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アソシ研リレーエッセイ
〈当事者研究〉ならぬ〈他者研究〉とは?


 〈ジャンル難民学会(私の探求・研究相談室)〉を共催というかたちで始めて1年半が過ぎた。

 「当事者研究」という試みがある界隈で注目されて数年が経つ。元々は精神障害の当事者やその家族を対象にしたリハビリテーションプログラムである。当事者研究は、いままでなされてきたように研究者やカウンセラーに回復を導いてもらうのではく、同じような悩みや症状を抱えたもの同士がそれぞれ自分の話をし、会話することによって話し手と聞き手のあいだに相互的な作用を生み、お互いに相手の話を内面化して主体的な変化をもたらす試みである。

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 そういった同じ環境にある者同士の自助的なものを「当事者研究」というならば、ぼくが参加してきた〈ジャンル難民学会(私の探求・研究相談室)〉は「他者研究」と呼べるのではないかと思っている。発起人の米田量さんは自分や自分のココロを知りたいと臨床心理学を学んだが、その内容は心理カウンセリングの技法ばかりで、社会の歪みや個人の生きる指針などを提示するようなものではなかったという。大学での学びより、むしろその後に出会った有機農家や整体師などの出会い、40日にかけて廻った四国遍路の方が主体的、自立的な思考を育んだ。

 大学などのように、誰かに与えられ、決められた枠組みのなかでは自分は自分に必要な体験を調整してしまい世界の見え方、感じ方は変化しない。自身の思い込みや既知の外に出る、機会のひとつが有機農業である。有機農業は人間の恣意性の外側にある自然の営みとの接点としてあるからだ。

 〈ジャンル難民学会(私の探求・研究相談室)〉の名前の由来は、米田さんが感じてきた大学などで専門的に学ぶことの限界からきている。先ほど書いたカウンセリングにしても専門的な技法だけでなく、社会学、哲学、文学などのジャンルを超えた包括的な視野が重要であることを示している。

 参加条件としてあるわけではないが、自分のなかに探究テーマをもっているひとが集まり、探究の進行状況などの話をし合う。指南役のようなものがいるわけではなく、質問や話を聞いて思ったことなどを挙手によって話す。ここで重要のは、自分には関係がないと思っていた話が実は昔、自分が考えていたことだったり、考えてはいてもあきらめて放置していたもののヒントになったりして、そのテーマが自身のなかで動きだすことがあるという点である。

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 同じ境遇にあるひとが集まる当事者研究とは違い、違った探究テーマを抱えたひとが集まるという適度な距離感が米田さんの言う主体的、自立的な思考を生むのだと思う。そこには他者という人間関係の可能性が示唆されているようで大変興味深い。もちろん同じような悩みを抱えるひとが参加することもあり、話題が当事者研究的になることもあるが、その辺は流動的で、しかしながら、他者も加わっているために当事者的空間に留まることはなく、より動きのあるものになっている。

 〈動き〉について米田さんは「病院の待合ベンチやコンビニの前、(中略)あるいはサードプレイスのようなところで普段の自分から自然と自由になる。これらの場所が境界であるためだ。意味と意味との間にいくことで、自意識の自動的な統制はようやく弱まる。(中略)回復を目的化すればするほど、緊張がおこって変化の自律的なプロセスが遠ざかってしまう。だから回復を求めるのなら、回復自体を目的にするのではなく、何をすることが自分の「時間」を動かすのかということに意識的になったほうがいいだろうと思う」とエッセイに書いている。

 会を重ねるうちに自身の持っていた探究テーマが移行していったりするのも面白い。そこには参加者の話した内容が少なからず影響しており、最近のぼくの思考の経緯はこのジャンル難民学会に依拠しているところが大きい。

 【参考文献】米田量「回復を超えて:躍動する生命へ至る思考」『環境と対話 地域と当事者を繋ぐ試み vol.2』(「環境と対話」研究会編)

                              (矢板 進:㈱よつ葉ホームデリバリー京滋)




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