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市民環境研究所から

琵琶湖で知った3・11から10年


 三寒四温という言葉を思い出している。穏やかな季節の移り変わりを表現する言葉だろうが、今年は昼は暑く、夜は冬よりも寒い。我が家のペレットストーブの燃料代が心配になる。去年までは少々寒くとも燃やすことがなかったが、今年は昼間でもストーブの出番が増えている。

 3月18日は昼間の気温は20度とのことで、昨日まで羽織っていたコートを脱いで、フクシマからの避難者の賠償請求裁判を傍聴に大阪高裁に出かけた。コロナ対策で傍聴人数が半分に減らされていたが運よく抽選に当たり、原告2人の意見陳述と弁護士からの提出書類を聞くことができた。原発崩壊直後に放射能に追われて京都に避難してきた彼女たちの苦難と避難生活10年の辛苦と悲しみを聞き、大した支援もできなかった自分の10年を思い出した。

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 思えば10年前の3・11の地震発生時刻、筆者は琵琶湖北湖の尾上漁港に向かって名神高速道路を北上していた。翌日に実施する琵琶湖調査団の仲間と合流するためだった。調査船の準備を完了してみんなで出かけた食堂のテレビで津波の映像を見て絶句した。十数人の仲間全員が喋ることもできずに漁業会館で眠り、翌日は早朝から水質調査を実施して、誰も無言のままでそれぞれの方向に帰って行った。

 筆者もそれからの5日間は自宅でテレビ画面を見続け、その後カザフスタンへ出発し、2週間後に帰国した。当時は各地の公害現場を歩いていたので反原発運動に参加する余裕がなく、また、今は故人になられたが、同じ世代の京大原子炉実験所の小林圭二や荻野晃也や少し先輩の市川定夫など反原発運動のメンバーがいたので、集会などの手伝いをする程度の参加だった。

 しかし、フクシマ後はフクシマが中心の生活となり、京都への避難者の方々から依頼があれば、福島の自宅敷地土壌の放射能汚染の分析も引き受けてきた。10年後の今年も「バイバイ原発きょうと」集会に参加し、10年が過ぎたが、なにが出来たのかと自問し続けている。

 福島原発崩壊から10年が経過しているのに、崩壊原発の処理は全く進んでいない。溶融した燃料の塊があると分かった程度でしかなく、トリチウムを含んだ処理水を膨大な数のタンクに貯めているだけで、それも限界数になったから海に流そうとしているだけである。コントロールなど全くできていない段階で「アンダー・コントロール」だとほざいてフクシマを捨て去り、オリンピックを誘致した安倍の犯罪性だけが目立っている。

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 こんな国と東電を相手にたたかいを続けている京都訴訟団を支援する会から共同代表の一人になれと言われ、避難者のみなさんに申し訳ないと思いながらの法廷傍聴にだけは出かけてきた。以下、原発賠償京都訴訟団が発表した「東日本大震災・原発事故から10年を迎えての声明文」の一部を引用する。

 「東日本大震災・原発事故から丸10年となります。先日の地震は10年前の余震とのことでしたが、誰もが10年前のことを鮮明に思い出すには十分すぎるほどの大きな地震でした。……今回の地震でも、真っ先に頭に浮かぶのは「原発は大丈夫か」という不安です。……危険な原発をやめられない人間に対する自然からの警告なのではないかとさえ思えます。……10年前に抱えたさまざまな悲しみや苦しみはどんなに時間が経っても癒えるものではありません。

 8年前に提訴して始まった裁判は……現在は大阪高裁での闘いが続いています。被告である東電はもちろん、国にも原発事故を起こした責任があることは明らかであり、……真摯な態度で謝罪し賠償すべき問題です。……時間が経てば経つほど心身ともに疲弊し、心に傷を負ったままの原告も多くいます。……私たちはどんなに厳しい状況に置かれても、東電と国に責任を認めさせ謝罪させ、避難の権利を認めさせるため、諦めずに声を上げ続けていきます。……各地の高裁判決で国の責任を認める判決が出ています。私たちも大阪高裁での勝利を目指し、そのバトンを繋いでいきます。これからもご支援をよろしくお願いします。」

 次回の法廷にも、傍聴券が当たるかどうかは分からないが出かけようと思っている。

                         (石田紀郎:市民環境研究所)



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