HOME過去号>195/6号  


震災・原発事故10年の福島訪問①

「答え」ではなく「問い」を共有するために
原子力災害考証館furusatoの取組みをめぐって

 2011年3月11日の東日本大震災・東京電力福島第一原発事故から10年。10年という時間の堆積の中でなにが変わり、なにが変わらなかったのか。なにを私たちは記憶し、考え、語りあい、そして伝えなければならないのか。問いかけは深く鳴り響いている。それをどう受け止め、あるいは耳をふさぐのか、今を生きる一人一人に問われているのかもしれない。原子力災害を考証する草の根の取組みを紹介したい。


日本大震災・原子力災害伝承館

 国道288号線を大熊町から双葉町へ、東北方向へ車を走らせる。昨年12月に自由通行化され道路だけは通行可だが、あたり一帯は帰宅困難区域だ。山あいの道を走っていると、時折現れる家屋は閉鎖され、この10年の歳月に風化し、あるいは朽ちている。3月末、目に映る満開の桜がまぶしく咲き誇っていた。私にとっては想像の及ばない風景の断層が、しかし瞬く間に後方へと走り去っていく。

 JR常磐線双葉駅近くで右折し、東へ、海の方へ向かう。だだっ広い荒野に一本の舗装道路。前方には工事現場のような一角と、そして2、3の真新しい建築物の姿。10年前、震災後東北地方を襲った津波にこのあたりも流されたのだ。この10年の間、どのような変貌にこの地は見舞われたのだろう。予備知識のない自分には以前の風景は想像もつかない。ただ見渡すかぎりの荒野に立ち尽くす「東日本大震災・原子力災害伝承館(伝承館)」とその隣の「産業交流センター」の一見美術館のような立派な建物。

 伝承館は震災と原子力災害の記録と教訓を伝えるために国の予算53億円を使って福島県が建設。当初、2020年東京オリンピック・パラリンピックに合わせて2020年夏に開館する予定だったが、新型コロナウイルス感染症の流行を受けて開館が遅れ、同年9月20日に開館した。その経緯からうかがわれるように、地震・津波・原子力災害からの復興を内外にアピールする性格の強い施設だったと言えるだろう。

 開館から1月末までに学校行事なども含めて約3万4000人が訪れたという。しかし私が訪れた日は3月末の平日、水曜日の午後とあってか、人影はまばらだった。

 入場した1階のホールではプロローグとして、巨大スクリーンで当時の映像とアニメーションを使って、地震・津波・原子力災害について、「未曽有の複合災害を経験し、復興への途を歩んできた福島の記録と記憶を防災・減災の教訓として未来へつないでいく」という伝承館の基本理念を伝える。館内の展示は、①災害の始まり(震災直後からの状況をたどり、複合災害の始まりを描く)、②原子力発電所事故直後の対応(事故直後の福島第一原発の状況や避難の様子など)、③県民の思い(原子力災害によって変わってしまった日常)、④長期化する原子力災害の影響(除染や風評、長期避難への対応など)、⑤復興への挑戦(廃炉作業、福島イノベーション・コースト構想など)、をテーマに写真や映像、被害者の証言、などが続く。

●東日本大震災・原子力災害伝承館
 最初の展示室には福島第一原発の520分の1の模型が展示されていて、水素爆発後の現状が再現され、改めて福島第一原発の惨状を知ることができる。また、写真や映像、パネルを駆使した展示は、地震、津波、原子力災害のすさまじさを伝えている。しかし全体としては、原子力災害の責任に関しては裁判中であることなどを理由にあいまいにされ、不可抗力の結果であるような捉え方がされていると感じた。SPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)の活用に関しては、そのデータ隠しが多くの無用な被曝をもたらしたにもかかわらず、対応に問題はなかったと、あっさりと政府の見解を繰り返している。また避難者、自主避難者の現在まで続く厳しい境遇に対する国や県の関与についての報告もあまりないようだ。伝承館では展示コーナー以外に被災者の直接の声を聞くことができる「語り部講和」が開催されているが、東電や県・国を含む「特定の団体を批判しない」よう求めるマニュアルが配布されているという報道もあった。

 しかし一方で、被災者などからのかなり厳しい批判を受けて、少しずつ展示内容が見直されていることも事実だ。かつて、双葉町の中心部に掲げられていた「原子力明るい未来のエネルギー」の標語の看板は、実物の展示がされず写真だけにとどまっていたが、住民たちの強い要求によって、伝承館で展示されるようになった。また、写真撮影の一律禁止は解除された。以前の展示を知らないので明らかではないが、原発事故が明らかに人災であると指摘した東京電力福島原子力発電所事故調査委員会(国会事故調)の報告も掲示されるなど、展示内容に気を配っている様子も感じられた。スタッフが熱心に説明してくれた姿にも好感を持った。

 わずか1時間ほどの滞在だったけれども、多くのことを改めて学ばせていただいた。福島からは遠い大阪の地において、10年は長く、ともすれば震災と原子力災害の記憶から切実性が薄らいでいく中にあって、改めて現実に直面させられたような気がした。設立の経緯や運営のあり方など、批判はもちろんあるだろうけれども、伝承館は公的な施設として、たとえば教科書のようなものとして受け止めればいいのではないだろうか。様々な批判や現実とのすり合わせを通じて、教科書は書き換えられていく。そういう意味で教科書は今現在の暫定的な回答に過ぎないが、それを軸にして私たちは現実や記憶と向き合い、考えることができる。しかしまた一方で、教科書は公的なまとめとして、細部の、一人一人の切実性を表すことはできないことも事実だ。それは教科書の仕事ではなくて、私たち一人一人が生きるという現場において表す以外にはないのだと思う。

 さて、ではその方へ行ってみよう。公的施設から民間の、草の根の人びとがその足元から考証する人びとの取組みの方へ。


考証館設立までの経緯

 この3月12日にいわき市の温泉旅館である古滝屋に原子力災害考証館furusatoがオープンした。館長の里見喜生さんは元禄7年、1695年創業の古滝屋の当主を継いで23年になる。旅館の一室に考証館を設立するに至った経緯をうかがった。

 里見さんはまず、いわき市が本州最大の炭鉱の町だったことを指摘した。このあたりの温泉は1200年の歴史をもつが、石炭採掘に伴って温泉が一時枯渇し、苦労した時期もあったそうだ。また福島県には只見川という河川があり、その水利権をめぐって、東京電力と東北電力の争いがあった。結局、東京電力が水利権を獲得し、水力発電による電力は首都圏に送電されるようになった。炭鉱は1951年に最終的に閉山となったが、それと入れ替わるように原子力発電所が建設されることになる。福島は首都圏へのエネルギー・電力の供給地であり、その歴史の上に福島原発による原子力災害があるのだ。

 東日本大震災時、いわき市も震度6弱の地震に見舞われ被害も大きかったが、なによりも福島原発の事故と放射能による影響が大きかったと、里見さんは言う。いわき市は福島原発から約50km。近くて遠いとも言える距離だが、放射能の影響は想像外のことでもあって、市民たちは右往左往し、特に小さな子どもを持つお母さんは多くが避難し、市の中心部には人がいないという状態になった。

 一方で、原発近くの双葉郡からは住民7万人のうち約半分がいわき市に避難してきた。今も2万人が避難中だ。当時は原発関係の作業員も多く、市の人口は膨れ上がり、病院の待ち時間が6時間とか、スーパーのレジ待ちに長い行列ができたこともあった。また双葉郡からの避難者というだけで、賠償金をもらっているだろうと、さまざまな軋轢や分断が生まれた。そういう意味で、いわき市は原発立地自治体とはまた違う被害を蒙ったと言える。

 いわき市の旅館・ホテルは、三つのカテゴリーの宿泊者たちを受け入れた。一つは主として双葉郡からの避難者、二つ目は原発作業員、三つ目は学校の生徒やボランティアの受け入れだ。避難指示区域の学校は閉鎖され、各地にサテライト校が開設されたのだが、避難先からは不便で通いづらい生徒たちの宿泊を受け入れた。古滝屋はこの三つ目の宿泊を受け持った。
                                           ●里見喜生さん

 旅館として宿泊を受け入れる一方で、里見さんたちは避難所でのボランティア活動に奔走した。段ボールや毛布を手配・配布し、炊き出しを行い、水を届け、子どもたちが遊ぶのを手伝ったりもした。そんな時に里見さんが目にしたのは、障害をもつ子どもたちの存在だ。精神、知的、あるいは発達障害をもつ子どもたちだが、団体行動が苦手であったり、また居場所が変わったりして不安定になったり、避難所でも走り回ったり、大声を上げたりし、非難の目で見られることがあった。実際に、体育館の裏で、同じ避難者から「出て行ってくれ」と詰め寄られるお母さんを見たことがあった。

 そんなことがあって、里見さんたちは郡山市に平屋の一軒家を借り、一時預かりの交流サロンを開所し、NPO「ふよう土2100」を立ち上げた。2011年11月のことだ。きちんとした生き方をして死ねば、未来のための肥やしになれるだろうという思いを込めて、ふよう土と名付けた。また2100は西暦2100年で、人にやさしく、思いやりのある未来になりますようにという願いからだ。原子力災害を踏まえて、土とか地域とかを大切にするという戒めの意味もあるということだ。当初は寄付だけで運営していたが、現在は放課後等デイサービスの認可を受けて、安定した運営ができるようになった。

 また、原子力災害をきっかけとして、暮らしを丁寧に営もう、衣・食・住(エネルギー)をまず自分たちでつくり、足りない分は分かち合おうという「おてんとSUN企業組合」の取り組みも始めた。オーガニックコットンの栽培から製品化に取り組むふくしまオーガニックコットンプロジェクト、衣料品のリサイクルを行うNPOザ・ピープル、自然エネルギーを推進するNPOインディアンビレッジ、ふよう土2100を前身にした被災地へのスタディーツアーなど。それから何軒かの農業者たち。

 スタディーツアーはFスタディーツアーと名付けて、2011年から始め、現在までで延べ5500人が参加した。Fというのは福島であり、双葉であり、未来でもある。約4時間のフールドワークで里見さんは語り部として参加者を引率する。というのは、放射能は目には見えず、その被害は実感しづらいからだ。被災地を回りながら、ふるさとの喪失を語り、線量を測定し、放射能汚染の意味を感じてもらう。お祭りなどが失われた地域の変化についても伝えたいと思う。Fスタディーツアーは10年後の今も継続し、参加者がいなくなるまで続けるつもりだと言う。

 震災と津波の記憶を伝承し、いろいろな活動をつないでいくという目的で、「3.11メモリアルネットワーク」の活動も2017年に始まった。里見さんはスタート時の理事10人のうちの一人として設立に関わった。岩手、宮城、福島のそれぞれの地域を結び、語り部の活動など、さまざまな伝承活動を行っている個人やグループが手を取り合って、震災伝承、防災・減災活動の「連携」「企画」「育成」の三本柱を掲げて活動をしている。本部は石巻にあり、この3月8日には、関連する施設として石巻市の門脇に震災伝承交流施設「March 11 Education & Exhibition Theater (MEET)門脇」がオープンした。
 震災と原発事故以来の、このような活動を土台にして、原子力災害考証館設立というプランが立ち上がった。設立に向けての参考に、おてんとSUN企業組合のメンバーで水俣を訪問したということだ。水俣には民間の水俣病歴史考証館と公立のものとして水俣市立の水俣病資料館などがある。両方とも見学して感じたのは公的な施設も必要だけれども、民間の施設も絶対に必要だということ。福島には伝承館という立派な施設ができたけれども、不足する部分もある。それを補うのが役目だと思っている、と里見さんは言う。

 考証館をつくるにあたっては、いろいろ葛藤があった。ここは温泉地で、古滝屋も温泉宿として観光協会に所属している。そういう場所に負の遺産を持ってくるのはどうか、悲しいものを見せるのはどうかという意見を聞いた。楽しむために来ているのに、そういうものは見たくないのではないか。里見さん自身が風評被害になっているという声もあったという。しかし、だからと言って、隠せば済むということではないだろう、事実に向き合ってこそ次のステップに進むことができるのではないか。

 良いとか悪いとか、答えを強制する場所ではない。考える場であることを求めたい。伝承館などの公的な施設はたくさんできたし、データ的なものも蓄積されている。ここでは自分の暮らしの場から考えるところにしたい。2万人の人が亡くなり、原発事故関連死は2300人にも及んでいる。自分の暮らしを見つめ直すきっかけにしないと、私たちは大きな犠牲から何も学ばないことになってしまうのではないか。そんな思いを里見さんは語ってくれた。


原子力災害考証館furusato

 この3月12日、つまり福島原発が水素爆発をした日の10年目に開館した原子力災害考証館furusatoは古滝屋の9階、かつて宴会場であったスペースを改造してつくられた。考証館のスタッフとして、企画・展示、関連図書や資料の収集など尽力されている鈴木亮さんと西嶋香織さんに考証館の概要を説明していただいた。鈴木さんと西嶋さんはご夫婦で、双葉郡富岡町在住。双葉地域での地域活動を支援したり、ネットワークをつくる手助けをする中間組織「ふたば地域サポートセンター・ふたすけ」を運営する一方で考証館の設立に深くかかわっている。鈴木さんは東日本大震災支援全国ネットワークの福島担当だったこともあり、その豊富な人脈と知見を考証館の運営に活かしている。

 考証館では原子力災害をめぐっての「対話」と「伝承」のためのさまざまな書籍や資料、写真、放射線量測定地図などが常設展示されているが、現在は三つの企画展示が行われている。

 企画展示の一つは大熊町で津波によって連れ合いと父上と娘さん(次女)を亡くされた木村紀夫さん。放射能汚染による入域制限のために捜索は阻まれつつも、ボランティアと共に捜索を続け、ようやく2016年に見つけた夕凪ちゃんの遺品のマフラーやランドセルが展示されている。木村さんのかつての自宅は中間貯蔵施設の敷地内にあるが、国の買収交渉には応じていない。その場所を慰霊の公園にしたいと望んでいるのだという。夕凪ちゃんの遺骨の一部は見つかったが、その多くはまだ見つかってはいない。そこにはまだ遺骨や遺品が埋まっているのだ。木村さんは現在、今も帰宅困難区域である大熊町から、大熊未来塾と題したスタディーツアーやオンライン授業などの発信を続けている。

●原子力災害考証館furusato
 二つ目は、避難指示下にあったかつての浪江町と2020年現在の街並みの写真パネル。チェルノブイリ・福島を追い続けている写真家・中筋純さんの作品。浪江町の同じ場所が上下に並べられて、その変貌を目の当たりにすることができる。その中の一軒でおもちゃ屋さんを営んでいた歌人でもある三原由紀子さんの短歌が添えられている。「わが店に売られし おもちゃのショベルカー 大きくなりてわが店壊す」。街並みの中の一つ一つの家に、一つ一つの物語があり、それが震災と原子力災害によって壊され、失われていくとともに、そこに新しい風景が上書きされていくという容赦のない現実に胸が痛む。

 企画展の三つ目は、福島原発避難者訴訟事務局長である楢葉町の金井直子さんの記録。金井さんの主婦としての思いを綴った地元紙への投書のスクラップや裁判資料などが展示されている。考証館の一角にはディスプレイが設置されていて、開館を前にして行われたオンライン意見交換会の記録を視聴することができる。金井さんのお話もあり、地域での家族ぐるみの付き合いが原発事故によって断ち切られたこと、そこから集団訴訟に立ち上がった経緯などを知ることができた。

 考証館はまだまだ始まったばかりだが、原子力災害をできる限り体系的に整理すること、被害の克服に向けた草の根の取組みをアーカイブすることを展示のポイントにしているという。「伝承」はもちろん大切なことだけれども、その根元には「対話」がなければならないだろう。「正解=答え」を教え、伝えるのではなく、むしろ「問い」を共有するということ。鈴木さんは福島に生きる人の思いを、十人十色ではなく、一人十色だと表現している。自分自身でも整理のつかないこと、思いをお互いに伝え、対話することによって、その場を共有することが大事なのかもしれない。西嶋さんは考証館をfurusatoと名付けた思いを語ってくれた。原子力災害というのは「ふるさと」を失うことなのだと。ふるさとは生まれ育った場所であり、そこからはけっして離れられない生きる場所でもある。だとすれば多くの人びとからそれを奪った原子力災害は、人びとそれぞれにどのような意味をもつのだろう。深くて重い問いかけであり、考証館はそれに向き合いつつ営みを続けていくのだろう。


いわき市から広野町、楢葉町へ

 翌日、いわき市から双葉郡広野町、楢葉町を経由して富岡町へ向かった。鈴木さん西嶋さんご夫婦と2歳の郷ちゃんに加えて、月刊『むすぶ』発行人の四方さとしさんも合流して、国道6号線を北上した。

●避難指示区域の現状
ここで、福島県の浜通りにおける現在の避難指示の状況について確認しておきたい。福島第一原発の事故によって出された避難指示は、2013年8月に年間積算線量、つまり放射能による汚染度合いによって、帰宅困難区域、居住制限区域、避難指示解除準備区域に編成された。以降、準備区域から段階的に解除され、2020年3月には帰宅困難区域以外の避難指示は全面解除された。また同月には、JR常磐線が全線開通するとともに、駅周辺区域の避難指示が解除され、帰還困難区域の一部ではじめての解除となった。これから報告する楢葉町の解除は2015年9月、富岡町の帰宅困難区域以外の解除は2017年4月。避難指示の解除に伴って、楢葉町は2021年3月31日現在、人口6771人のうち町内居住者は4080人となった。また富岡町は2020年5月1日現在、人口12574人のうち、町内居住者は1404人となっている。

 避難指示は解除され、町営住宅の設置や商業施設の開所による買い物環境の改善、医療関係や教育関係の施設整備によって居住者は増加し、特に道の駅などでは賑わいが見られるようになってきた。一方で、長い避難生活の中で避難先への定住を選択する人も多く、また子育て世代などでは放射能の影響を危惧し、帰還をためらう人も多い。地域では原子力災害の影響は様々であって、人びとの行動を一律に良いとか悪いとか断ずることはできないし、手放しで復興を言い立てることはもちろんできない。しかしまた、帰還した人びとよって、一歩一歩この地での暮らしが営まれていることも事実なのだ。

                                ●鈴木亮さんと郷ちゃん
 いわき市の「道の駅よつくら港」を通り過ぎる。

 津波で打撃を受けた後、いち早く再開して支援が集中したところだと、鈴木さんが解説してくれる。道の駅の壁には全国からの応援メッセージが張り巡らされ、青森のねぶたの櫓が展示されて賑やかだそうだ。道の駅の向こうには白い建物のインドア・パーク。子どもたちが放射能被ばくを気にせず遊べるようにと整備された。このあたり、東北の湘南と言われた海岸が続くが、防潮堤が建設されて道路から海は見えない。付近には「いわき震災伝承みらい館」が最近いわき市の施設としてオープンした。ここでは津波で流されたが運良く助かった若者が語り部になっている。津波を見に行って、死んでもおかしくなかった悪い見本として、自らの経験を伝えている。

 車中で鈴木さんは最近報道された老人ホームをめぐる顛末を語ってくれた。広野町では、病院の院長が町に依頼されて2010年に病院に併設して特別養護老人ホームを開所。震災後、経営安定のために国や県の補助金を受けて規模を拡大したが、原発事故の影響で経営が行き詰った。事業を止めれば補助金3億円超の返金が必要になるということで、やむなく町に譲渡して、残ったのは数千万円の借金だけだ。高齢者の需要はあるけれども、スタッフの確保が厳しいのだ。みんな避難先のいわき市から通っていて、その通勤費を経営者が負担している。しかもスタッフが足りないからベッドの7割しか稼働できない状態だった。入りたくても入れない高齢者がいる一方で、経費ばかりが積み上がっていった。

 広野の老人ホームは譲渡が決まったが、楢葉の老人ホームは今も破綻のリスクを抱えた状態だ。富岡町だけは16年に新設した診療所を医療法人に無償貸与した。また、公設民営の老人ホームを開所する予定だという。町の姿勢によって、病院や老人ホームの運命が左右される。これが原発隣接地域の実態だと鈴木さんは言う。

 3月にはメディアがこぞって震災特集をする中で、NHKが除染マネーの特集をやっていた。除染をめぐるお金の流れのあまりのひどさを、かなり掘り下げて暴露していた。除染事業費の50%以上と言われる巨額の除染マネーが投じられた仮設焼却炉(減容化施設)についても取り上げられていた。原発事故から10年、復興ということが盛んに言われているが、潤っているのは一部の人たちばかりだ。富岡町のあるホテルは18億円の建設費のうち12億円が補助で、最近ベトナム人スタッフを4人雇ったが、自給800円で、朝8時から夜8時まで12時間働かせている。時給のうち400円は補助金だ。ホテルの経営者が雇って夜のバーで働かせるというようなこともやっている。補助金ビジネスで利益だけを持って行ってしまう人たちがいる。原子力災害はこういう形でも、人びとの暮らしに深い影響を与えているのだ。

 車中で鈴木さんの話を聞いているうちに、広野町、二ツ沼公園の小さな直売所「のらっこ」に到着。ここは20軒ぐらいの減農薬・環境型農業の農家で運営していたが、全町避難指示によりいったんは閉鎖になった。避難指示の解除にともなって、「町内に食材を買える店がほしい」という要望に応えて、2013年に再開して現在に至る。中心メンバーの有機農家の新妻良平さんは行政との折衝でかなり厳しい交渉を行ったということだ。一時避難を余儀なくされたが、農地除染を行い、2014年に本格的に営農を再開した。合鴨農法はみんなやっているからと、アヒル農法で米を作っている。「アヒル米」として販売しているそうだ。

 障害者支援のワークセンターさくらが販売する刺身こんにゃくと、ふたば未来学園高等学校の生徒が広野町のみかんを収穫し、企画・デザインした「青春ドレッシング」を購入。ふたば未来学園は、震災・原発災害の影響で、双葉郡内に高校が存在しない状況の中、2015年に広野町に開校した中高一貫校。鈴木さんによると大学のような立派な建物だという。


原発悔恨・伝言の碑と伝言館

 国道6号線を外れて楢葉町の宝鏡寺へ。

 宝鏡寺には福島原発事故の被害を伝える「伝言館」が併設されている。住職の早川篤雄さんは福島県内の避難住民とともに国と東電に損害賠償を求めて集団提訴。原告団長として奔走した。昨年の仙台高裁の判決では勝訴したが、今も最高裁での審理が続いている。

 この3月11日に、宝鏡寺境内で「原発悔恨・伝言の碑」の除幕式が行われた。早川さんとともに除幕したのは立命館大学名誉教授の安斎育郎さん。安斎さんは放射線防護学の学者として、ともに原発反対運動に関わってきた。碑文の後半、「人々に伝えたい 感性を研ぎ澄まし 知恵をふりしぼり 力を結び合わせて 不条理に立ち向かう勇気を! 科学と命への限りない愛の力で!」。境内には、東京都台東区の上野東照宮で30年間にわたって灯されていた「広島・長崎の火」が移設され、「ヒロシマ・ナガサキ・ビキニ・フクシマを結ぶ非核の火」として点火された。

●原発悔恨・伝言の碑
 「原発悔恨・伝言の碑」に見守られるようにして、「ヒロシマ・ナガサキ・ビキニ・フクシマ伝言館」が併設されている。木造二階建ての建築で、入り口は二階部分にあたる。「原子力明るい未来のエネルギー」(双葉町)や「地球にやさしいエネルギー原子力」(大熊町)、「エネルギー福祉都市」(楢葉町)など、原発に豊かな未来を夢見た標語の写真パネルが目につく。また、保育園児の内部被ばくの測定結果の推移や、東北三県の中で福島県が突出している震災関連死の説明パネル、書籍・資料などが展示されている。また、旧科学技術庁制作の原発政策を啓発する1978年の女性のセミヌードポスターもあった。原子力を恐れるのは「エネルギー・アレルギー」だとコピーが添えられている。階段を下りた一階部分には、広島・長崎の原爆被害を表す写真パネルや、米国による水爆実験によってビキニ環礁で被ばくした第五福竜丸に関する資料などが展示されている。

 静かな春の境内に、声のない無数の悲鳴が張り付いたような時だった。

 昨夜、考証館脇の控えの部屋で、二人でビールを酌み交わしながら、鈴木さんは、広島と福島をつなげることに違和感があるという意味のことを言っていた。福島をフクシマと表現することについても。その時、鈴木さんの言いたいことが少し分かるような気がした。同じ放射能災害だからと一般化してつなげてしまうことに、政治的な作為を感じてしまうということだろう。それぞれの場で、それぞれの現実を探り、それを言語化し、あるいは表現することによって、初めてお互いの違いや、またそれゆえの結び合える共通点も見えてくるのではないかと、そんなことを鈴木さんのふとした言葉から考えた。

 立ち位置が明確でメッセージ性の強い伝言館のあり方は、考証館が求める方向とは違うと思うが、伝言館の方法はもちろん尊重するし、敬意を払ってなんらかのつながりを求めたいとも鈴木さんは言う。異なる観点や異なる方向性はあってもいいし、むしろ歓迎すべきことだろう。人びとがそれぞれであり、それぞれの状況を生きているように、原子力災害の受けとめかたもそれぞれであって、大事なのは交流し、対話し、つながりを求めることだと思う。福島が広島・長崎と、あるいはビキニと出会うことによって見えてくるものも、またあるはずなのだ。


富岡町、「ふたばいんふぉ」へ

 再び6号線を北上し、富岡町にある特定廃棄物埋立博物館「リプルンふくしま」へ。

                                       ●リプルンふくしま
 特定廃棄物埋立処分事業というのは10万ベクレル/kg以下の汚染廃棄物(放射能に汚染された指定廃棄物や生活ゴミ)などの埋め立て処分を行う事業。既存の管理型処分場を活用し、環境省の事業として行っている。実際の処分施設は楢葉町との境近くにあり、リプルンふくしまでは特定廃棄物の埋立処分事業の概要や必要性、安全対策等を5つの展示ゾーンに沿って体験しながら学ぶことができる。また、モニタリングフィールドにおいて、空間線量率や土壌中の放射能の簡易測定など、モニタリング体験をすることができる。

 時間の関係で、駆け足での見学となったが、最新の情報を公開し、住民の疑問や不安などの軽減や安心の確保に役立て、風評被害を払拭することを目的に設立されたことは分かった。黒塗りの秘密主義のベールの向こう側で、秘密裏に処理されるよりは、ガラス張りで公開しようとするのはたぶんいいことだろうと思う。しかし一方で、きれいな処理、安心・安全な処理を見せることによって、原子力災害や放射能汚染の非人間的な実態を漂白してしまうことにもつながりかねないとも感じた。

 富岡町の「ふたばいんふぉ」へ到着。

 「ふたばいんふぉ」は鈴木さん、西嶋さんが活動する「ふたば地域サポートセンター・ふたすけ」が拠点とする場所だ。富岡町でホテルを経営する平山勉さんが、国道6号線沿いの一等地に売りに出されていた物件を購入したのだという。

 平山さんは震災後いち早く、帰宅困難区域内でも活動する「相双ボランティア」集団を立ち上げ、被災者支援の活動を開始した。お年寄りたちの求めに応じて、帰宅困難区域にも入って、家屋を整備し、物品を持ち出すなど、身を挺して活動を行った。また避難生活を余儀なくされている双葉郡の仲間たちがお互いをもっと「知る・見る・つながる」ためにと「双葉郡未来会議」を立ち上げ、交流をはかった。「ふたすけ」もこの未来会議の中から生まれたということだ。2017年の春に富岡町などが一斉に避難指示解除を迎えてからは、お互いに励ましあうために、解除の日のキャンドルイベントや野外ロックフェスなど、様々なイベントを開催した。そして、2018年11月、現在の場所に、双葉郡の総合インフォメーションセンター「ふたばいんふぉ」を開設した。地元の人が使える場所として、また外部への情報発信のための拠点として。

 ふたばいんふぉでは、カフェと物品販売に併設して、双葉8町村それぞれの震災前後の様子を表す写真パネルや書籍・資料などが、町村ごとのコーナーに展示されている。特に目を引くのが「富岡は負けん!」と記された横断幕。平山さんが2011年8月、自ら経営するホテル前の国道6号線の歩道橋に掲げた横断幕だ。放射能に汚染され、立ち入りを拒まれた自分の町に、それでも掲げた横断幕は、絶望的な状況で自分を鼓舞し、また町の人たちを応援するメッセージでもあっただろう。

 町村ごとのコーナーを見て回っていると、それぞれの展示物から人びとの声が立ち上がってくるような気がする。テーマに沿って整理して展示されたものではなく、町村ごとに、それぞれにまつわる写真や記録を展示してあるので、その町や村の人びとの暮らしの息遣い、そのざわめきがそのままこちらに流れてくるような気がするのだ。

●ふたばいんふぉ内の展示
 鈴木さんや西嶋さんがふたばいんふぉを拠点にして活動をしているように、ふたばいんふぉにはいろいろな人が訪れて、いろいろな活動を始めているようだ。昔からの住民に交じって、新しく住み着いた若い人たちも多いという。富岡町は避難指示が解除されてからまだ4年。本格的な活動はまだまだこれからということだろう。


考証館furusatoに思うこと

 さて、3月31日の午後から4月1日の昼過ぎまでの足取りを、大まかに辿ったところで、感じたことを最後に簡単に記しておきたい。

 考証館の大きな柱として、被害の克服に向けた草の根の取組みをできるだけアーカイブするということがあった。たとえばそこには放射能汚染と闘う農家の取組みがある。放射能汚染という見通しのつかない厳しい状況の中で、測定し、試行錯誤しつつ道を切り開き、あるいは新しい方法による除染を試み、いまも苦闘を続ける農家の取組みがある。考証館はそういった人びとに支えられ、また結びつくことを模索しているが、実はそういった農家の取組みこそが考証館の中身そのものだとも言えるのではないか。農家だけではない、写真家も、歌人も、避難者訴訟の原告も、放射能の測定を続ける人たちも、それぞれがそれぞれの原子力災害を考証し、表現しているのではないか。だとしたら、考証館はあの古滝屋の一室に閉じているものではなく、もっと遠く深く結び合うための、ひとつの結節点のようなものでもあるのかもしれない。それは考証館が「生きている」ということでもあると思う。考証館は現在形なのだと言ってもいいかもしれない。

 考証館の設立にあたって、鈴木さんは「被害の本質」について問いかけている。それは果たして展示できるものなのかと。その問いに対して、鈴木さんは自ら、できないのではないかと答えている。少なくとも「これが被害の本質です」と万人が認める正解を示すことと、それに第三者がお墨付きを与えることは、目指すべきではないと感じている。しかし「私にとっては、これが被害の本質です」という声を、一人、また一人とつなげていくことはできるのではないか、と。

 正解としての「被害の本質」はないということ、あるいはそれは展示できるものではないということ。その認識を私はとても大事なことだと思う。まず、被害は個的なものであり、いたずらに一般化しないで、個々の声、言葉、表現に耳を澄まし、それを読み、それに目を凝らすということ。それは逆に言えば、考証館に一歩を踏み込んだ私が、一人の個人としてそこに向かうことでもあると思う。抽象的な私としてではなく、具体的に生きる一人の個人としてそこに向かうということ。その時そこには関係が生まれる、あるいは関係が始まる。ただ展示物を通り過ぎる傍観者としてではなく、芽を出した関係が私を引き留める。その場所からは問いかけが滲み出てくる。私とは誰であり、この被害と私とはどういう関係にあるのだろう。私はそれをどのように受け止めているのだろう。受け止める自分をどのように考えたらいいのだろう。そのような対話が生まれる。私は、関係のない傍観者ではなく、すでにその被害の関係に深くかかわっているのではないか。その問いかけに対して私は何を語り、どう答えたらいいのだろう。

 考証館は「答え」を示すのではなく、むしろ「問い」を共有する場にしたいのだと鈴木さんは言う。これから10年をかけて、考証館の中身を作っていきたいのだとも。公の施設も必要だけれども、民間の施設も絶対に必要だという里見さんの言葉の意味も、ほんの端っこだけ理解できるような気がしている。

                                                  (下前幸一:当研究所事務局)

 ※今回の取材にあたり、月刊『むすぶ』発行人の四方さとしさんにお世話になりました。また『むすぶ』の連載記事「そうだ! ぼくらの考証館をつくろう」を参考にさせていただきました。ありがとうございました。


©2002-2021 地域・アソシエーション研究所 All rights reserved.