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㈱丹波協同農場訪問 報告
中山間地で自前の穀類生産を
集落と協同して農業・地域の活性化を展望

 兵庫県丹波市春日町にある㈱丹波協同農場は関西よつ葉連絡会の生産農場の一つであり、水田転作による大麦・小麦と大豆の栽培を中心に、地域に腰を据えて営農を続けている。かつては生産不振と累積債務に苦しんだものの、15年目を迎えた現在、自らの役割と進むべき道に揺るぎはないように見える。設立からの経緯、現在の状況、さらに今後の展望について話をうかがった。


 兵庫県東部の内陸に位置し、京都府と境を接する丹波市。2004年に旧氷上郡の6町が合併してできた比較的新しい市だ。その一つ春日町はJR福知山線や国道175線、舞鶴若狭自動車道が通るなど交通の便もよく、国道沿いにはパナソニックはじめ大小の工場も散見される。とはいえ、地勢は全体に山がちで、里山に囲まれた田畑が広がるなど、いかにも中山間地ののどかな雰囲気を醸し出している。

 そんな春日町の西部、古河地区に拠点を置き、主に大麦・小麦と大豆の穀物生産を行っているのが㈱丹波協同農場である。とはいえ、現在の社名になったのは4年前の2017年。それまでは㈱世羅協同農場と名乗っていた。というのも、そもそも2008年に広島県の中東部、世羅郡世羅町で設立された経緯があるからだ。2008年から2013年までは広島を拠点に、2014年からは兵庫に拠点を移しつつも社名は継続し、2017年になってようやく場所と社名が一致することになった。

 ㈱世羅協同農場は、もともと島根県の㈲やさか共同農場からの提案の下、関西よつ葉連絡会との共同事業として発足した。輸入に依存している麦や大豆などの穀類を自前で生産し、自前の加工を通じて消費者に届けるとともに、中山間地における新たな農業のあり方を確立するとの気宇壮大な試みである。詳しい経緯については、いずれ㈲やさか共同農場前代表の佐藤隆さんにうかがう予定だが、ともあれ共同事業の発足にあたって関西よつ葉連絡会側の担い手となったのが、㈱丹波協同農場現代表の近藤亘さんである。

 近藤さんは1973年、大阪府高槻市に生まれ育ち、かつては関西よつ葉連絡会の㈱淀川産直センターで会員への配送業務を担当していた。そんな近藤さんが、食べ物つながりとはいえ文字通り畑違いの農業に、なぜ取り組むことになったのか。

 「母方の実家が代々熊本の専業農家で、就学前はよく預けられていたし、学校に入ってからも休暇のたびに滞在していました。叔父さんにはいつも「百姓はええぞ!」と言われていました。だから、農業への憧れは子どもの頃から持っていました。」

 個人的な苦境もあって心機一転、新天地での新たな取り組みに加わることになったという。

 とはいえ、日本の中山間地で穀類生産を事業として成り立たせるのは至難の業、ある意味ドン・キホーテのような挑戦だ。躊躇はなかったのだろうか。

 「僕は世羅での最初の1年、佐藤さんと365日寝食ともにしましたが、それはちょうどリーマンショックの年に重なりました。世界が転けてしまってどんな未来があるか分からない、そんなときだからこそ中山間地で麦・大豆を作るなんて、むしろ夢があると思ったし、これがきちんとできれば、日本の中山間地も可能性が見出せると思って、人生賭けても面白いなと考えたんです。その意味では、むしろやりがいを感じたというか……。」


思うに任せない日々

 ところが、現実には思うに任せない日々が続く。佐藤さんの計画では当初、麦と大豆の二毛作を中心に加工用トマトや根菜類などを加え、それほど大規模でなくとも採算が取れると見込んでいたという。しかし、実際にやってみると二毛作は難しかった。大豆なら一反(約10アール)あたり200キロ、大麦なら同じく400キロ強の収穫目標を達成することは容易ではなかった。

■近藤亘さん 仕事の要となる乾燥機の前で
 その大きな要因は気候だという。世羅町は全体に高原地形だが、気候区分としては温暖な瀬戸内気候に属する。そのため、日本海気候の島根では難しかった二毛作も世羅なら可能だろう。そんな想定で始動したものの、最終的には無理だとの判断を迫られることになった。

 とくに悩まされたのが連作障害とのこと。一般に連作障害とは、同じ科の作物を同じ圃場で繰り返し作ることによって土壌の栄養や微生物のバランスが崩れ、作物が生育不良になることを指す。二毛作のように別の科の作物を組み合わせれば抑制可能とされるが、理論どおりにはいかなかった。

 「気候条件の影響なんかで収穫が遅れると、次の作物の播種が遅れ、播種が遅れるとまた収穫が遅れ、収穫が遅れるとまたまた播種が……というように、どんどん適期作業ができなくなっていくわけです。もともと(麦と大豆の二毛作は)四国とか九州とかでやられている栽培体系で、本州ではなかなか二毛作をやっているところはないんじゃないですかね。

 収穫適期が遅れると、次の作物の初期生育が遅れますよね。そうなると分蘖に影響してきます。一粒の種からいかに分蘖させて穂の数を増やすか。そこが収量を上げる上での勝負なんですが、そのためには、その土地その土地に適した時期に播種しないとダメなんです。」

 もともと土地利用型の穀類生産の場合、ある程度の面積がなければ経営が成り立たない。二毛作はそれを克服するための手立てだった。その二毛作が難しいとなると、残された道は単作しかない。ところが、単作でも採算が取れる収量を確保しようとすれば、営農面積の拡大が必須となる。

 ところが、世羅では農地の拡大が見込めなかった。近藤さんによれば、世羅町はナシ園やリンゴ園、芝桜などの観光農園がいくつもあり、行政としては農業生産そのものに力を入れるよりも農業の六次産業化に対して集中的に支援していたこともあり、地域的に農地の拡大を促す動機づけが薄かったのではないかという。

 また、㈱世羅協同農場が借りた圃場は、もともと国営のパイロットファームとして山林を開拓して作られたため、地域からは切り離された状態にあったことも影響しているようだ。

 「いまとなれば、ということですけどね。僕は地元の人間でもないし、農業はしているけれども農家ではないということで……。ほとんど工場に勤めるような形で農業をしていましたね。当時はそれが当たり前だと思っていたんですが。

 いまから振り返って、世羅にいた時に集落に入っていたなら、たとえば農地の拡大にしても情報をもらえたかもしれないですね。ここ(丹波)へ来たのも、もともとここの牛舎のオーナーの方がいらっしゃったからだし、その信用で農地を広げていけた面もあった。集落の重鎮みたいな人と仲良くできれば、正直だいぶ環境が変わりますね。」

 その結果、世羅での6年間で債務が累積することになった。

 「結局、収量が上がらないから返せない、けれど運転資金は借りなくちゃいけないということになってしまったんですね。当時は複数の職員もいたので、給料分は何としてもかき集めないといけない。

 資金繰りはしんどくて、自分の預貯金もすべて使ってしまいましたが、それよりも収量を上げるとか、キッチリものを作るとか、そちらの方に集中して、あまりお金のことは考えなかったのも事実です。」

 ともあれ、面積を拡大しなければ営農の継続は難しいものの、さりとて世羅ではこれ以上農地の拡大は見込めない。限界待ったなしとなったのが2013年あたりだという。それから1年ほどで拠点を丹波に移すことになったが、それは単なる偶然ではない。


丹波への移転

 そもそも、縁もゆかりもない余所者が農村で農地を借りるのは難しい。その点、丹波ではすでに2009年、能勢農場が既存の牛舎を「居抜き」する形で仔牛の哺育現場(現・春日牧場)を立ち上げており、牛舎の所有者と面識を得られる関係にあった。

 「そのオーナーさんがある程度の面積の農地を持っていて、しかも高齢で、今後この集落でも耕作放棄地が増えていくのではないかといった話をしていたんです。そんな話を聞いて、僕としては、農地拡大が見込めるし、能勢農場と一緒にできる可能性もあるし、ここならそれほど設備投資も要らないということで飛びついたわけです。」
 ■古河地区の風景

 10ヘクタールを目標に、当初は2ヘクタールから出発した。もっとも、牛舎オーナーの後ろ盾があったとはいえ、右から左というわけにはいかない。

 「農地を貸して下さるというのは、やっぱり村とのいろんな関係が……。たとえばこの村でいうと、4つの株があって、そこからの新宅(分家)があるし、株の間でも婚姻関係があったりして、すごく複雑な親族関係なんですね。だから、いい農地はもれなく親族関係の中で誰かが引き受けて、僕みたいな新参者には「あ~、あそこはつくれんぞ」というところが回ってくる。だから、面積そのものは広がったけれども、すべて麦・大豆が作れるのかといえば、なかなか……。」(「株」とは血統に基づく家系を意味する。)

 それでも、6年がかりで地元に6ヘクタールの圃場を確保することができた。一昨年までは隣の市島町でも2.5ヘクタールを借りていたが、自宅からの移動距離や作業効率などを考え、すでに返却したという。近藤さんは、今後も地元で面積を拡大できる可能性はあると見ている。

 こうして、㈱丹波協同農場の圃場は現在、春日牧場の周辺に集約されている。一帯は平地で整然と区画整理され、一見すると営農に適した環境のように思える。ただ、稲作と異なり水はけが必要な麦の栽培にとっては難しい部分もある。広島世羅の圃場は畑作用だったが丹波・春日は水田。いわゆる水田転作による麦・大豆の栽培となる。

 ところが、「古河」の地名に示されるように、黒井川の北側一帯に広がる圃場群は基本的に粘土質で、水はけがよくない割に水持ちも悪いとのこと。1970年代初めに国の基盤整備事業でできた水路は50年近く経過し、老朽化のためつなぎ目から麦畑に容赦なく水が侵入してくる。

 「麦で言えば収量は世羅の半分になりましたね。でも、逆に大豆は水があった方がいいんで、こっちは作りやすくなりました。」
 とすれば、丹波に移って状況は改善されたのだろうか。

 「こちらに移ってから、債務は増えていません。設備投資の上で必要な借り入れはあっても、期中に借りて期中に返しているんで、その意味では改善されています。赤字は出ていますが減価償却分くらいで、「まずまずやれている」という実感はありますね。

 財務諸表で見る限り「全然ダメじゃないか」と言われるのも確かだし、(大豆の後に)麦が播けなかったりしたのも事実です。ただ、現場でやっている者の実感としては、それなりの理由があって、たとえば麦が播けなかったのは二毛作に固執し続けたことが原因なんですが、それは前向きにチャレンジしてきた結果でもあります。

 だから、その失敗を踏まえて二毛作を見合わせ、単作に切り替えた結果、予定どおりに播種できるようになりました。その意味で、僕としては単なる失敗ではなく、あくまで試行錯誤の過程と捉えているんですが、事業とか経営の観点から見れば誉められたものではないでしょうね。」

 もちろん、現状では営農面積の問題から完全に二毛作をやめたわけではないが、作物の生育状況に応じて大胆な判断できるようになったということらしい。これも経験のなせる業だろう。

 「そうですね。この時期を超えたら播いてもダメ、いまの土の状態ではダメといった決断はできるようになりました。もちろん、もっとベテランの人からすれば別のやり方があるのかもしれません。それに、本来は「ダメ」となる前に手を打たないといけないわけで、そうできるように、もっと経験値を上げないといけない。

 (世羅の)当時は職員もいたので、絶対に播かないと収穫できない、売り上げがたたない、資金繰りができない、また頭を下げて借り入れをしないといけない。それが恐くて、いくら遅れても次の種は落としていたんですが、それも収量が下がっていく原因だったですね。」


深まる地域との関わり

 広島世羅の時代と比べて大きく変わったことの一つが、地域との関係である。

 「こちらに移ってきた当初は、(春日牧場の一角にある)事務所にベッドを置いて暮らして、結婚してからは隣村のアパートで暮らしていましたが、その後、村の人からの紹介で「空き家があるから住まないか?」と声がかかりました。村入りしたのは2016年です。」

 農村では、空き家があってもなかなか他人に貸したがらないと言われる。しかし、近藤さんの場合、春日牧場を通じて素性は知れており、日常的に仕事をする中で地域の人々と触れ合う機会も増えていく。そうした中で、同じ集落の一員として認められたということだろう。

 「農作業していると、小さなトラブルって付きものなんですよ。昨日も田んぼで田植機をひっくり返していた人を助けてあげたりとか。トラクターのエンジンがかからんようになっているのを見てあげたりとか、そういうのの積み重ねでしょうね。」

 現在は自治会、農会(農家組合)、環境保全会、集落営農、青年団、消防団など地域の諸団体に参加し、営農の傍ら集落のために奔走する毎日を過ごす。集落には溜め池、水路、農道、公民館、墓地、山林、神社、寺といった公共財(施設)があり、その維持管理には「日役」と呼ばれる住民の労力奉仕が欠かせない。

 「村の中でいろいろ役もしているんで、かわいがってもらってます。ずーっと村の中で仕事しているでしょ。だから、“なんかあったときに助かるわ”という立場なんですね。」

 村入りして5年、その間の地域との関わりを振り返り、近藤さんは「農業者と農家の違いを改めて気付かされる日々です」と記している。(「集落で協同するということ」『農場だより』第125便、2021年3月29日)

 ちなみに、広島世羅から移転するきっかけをつくった能勢農場春日牧場との関係はどうだろうか。

 「農場との連携について言うと、もちろん忙しいときに手伝ってもらったりはしますが、日常の仕事での連携はほぼないですね。お互い忙しすぎて、農場も手が回ってないし、僕も一人なんで。

■麦の刈り入れに向けてコンバインを整備する
 だから、僕の役割としては集落との“顔つなぎ”ですね。基本的に、生活している人にとって牛飼いは歓迎されるものではなくて、糞尿の臭いとか道路が汚れるとか……。そんなのを事が大きくなる前に収めるというか、村の人もイザコザはいやなんで、「自治会長の名前で言うより、あんたの口から言うてくれんか」ということで、ある種の調整役になっています。日役がある前に「草刈っときや」とか「溝掃除しときや」と言ったり。」

 畜産の側からすれば、頭が痛いのが糞尿の処理だ。堆肥にすることで当座はしのげるが、あっという間に滞留してしまう。近場で利用先が見つかるれば、ずいぶん助かるだろう。

 「この辺りでは、結構多くの農家に農場の堆肥を使ってもらってます。この村の農地は全体で30町歩ほどあって、そのうち僕が6町お世話になっているんで、残りは24町歩。その半分ぐらいは農場の堆肥を入れていると思います。そういうのをつないでいるわけです。」


親族関係で相互扶助する集落

 さて、 近藤さんによれば、古河地区は全55世帯のうち非農家は8軒。いずれも、かつては農家だったが、すでに田畑は親族(株内)に譲渡しているという(ちなみに、近藤さんも行政区分としては非農家である)。専業農家は畜産2軒に稲作3軒の計5軒、残りは兼業でほとんど稲作である。もっとも、専業の稲作3軒も定年退職組で、農業一本で来たのは畜産の2軒だけだそうだ。

 「農家の平均年齢は60~70くらいですかね。僕がいま48歳ですが、一番若手でしょうね。親が元気なうちは、子どもは勤めに専念して、やるとしても手伝うくらいです。やっぱり、「船頭が2人おったらもめる」って。親が引退したら、子どもらが受け継いでやるわけですね。」

 「いま、僕より5歳ぐらい年上の兼業農家が2人いて、この2人が3町歩ずつくらい(水田を)やってます。合わせて6町、僕が6町で12町歩。村全体で30町歩なんで、残り18町はいますぐにどうこうという話にはならないと思います。あと村外からも入ってきてますね。なた豆茶をやっている小山園さんとか、もともとJA出身で大規模に米づくりを手がけている人もいます。そこは近隣の村を合わせて30町歩ぐらいやっているそうです。」

 もっとも、近畿中山間地のご多分に漏れず、古河地区も農業で明るい展望を描けるような状況とは言い難い。集落の将来に関する話などはなされているのだろうか。

 「ウチ(㈱丹波協同農場)に成功してもらいたい、という話にはなりますね。村からすれば、何か(株内で世話できないような状況が)あっても、借りて有効に使ってもらいたいということだと思います。」

 ただ、現状では次の代とか株内とか、それなりに引き受け手が想定できる状態なんで、近い将来どうこうなんて話は出ませんね。この村は株内の力が強くて、田畑の管理を怠っていると「そんなんやったら、わしが面倒見たる」というような話も耳にします。だから、代替わりしてすぐに耕作放棄地になるとは考えにくいですね。
 逆に、いま自治会の下部組織で集落営農もしているんで、何かの拍子に村の人から「もう会社辞めて集落営農で村の田畑を管理してくれんか」と言われたりすることもあります。僕としては基本的に共存共栄で、村は水田、僕は転作の麦・大豆で回していけたらいいんじゃないか、連作障害も防げるし、と思っているんですが……。」

 目標とする10ヘクタールまでは、あと4ヘクタールある。「農業者」から「農家」となり、集落全体にも一定の責任を持つ立場となった以上、自分の事情だけを考えるわけにはいかないが、長期的に見れば、集落内での規模拡大は十分あり得るとのことだ。

 「僕はいま地域の環境保全会の事務局長をしていることもあって、この村で水番(水張り当番)に出る回数が一番多くて、どこの田が水持ちがいいとか、水はけがいいとか、熟知しているんですね。もちろん誰の田んぼかも知ってるんで、言葉は悪いけれども「あと5年ぐらいで借りれるんちゃうかな」なんて目星をつけたりしています。」

 現在、㈱丹波協同農場は代表の近藤さんが1人で切り盛りしている。人件費の抑制も経営改善の一つの要因と言えるが、これから営農面積を増やしていくとなると、1人では厳しいのではないだろうか。

 「実は現状でも1人では回らないことが多いです。本当はもう1人雇いたい。だけど、社長と社員が1対1の会社ってうまくいかないと思います。お互いストレス溜まるだろうし。もちろん給料の問題もあります。人を雇うなら、もっと面積を増やさないといけないし、今の倍ぐらいで何とか給料出せるかどうか。かといって、人を増やさないと規模も拡大できない。鶏が先か卵が先かみたいな話ですが、どこかで突破しないといけないと思っています。」


よつ葉の生産の一角を担う

 一方で、関西よつ葉連絡会の農場との位置づけもあり、収穫物の売り先が確保されているのは大きな優位点である。

 「麦と大豆の使い道としては、大豆はすべて別院食品の豆腐に使っています。大麦は収量によって変わりますが、少なければ全量押し麦に、多ければ麦茶にも加工します。ある人からは「あんな高い麦茶、誰が買うんじゃ!」なんて言われたこともありますが、味や品質は評価されています。小麦は全量パラダイス・アンド・ランチのパンに使っています。今年はいい感じにできていますよ。」

 別院食品、パラダイス・アンド・ランチはいずれも関西よつ葉連絡会の加工部門だ。原材料の生産から加工、流通、消費までをできるだけ身近な範囲かつ自前で賄うことは関西よつ葉連絡会の目標の一つでもある。部分的ではあれ、その目標を実現するために㈱丹波協同農場が重要な役割を果たしている事実を改めて指摘しておきたい。

 今回、㈱丹波協同農場を訪れたのが5月初め。圃場には大麦・小麦がすくすくと育ち、下旬からの収穫を待ち受けていた。栽培面積はそれぞれ230アールずつ。水はけの具合によって苗の粗密、色味(育ち具合)が異なる。

 麦の収穫が終われば、6月からは大豆の播種が始まる。夏の雑草に負けないよう、草刈りが勝負のカギを握る。やがて秋が深まる11月下旬には大豆の収穫を迎え、収穫後は再び麦を播種する。これが理想的な段取りだ。

 広島世羅の時代には消費者会員との交流もかねてニンジンやジャガイモなどの根菜類も栽培していたが、現在は品目もかなり絞られ、麦と大豆のほかにはタカノツメやポップコーンがあるくらいだ。
 ■整然と植えられたポップコーンの苗

 「これは、もともとやさか共同農場がやっていたのを、世羅協同農場を通じて引き継いだものです。やさか共同農場では、農繁期には(ビニール)ハウスもたくさん稼働して、地元のお年寄りを調整作業に雇用していますが、雪深い冬はやることがなくなってしまう。

 佐藤さんとしては、だからといって季節労働者みたいな扱いはできないということで、安定した収入を保証するために冬にもできる仕事を考えてやるようになったそうです。言わば、人を遊ばせないために作った仕事ですね。

 いま僕は人を雇ってはいませんが、僕にとっても冬の間に仕事があるのはありがたいんですよ。年中売り上げが立つのは大きいですから。」


栽培技術体系を確立したい

 では、今後の展望をどう考えているのか。近藤さんに率直に聞いてみた。

 「一つは、財務状況の改善です。これまで、過去の累積債務を塩漬けにするつもりはないけれども、収支トントン、プラスいくらかになればいいんじゃないかという感じでいましたが、株主総会や役員会で“それじゃダメだ、この財務状況はこれ以上放置できない”といったご指摘を受けました。そこで、いろんな方に相談したんです。

 その中で、地場四地区がやっているような手数料収入でもなければ財務の抜本的な改革は難しいだろうということで、まず能勢で長い間やられてきてノウハウのある米の集荷をここでも始めてみたらどうかという話になりました。」

 関西よつば連絡会では、拠点とする北摂地域の近隣、大阪府北部から京都府にかけての中山間地四地区で農家グループとの間で、協議に基づいた農産物の取引関係を形成している。集荷の実務を担うのは各地区の法人組織であり、集荷手数料を基盤として生産や連絡調整など、地域農業の維持発展に向けた仕事を行っている。こうした事例を踏まえ、㈱丹波協同農場も地域で同じような役割を担うことができれば、それ自体が事業の発展でもあり、同時に気象条件などに左右されない財政基盤が確保できるとの考えである。

 「ただ、村の人とも話してみたんですが、ここはほぼ縁故米で完結しているそうなんですよ。逆に言われたのが「お前から手を挙げたらアカン」と。村の人が困って、「近藤なんとかしてくれや」と言われて、はじめて「やりましょか」という形でないとマズい、と。というのも、僕と村の人が商売相手になってしまって、村との関係が微妙になる可能性が大きいからですね。「俺んとこの米を(等級)2等とつけられるか?」と言われました。だから、能勢とは事情が違うということで、いまのところは頓挫しています。」

 すでに集落の一員となった近藤さんに対する当然の忠告と言えるだろう。その一方で、実は近藤さん自身にも割り切れない思いがあるという。

 「手数料収入が入って、売り上げの規模が大きくなれば、多少は設備投資もできるだろうという想定で、たしかにそれはその通りなんですが……。自分の中では、現時点で麦も大豆も自分なりに栽培技術体系が完成して、それでも現状の収量なら次の手を考えないといけないのは分かるんです。

 でも実際には、とても完成したとはいえません。これまで固執してきた二毛作をやめて単作を始めたばかりなんで、もう少しこちらの方に集中して、これでどうなのか見定めたいと思っています。

 経営者としては、本来は、それと並行して次の手を考えるべきなのかもしれませんが、まずは単作の結果を見極めたいんです。しょせん一人だし、いろんなことに手を出しすぎても、というのもあります。

 だから、中長期的な展望を問われたら、基幹の麦と大豆をきちんと作って、この土地での栽培技術体系を確立させる、ということになりますね。それが達成できれば、すごく儲けが出るわけではないけれども、一定の利益が出せる会社にできると思っています。自分の給料もちゃんと取った上で、穀類栽培で単年で黒字が150万とか、そこまでいけば大成功だと思っているんですよ。

 そうなったら、もしかしてここで同じようなことをしたいと考える人が現れたり、自分のところで試してみようと思う人も出てくるかもしれない。自分自身も成功したいけど、他の人から見ても「したいな」と思えるようなことをやりたいっていう気持ちも強いんで、「なんや、結局は手数料収入かいな」って言われるのは釈然としなくて。

 そんなこだわりは経営者としてはダメなのかもしれないけれど、僕としては「麦と大豆でこの会社を経営してます」って胸を張って言いたい。そこが未だに捨て切れていないですね。

 せっかくよつ葉とやさかが出会って、それこそドン・キホーテのような試みを始めたわけなんで、何とか成功させたい。そういうことに魅力を感じる人が来てくれたり、後に続いてくれたらな、と思っています。」


大きな課題を背負って

 ㈱丹波協同農場が栽培の主力とする作物、麦と大豆については、農水省から「水田活用の直接支払交付金」の名称で補助金が交付されている。近藤さんによれば、その額は単作で10アールあたり3万5000円。二毛作の場合には、これに1万円が加算されるという。

 日本の農業・農村は長きにわたり水田稲作を中心として組み立てられてきたが、1960年代には供給が需要を上回る状況を迎えた。そのため、1970年から「減反政策」が導入され、2017年まで継続されることになった。

 農水省としては供給超過を防ぐために稲作を一定規模に抑制したいが、行き過ぎると営農条件の不利な中山間地で農地が維持できず、農村の崩壊を招いてしまう。そこで、水田を維持しながら米は作らせず、麦や大豆など需要がありながら大部分を輸入に依存している作物(戦略作物)への転作を誘導することが求められた。「交付金」の背景は、こんなところだろう。

 「農家を支持基盤とする議員さんたちにしたら、交付金をなくすと票が取れなくなることも大きいと違いますかね。とくに北海道なんか、麦と大豆の補助金がなくなったら大変ですよね。」

 近藤さんはそう指摘するが、そうだとすれば、中山間地での穀類生産もまったくの夢物語というわけでもないのではないだろうか。

 「そうはいっても土地利用型なので、やっぱりある程度の規模でやらないと成り立たないですね。何のかんの言って、麦にしろ大豆にしろ、面積あたりの売り上げ単価は極端に安いですから。ここらの人も「米なんて儲からん」てよく言いますけど、それでもお米の方が単価は高いですからね。交付金がなくなれば作る人はいなくなるでしょうね。」

 作る人がいなくなるほど単価が低いのは、やはり海外産と比べて価格競争力が甚だしく劣るからだ。大豆でいえば、米国にせよブラジルにせよ、圧倒的な規模の農地にラウンドアップ(除草剤)と遺伝子組み換え種子を組み合わせ、工業製品のように生産を行っている。しかも、輸出を促進するための補助金も大盤振る舞いだ。まさに「戦略作物」の名にふさわしいと言えるだろう。

 「ただ、いまラウンドアップの健康被害の問題とか、輸入小麦の残留農薬の問題なんかが話題になっていますよね。それに、従来の防除体系で作りづらくなった場合には、海外の大豆や小麦の単価も上がるかもしれません。現在の収量があっての低い単価ですから。」

 こうしてみると、㈱丹波協同農場が果たすべき役割は想像以上に大きいことが分かるだろう。

 もっとも、巨大な役割を背負いながら、現実の歩みは目の前の課題を一つ一つこなすしかない。

 「いまの6ヘクタールから、あと3ヘクタールぐらい面積を増やせれば、二毛作を完全に止めても単作で採算がとれる収量は確保できると思います。単作に切り替えることで適期に播種、収穫することができ、連作障害も克服できるはずです。」

 今後とも、㈱丹波協同農場の取り組みに注目していきたい。
                                    (山口 協:当研究所代表)



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