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市民環境研究所から

「過疎の村に」なった我が故郷


 新型コロナの季節は終わりそうもない。第3回目の発生ピークが東京や大阪で生じ、毎日の新規感染者が増え続けている。「Go to○○」等という政策を実施した結果であろうが、前総理安倍のマスクばらまきを越える愚作を菅総理が始めている。もはや救いようのない自公政権を国民は見抜けないのだろうか。菅支持が7割という。

 我が家の近くに誰かが野良猫に餌をやる空き地があり、猫だけでなく多くのカラスも日の出前から集合し、餌を漁っている。カアー、カアーと賑やかだが、最近になって1羽のカラスがカアーではなく、コラー、コラーと鳴いている。この原稿を書いている今も聞こえる。私に言っているのか、菅批判をしない大衆に言っているのかと、思いをめぐらしながらキーボードを叩いている。こんな鳴き声は、高校卒業までいた田舎でも、50年住んでいる山科区でも聞いたことはなかった。時代が変わり、人も町も変わったからカラスも変わったのだろうか。

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 父の33回忌の法要で久しぶりに生家を訪れた。家を継いだ長兄も亡くなり、その家族も都会生活をしているので、今は誰も住んでいない故郷である。琵琶湖から福井県の小浜に抜ける国道の近くにある集落は雪深い里で、子どもの頃、背の低い筆者は小学校までの道を雪の海を泳ぐように通ったものである。中学、高校生の時代には、今のJR湖西線近江今津駅近くの学校までの4キロを、徒歩か自転車で通学した。少し高台にある我が集落からは、琵琶湖湖岸までの水田地帯、湖面と竹生島、伊吹山までの40キロが見渡せる。

 現在なら駅までは車で10分もあれば到着でき、JRの快速に乗れば京都まで1時間で到着する。数十年前までは滋賀県の北海道だとからかわれたが、今では京都市は通勤圏内である。我が集落は稲作農業で、戸数は50戸前後であった。各農家の耕作面積は少なく、豊かな村ではない。それでもいろんな仕事をしながら生き延びてきた村だった。

 父の法要だが、コロナ下なので長兄の娘と三男の筆者だけが寺に出かけ祈った。その後、時間に余裕があったので、子どもの頃を懐かしみ、ひょっとしたら幼なじみに会えるかなと心をときめかしながら、集落の小道を歩いてみた。土曜日の午後だが出会う人もおらず、子どもの声も聞こえない。暖かい日だまりと道沿いに流れる小川の清い流れはそのままだが、歩を進めるほどに胸の内がドキドキし出した。昔のままの家もあり、新築の家もあるが、玄関に板を打ち付けて閉鎖している家や屋根が崩壊した家、すでに解体されて空き地になっている幼なじみの屋敷跡もある。歩くごとに心が沈み出した。

 道から少し入った屋敷の奥から女性の声が聞こえてきた。昔なら何々さんだろうとすぐに分かったが、誰の家かも思い出せないままに家の方に入って行くと、老婆二人が日向ぼっこをしながら話している。「こんにちは」と自己紹介をして会話に加えてもらった。まだまだ屋号が通じる世代同士なので、「ヨソベのノリオです」と名乗ると一気に心を開き合っての会話が始まった。父や母のこと、隣の家のことから遠い親戚のことと続き、この村を離れて60余年の歳月が縮まったようである。また村の道を歩き始めると、子どもの声もなく、男性にも出会わないのに気がつき、まさに「過疎の村」になってしまった我が故郷だと認識した。

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 村を一周して我が家に戻り、琵琶湖を眺めると湖西線を特急サンダーバードが走っていた。なぜこの村が過疎になるのだろうと思う。米だけでは儲からず、一時はキャベツ栽培なども手がけたが成功しなかったようである。林業もままならず、昔は長男だけは村に残ったが、今は村を出て行くのだろう。

 我が生家も長兄夫婦が住んでいたが、兄が逝去したあと兄嫁の義姉は独り住まいに耐えられず、大津市の娘の家に身を寄せている。この生家も維持するのが困難となり、売りに出している。筆者がもっと若ければこの家に戻れただろうと思いつつ、快速電車に乗って京都の拙宅に帰ってきた。

 父との別れもつらかったが、この村との別れはさらに辛いもので、過疎は山奥の村々のことではないと知った。そんなことも知らなかったのかと、今朝もコラー、コラーと鳴かれた。

                         (石田紀郎:市民環境研究所)


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