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アソシ研リレーエッセイ
“使われなかった人生”の話


 僕が初めて海外に出たのは1971年12月。もう50年近く前のことだ。知り合いの紹介で、エジプト観光のツアーに、片道だけの費用を払ってまぎれ込ませてもらった。生れて初めて乗ったエジプト航空の飛行機は狭くて、でもビールは飲み放題だったように思う。カイロに滞在中は、市内観光には参加して、ピラミッド、スフィンクスを訪れた。カイロ市内を1人であてもなく歩きまわっていた。

 ツアーの帰国が迫り、主催者が「本当に残るのか」と心配してくれたけれど、「ハイ、大丈夫です」と答えたら、格安のホテル、カイロ在住の日本人を何人か紹介してくれ、心配そうに帰国していったのを覚えている。でも、自分が何をめざしてエジプトへ行ったのか、まったく思い出せない。大学の専門課程に進んでいたが、どうして、そのタイミングで海外へ行こうと考えたのかも定かではない。けれど、初めての海外放浪は翌年1972年5月まで続いた。

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 その間、一番長く滞在したのはレバノンのベイルートにあったパレスチナ難民のキャンプだった。現地の赤新月社が運営する住居兼用の作業場で、世界各国から送られてくる大量の薬品サンプル、試供品の選別、整理のボランティアとして3ヶ月程働いていた。毎日ダンボール箱を床にひっくり返し、うず高く積み上がった薬の薬効、使用期限などをチェックして整理する作業を仲間のパレスチナ人たちとペチャクチャおしゃべりしながら続けていたのだ。「薬学部の学生」というのが唯一、僕がここにたどり着く根拠だった。ろくに薬の知識があるわけもなく、まして専門用語にもまったくの無知な日本人の若者が、つたない英語で働きたいと伝えただけで、彼らは受け入れてくれた。「アブ・ハッサン」というアラブ名をもらい、寝食を共にしながらの楽しい日々だった。

 この異国の地で、僕は初めて『新左翼』という日本で発行されていた新聞の存在を知ることとなる。現在『人民新聞』と名称を変えた、この新聞を持って僕のところにやって来たのは、ベイルートにあった別の難民キャンプの診療所でボランティア看護士として働いていた中野まり子さんだった。どこかで変な日本人の学生が居ることを教えられたのか、彼女はあの明るい大きな声で、突然やって来た。『新左翼』紙のベイルート特派員として、キャンプレポートやパレスチナ解放闘争の現状報告を投稿していた中野さんに、自分の投稿記事を英文に訳してほしいと頼まれて、ヘタな英語で翻訳するハメになってしまった。まさか、それから50年、自分自身がこの新聞の編集、発行に、これほど長くかかわることになるとは、まったく想像すらしていなかった。

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 3月、ベイルートを離れ、陸路リビアのトリポリまでバスでの放浪を続けた。カダフィ率いるリビアという国に足を踏み入れたけれど、僕のような日本人が身を置ける場所は見つからなかった。リビアからトルコ、イラン、アフガニスタンを経由して、パキスタンに入った頃から、何故か5月13日までに日本へ帰ろうという気持ちが強くなっていった。振り返って思うに、たどってきた道は、今ではとても金が無い外国人が1人で通れる状況ではなくなっている。もっとゆっくり、現地での生活や現地の人たちとの交流を楽しむ余裕をなぜ持つことができなかったのかと、いまさらながら悔やんでいる。

 およそ半年におよぶ、初めての僕の海外経験には後日談がある。帰国した直後、1972年5月30日、イスラエルのテルアビブの空港で、3人の日本人革命戦士によるリッダ闘争が行われた。まったく知る由もないことだったけれど、同じ時間を彼ら3人と共にレバノンで過ごしていたことを後で知ることとなった。日本の公安警察もその偶然に疑念を抱き、その後、僕の周辺には彼らの影がつきまとうようになる。5月13日と30日。まったくの偶然がつくった微妙な行き違いだったのかもしれない。

 沢木耕太郎が「暮しの手帖社」から出版した、『世界は使われなかった人生であふれている』という2001年刊の著書がある。彼の映画評を集めた本だが、映画はB級スパイ映画にしか興味のない僕には難しくてよくわからない。でも、僕の使わなかった人生の1つは、きっと50年前ベイルートに置き忘れてきたのだろう。

                         (津田道夫:当研究所事務局)



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