤を経て、一応の成果を得ようとしていた5ヶ年計画最終年度の 2011年、東日本大震災と福島第一原発事故が起きた。

 河田さんをはじめチェル救は放射能汚染に対応するウクライナでの研究と取り組みの成果をもって、福島での活動を開始した。特に南相馬市では行政とも連携し、放射能測定所を設置、土壌や空間の放射線量を測定し、現地の住民たちとともに放射能汚染の詳細な実態を調査した。その中で杉内さんたち現地の農家や住民たちとともに南相馬農地再生協議会を結成し、活動を広めることになる。


菜の花プロジェクトの歩み

 もうひとつの取り組みは滋賀県における環境保全活動を原点とする「菜の花プロジェクト」だ。代表の藤井絢子さんによると、その歴史は琵琶湖に淡水赤潮が発生した 1976年に始まる。周辺の事業所、農地、家庭からの排水が琵琶湖に大量に流れ込んだ結果、湖は富栄養化し、赤潮の発生となった。琵琶湖の水環境を改善するための一環として、合成洗剤の使用を止めて石けんを使う運動が展開された。石けんの製造のために廃食油の回収が取り組まれた。

 1992年のリオデジャネイロで行われた「環境と開発に関する国連会議(環境サミット)」を契機に、廃食油を再利用することによってBDFを精製する、エネルギー自給の方向に活動を展開していった。

 さらに 1998年には滋賀県愛東町(現、東近江市) で菜の花栽培の実験事業が始まった。転作田を利用して菜の花を栽培し、搾ったナタネ油を食用に使った後、廃食油を回収し、BDFに利用して循環させる。「地域のことは地域で解決する」を理念に、「食とエネルギーの地産地消」を目指す。ナタネ油から作ったBDF燃料はCO2排出が実質ゼロであることも付け加えておかなくてはならない。ナタネが生育途中に吸収したCO2と差し引きゼロになるからだ。

 2001年には全国各地域の活動を結集して、第1回全国菜の花サミットが開催された。その場でNPO「菜の花プロジェクトネットワーク」が結成され、同時に「菜の花サミット宣言」が採択された。

 藤井さんたちの菜の花プロジェクトがチェル救の活動と交わったのは 2007年ごろのことだという。翌2008年には菜の花サミットにチェル救も参加し、放射能汚染のために食用作物を栽培できない土地でエネルギー作物としての菜の花を栽培し、同時に植物による除染を行うという菜の花プロジェクトのもう一つの可能性が見いだされた。

 菜の花サミット宣言から10年後の2011年、東日本大震災が起きた。藤井さんたちは、これまで菜の花プロジェクトが育んできた知見を被災地に届けるために福島県での活動を始めた。2012年の9月には南相馬の萱浜(かいばま)で地元住民たちとともに菜の花の播種を行った。滋賀県が発祥の取り組みが、チェル救の取り組みと出会い、南相馬の農家や住民たちと合流することによって、南相馬における菜の花の取組みが進められることになる。


「油菜のさと」プロジェクト

 杉内さんの自宅事務所でナタネ栽培や油菜ちゃん製造をめぐるお話をうかがった後、試作中のBGプラントを案内してもらった。

 2019年10月の台風19号では付近の大田川の堤防が決壊、濁流が溢れ、自宅は床下浸水、農園のハウスも一部取り壊しを余儀なくされたという。自宅の泥からは2700ベクレル/kg の放射能が検出された。床下は放射能除染の対象外だったためだ。台風による災害が、改めて原発事故による放射能汚染という事実を見せつけたかのようだった。

■バイオガスの実験プラント
 被災後のハウスの一棟を使って、実験的な小型のBGプラントの建設を始めた。三井物産環境基金の助成を受けたものだ。BGプラントは「油菜のさと」プロジェクトの一つのキーとなる施設だ。油菜のさとプロジェクトはナタネ栽培から油菜ちゃんの製造販売という取り組みをさらに拡張するもので、主として4つのテーマに沿って進められている。それは、クリーンエネルギーの創出と地域自立、資源循環、農地再生、そして食と農の安全追求である。具体的には、ナタネ栽培による植物除染、遺伝子組み換えの輸入ナタネに代わる国産のナタネ油の生産、搾りかすから作るBG、産出される消化液の農地への還元がその内容だ。2019年には油菜のさとプロジェクトを推進する情報交換のための検討会「油菜のさと 環境フォーラム」も始まった。

 BGプラントは実験的な小規模のものでも1000万円近くもかかるが、セルフビルドで組み立てて、200万円ぐらいで完成した。ナタネの搾りかす(25~40ベクレル/kg)に牛糞を混ぜたものを、メタン菌で発酵させてメタンガスを発生させる。ナタネの搾りかすと牛糞の適正な配分を探って実験を進める予定だ。42~43度で発酵し、最後に脱硫装置を通して、メタンガスを取り出す。消化液は放射能を取り除いた後、液肥として圃場にもどす。BG ができればガス灯をともし、BGでカフェのコーヒーを淹れるなど、確かな希望も灯り始めている。


菜の花プレサミット in 南相馬

 杉内さんのお話をうかがったのは、4月2日。同月の24日には「3.11 から10年目の菜の花花見会」~菜の花プレサミットin南相馬~が開催された。

 全国菜の花サミットは 2001年から毎年開催され、南相馬でも2017年に開催されている。今年は栃木県小山市で 4 月に開催される予定だったが、コロナ禍の影響で延期になり、そのプレサミットとして南相馬で開催される運びとなったものだ。しかし、やはりコロナ禍のために菜の花花見会は中止になり、プレサミットも会場を南相馬駅前の双葉屋旅館に変更し、オンラインでの開催となった。

 菜の花プロジェクトネットワークの藤井さんの司会で、杉内さんの開会あいさつの後、農地再生協議会の奥村健郎さんから南相馬でのナタネ栽培から油菜ちゃんをめぐる取り組みの経過報告と、南相馬での地域復興のさまざまな取り組みの紹介があった。特に印象的だったのは、萱浜地域の圃場で2012年から行われている「菜の花迷路」の取り組みだ。復興浜団というグループの主催で例年ゴールデンウィークの期間中に行われ、1万人もの家族連れや子どもたちで賑わうという。復興浜団は津波被災地の萱浜地区で行方不明者の捜索にあたった地元消防団を前身にして結成された。がれき撤去や草刈り、また旧警戒区域での捜索活動などにも従事している。浜団の上野敬幸さんは津波で両親と子ども2人を亡くしたという。子どもたちやみんなに笑顔を届けたくて菜の花迷路を始めた。復興浜団では追悼復興花火大会も行っている。これまでの経過が『Life 生きてゆく』というドキュメンタリー映画にもなっている。「3.11から10年目の菜の花花見会」はその菜の花迷路で行われる予定だった。

 ここでは紙幅の関係でこれ以上プレサミットに触れることができないが、ぜひYouTube で視聴していただきたい。(「10 年目の菜の花花見会」で検索)


夢と現実のはざまを歩む

 「たいへんですよ」と杉内さんが言う、その言葉がいまも頭に残っている。

 南相馬農地再生協議会は一般社団法人として組織され、営利・非営利両方の活動を担っている。各方面からの支援の受け皿でもあり、そこでは様々な提案がなされている。いろいろな人が入ってくるし、いろいろな発言に振り回されることもある。そのような中で、事業として六次化の取組みをやっていかなくてはならないのだと、杉内さんは言う。実際の事業の内容をどう固めていくか。他の場所でやっていることの真似事ではなく、この地域の実情に合った取組みを進めていかなくてはいけない。行政や研究者からもいろいろな提案があり、それは貴重なことだけれども、自分の領域以外のことまでは踏み込めない。しかし、事業を進める当事者はそういうわけにはいかない。なんとしてもやり通すという気構えと信念がないとやっていけないのだと。

 杉内さんは現在、南相馬農地再生協議会とアグリあぶくま株式会社双方の代表を兼任している。ナタネ栽培とナタネ油の製造という実業の部分をアグリあぶくま株式会社が担い、各方面からの支援の受け入れや社会に活動を広げていく部分を農地再生協議会が担う形で整理を進めているようだ。

 杉内さんは、決して声を荒げることはなく、またいたずらに悲観することもなく、訥々とその展望を語るのだった。そこには先行きの見えない放射能汚染に立ちすくみつつも、一歩一歩進めてきた取り組みの、決して思い付きではない重たさがあるように思う。それはこの10年の取り組みの中で培ってきた信念のようなものかもしれない。

 ナタネ栽培を軸にした農地再生・地域復興の取り組みは将来の循環型社会の創出を見据えた素晴らしい取組みであるし、その夢を語ることは大切なことだと思う。しかし、むしろ私たちが学ぶべきは、訥々とした杉内さんの言葉にも似た日々の営みであり、言葉を形にしていく着実な一歩一歩ではないか。
 ■油菜のさとプロジェクト概念図

 震災から10年が過ぎた。節目の時期を除いては、東日本大震災と福島原発事故が人びとの話題に上ることも少なくなっている。ましてや支援の具体的な動きは途絶えがちだ。外からの支援に頼るのではなく、地域の足元から実質的な自立の歩を進める時期に入ってきているのだと、杉内さんは考えているのだろう。とても難しいと何度も言いながらも、次のステップを踏み出そうとしているように思った。

                 (下前幸一:当研究所事務局)


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