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アソシ研リレーエッセイ
沈黙と叫び―1981年の光州を歩いて



 僕にもつらい時期があった。しかしそれは、挫折ということではなかったように思う。挫折というのは、なにか確信する心棒があり、それがある状況の中で折れてしまったり、すり減ってしまったということだろうと思うけれども、僕の場合は心棒そのもの不在を目の当たりにしてしまったということかもしれない。どうにも進めなくて留年し、友達とも離れて口数少なく数年を過ごした。なにが欲しいのか分からない。どのように生きていったらいいのか分からなかった。

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 そんな鬱々とした毎日に、ある時、閃光が走った。1980年5月、韓国・光州のことだ。全斗煥陸軍少将によるクーデターと戒厳令の布告、金大中をはじめ野党指導者の逮捕・拘束。状況が流動化する中で、光州では陸軍空挺部隊と学生たちとの衝突があり、軍部隊・機動隊による鎮圧がエスカレートするのに対して、学生や市民たちも、バリケード、角材、火炎瓶などで応戦。空挺部隊の射撃に対して、学生や市民たちも武装して対抗した。軍部隊は市内を退却し、一時の閃光のような「自由光州」が実現した。5月末、大量の軍隊が「自由光州」に襲い掛かり、全羅南道道庁に立てこもっていた市民たちは鎮圧された。

 意には添わぬまま、僕は会社勤めを始めていた。「自由光州」の衝撃を胸のどこかに抱えたまま。ふと思い立ち、行くことにした。1981年の8月だった。下関から一夜、関釜フェリーに乗って、釜山のターミナルに降り立った。韓国の状況も、挨拶の言葉さえも分からないまま。旅館と喫茶店というハングルを大学ノートに大きく書いて、街中の看板と見比べながら、そして、身振り手振りで初めての釜山の街を歩いた。曇り空に立ち尽くす釜山タワー、食堂の麦飯、陸橋の貧しい商売、新聞を売り歩く少年、韓国軍兵舎の長い壁……。

 戒厳令は解除されていたけれども、夜間通行禁止令はまだ出されていた。長距離バスで光州に着いたのは夕方。ひと息をつくために入った喫茶店で、老人は日本語で「あなた、視察にきました、ですね。どこ行きますか? あなた、注意しなさい」と繰り返した。夕食の食堂では、メニューはすべてハングルで、ただ腹が減っているという身振りを繰り返し、ようやくありついた。まだ幼い少年がモップを手にしながら笑っていた。

 次の日には光州の繁華街を歩いた。商店が並ぶ歩道には人が賑やかだったが、時折、ライフルをぶら下げた兵隊が目に付いた。繁華街を通り抜けて、全羅南道の道庁前に出た。そこには戦闘のあとはすでになく、静かだった。それから貧しい通りを抜けて、光州川に出た。汗をかきながら川沿いを歩いた。それからまた、街中に戻って、歩いた。電気部品や雑貨店の通り、中古バイクの店、ただひたすら歩いた。

 光州は沈黙の中にあった。それは僕がハングルを少しも分からないということではあったけれども、しかし、それだけではない。光州事件という人びとの闘いと、軍隊による鎮圧、虐殺をくぐって、街はそのざわめきとは裏腹に深い沈黙のうちに息をひそめているようだった。その大きな沈黙のただ中を、ボウフラのように僕という沈黙が漂っていった。交わす言葉もないままに、僕はそのようにして光州を体感していたと思う。

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 釜山に戻った。旅館に入ると、「日本人と会うの、ひさしぶり」と言いながら、おばあさんがやってきた。「もう少しいてもいいですか」と言いながら、日本で暮らした娘時代を懐かしむのだった。

 夜。テレビでは『日帝36年、光復36年』と題した特別番組が放送され、ひとりの部屋に砲撃や銃弾の音が鳴り響いた。日帝と自分との距離に戸惑っていた。8月15日。

 僕は「沈黙と叫び」のことを考えていた。言葉がそこから生まれ、また壊れて帰っていく沈黙、そして言葉が沸騰して炸裂する叫び。それは言葉と言葉を交換する水平的な次元とは異なる言葉の垂直的な次元。沈黙は無意識ということにたぶんつながっている。ひとり釜山の夜、旅館の一室にいて、僕は癒されたくはないのだとも思っていた。

                         (下前幸一:当研究所事務局)



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