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新型コロナウイルス感染症をめぐって

緊急事態宣言とは何だったのか
今回の事態に対する論点整理 ③

 新型コロナウイルス感染症のパンデミックから、もうすぐ1年となるが、一進一退を繰り返しながら、感染流行は何度目かの波を迎えている。一部でワクチン接種の動きも始まったが、未だに事態収束の見通しは判然としない。日本では11月の初めから感染者が増え、3~5月を上回る規模となっている。
 こうした状況を踏まえ、改めて今年はじめの流行期を振り返り、論点を整理しておきたい。



緊急事態宣言をめぐって

 日本では2月初頭に豪華客船での集団感染が社会を震撼させ、同13日には国内で初の死者が発生する。21日には国内感染者が100人を超え、感染経路の不明な感染者も増えていく。こうした中、当時の安倍首相は29日の記者会見で唐突に、全国の小中高校と特別支援学校に対して臨時休校を要請したが、その後も事態は収まらず感染者は増え続ける。

 一方、3月13日には国会で「新型インフルエンザ等対策特別措置法改正法」が成立。4月7日には7都府県に対して、同法に規定された緊急事態宣言が発令され、同16日には対象が全国に拡大された(5月14日以降、三段階で解除)。

 この緊急事態宣言をめぐっては当初、各方面から異論が表明された。というのも、同宣言には感染拡大を防ぐため、移動の制限をはじめ個人の権利を制約し得る内容が含まれていたからである。

 しかし、もともと同法は民主党政権下の2012年に制定された特措法を下敷きにしたものである。私権の制限を伴う緊急事態宣言は当時から含まれており、改正によって特段に制限が強化されたわけではない。にもかかわらず異論が表明された背景には、政治目標として日本国憲法の改定を主張し続けてきた安倍首相の存在を指摘することができるだろう。

 たとえば、自民党憲法改正推進本部が2017年12月にまとめた「改憲4項目」には「緊急事態条項の設置」が含まれている。

 これは大規模災害や武力攻撃などの事態が生じた際、政権に対して国会はじめ民主主義的手続きの省略、大幅な人権の制限を認めるものであり、「内閣独裁条項」とも称される。そうした改憲を主導してきたのが、自民党総裁でもある安倍首相だ。

 もちろん、法律上から見れば、個別法を超越する権限を持つ緊急事態条項と個別法に定められた緊急事態宣言では、意味するところは根本的に違う。

 しかし、すでに第二次安倍政権では、特定秘密保護法や共謀罪、集団的自衛権を容認する新安保法の制定など、治安統制を強化する動きが強権的に進められていたのも事実だ。そうした安倍政権が、限定的とはいえ私権を制限する法的権限を持つことに懸念が生じるのは無理からぬところでもある。

 実際、共同通信社が3月14~16日に実施した世論調査では、緊急事態宣言の発令について、「慎重にすべきだ」との回答は73.5%にのぼっている。


社会統制をどう考えるか

 こうした事態を受け、政治学者の木下ちがやは「従順なはずの日本がなぜ「総力戦」を闘えないか」(『ウェッブ論座』朝日新聞社、2020 年3月27 日)と題する文章で次のように言及している(以下、大意)。

 ・欧米諸国では罰則を伴う都市封鎖が実施された。権威主義的で、市民的自由を著しく制約する措置にもかかわらず、社会的に受容されている。

 ・その背景には、第二次大戦下の国家総力戦体制の中で、抵抗か動員かを問わず、市民の民主主義的な同意を得ることで、自発性を組織した経験がある。

 ・これに対して、丸山真男が指摘したように、日本はかつての総力戦に際して民衆の自発性と連帯を喚起する国民的な同意を欠いていた。それが、今回のコロナ禍に対してもなお、緊急事態宣言に懸念が生じる理由である。

 ・コロナ危機への対応の最大の問題は、安倍政権の支配が強化されることではなく、国民的同意を得た適切な支配ができないことにある。

 傾聴に値する意見である。とはいえ、国家権力による社会統制は受け入れるべきものなのだろうか。この点について、木下はこう記している。

 「しかしながら、伝統的な社会統制法が規制してきた異端の言論や結社とは異なり、今回の統制はウィルスの制圧を目的としている。(中略)ウィルスを統制しないことでもっとも被害をこうむるのは高齢者、病人、スラムの貧困層といった社会的に脆弱な立場の人々である。このように、ウィルスという新たな敵の前では、社会統制に対する伝統的な批判言説は再考を迫られることになる。」(「緊急事態宣言と世論のねじれ」2020年4月15日、『日本の科学者』緊急特集、日本科学者会議)

 この点では、欧米諸国だけでなくアジア近隣諸国の経験も参照するべきかもしれない。たとえば、台湾にしろ韓国にしろ、欧米諸国はもちろん日本と比べても感染拡大の抑止に成功したことは明らかだ。ところが、いずれも都市封鎖のような強制的な対策はとられなかった。

 とはいえ、日本のような要請に基づく対策とも異なる。かつてSARS(重症急性呼吸器症候群)やMERS(中東呼吸器症候群)で対処に迫られた際の経験の蓄積があることは間違いないが、それと同時に、国民番号制度や通信端末を通じた個人把握システムの存在なども指摘されている。

 これらは、いずれも東西冷戦に伴う分断国家として、権威主義体制の時代に形成された、有り体に言えば「敵」のスパイを摘発するためのシステムだった。ただし、実際に「敵」と名指しされた多くは、権威主義体制に異を唱える民主化勢力だったことも同じである。

 にもかかわらず、韓国でも台湾でも今回、そうしたシステムの利用に対する異論は(少なくとも公然とは)提起されていない。この点で考えられるのが、木下の指摘する、民衆の自発性と連帯を喚起する国民的な同意の調達である。というのも、韓国も台湾も、現在の政権はかつての権威主義体制を民主化した勢力の流れを継承している。それゆえ、多くの市民にとっては自らの闘い(選挙や市民運動)を通じて獲得された政治権力であり、同意の調達も容易だったと見ることができる。

 こうしてみると、国家権力による社会統制それ自体を境界に賛否を論じることは、逆に弊害をもたらす可能性もある。具体的な内容をめぐる攻防ではなく大枠をめぐる論争に終始してしまえば、事態の進展とともになし崩し的に事態が追認されてしまう恐れもあるからだ。

 先に緊急事態宣言の発令前の世論調査の結果を挙げたが、7都府県に緊急事態宣言が発令された直後、4月10~13日に行われた共同通信の世論調査では、緊急事態宣言のタイミングに関する質問に対して、「遅すぎた」との回答が80.4%、「適切だった」が16.3%との結果が示される。

 また、緊急事態宣言が解除されて事態が小康状態を取り戻した6月19~21日に実施されたNHKの世論調査では、感染症の拡大を防ぐため、政府や自治体による外出禁止や休業強制を可能にする法律改定について、「必要だ」との回答が62%、「必要ではない」は27%となっている。


法の支配と公権力

 この点に関連して、法哲学者の井上達夫は次のように指摘している。

 「日本という国家が、コロナ問題に関し、危機管理を貫徹する統治能力を発揮できない原因は、危機管理意識が希薄であることに加え、毅然たる統治を可能にする法の支配が確立していないことにある。」
(「コロナ・ラプソディー」『法と哲学』第6号、2020年5月、33頁)

 井上によれば、法の支配とは一般に言われているような「権力を縛る」こと、つまり統治能力の制限を意味しない。むしろ、「権力を行使しうる主体・手続・実体的制約条件を明示的に規定することであり、(中略)正統な公権力を創出すること、つまり『権力をつくる』ことである」(同前34頁)。

 言い換えれば、主権者たる国民は公権力によって一方的に統治される客体ではなく、民主的に公権力を創出する主体でもある。それゆえ、創出された公権力に対しては、統治能力を発揮し得るよう主体的な参画が求められる。一方、権力はそうした主体的な参画に対して、説明責任をはじめとする各種の応答を行う義務を負う、ということである。

 井上はこうした観点から安倍政権の対応、中でも緊急事態宣言を批判する。

 「(前略)政府・自治体は移動制限や営業制限に関して、罰則も伴う法的強制力のある規制ができない建前になっており、それに代えて「要請」という名の「お願い」や、「指示」という名の「お説教」で同調圧力を人々にかける。」(同前、34頁)

 その弊害としては、主に次の3つが想定される。 まず、「要請」や「指示」が法的強制力を伴う規制でない以上、人々にはそれに従う法的根拠は与えられない。そのため、感染症拡大の抑止効果は減少する可能性がある一方、生じた結果に対する公権力の応答責任は問われにくい。

 また、正統(フォーマル)な法的規制でないが故に、恣意的(インフォーマル)な同調圧力が醸成されやすく、その結果「自粛警察」をはじめ、実態としてさまざまな権利制限が横行する可能性がある。

 さらに、実態としての権利制限には経済活動上の制限、それに伴う損失の発生も含まれるが、単なる「要請」や「指示」である以上、公権力は補償などの責任を予め回避することができる。

 ちなみに、井上は損失補償について、憲法29条3項の「私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用いることができる」との規定が適用できるのに、各種支援金の給付しかしない政府を「憲法的制約を逸脱する違法な権力行使」と批判する。

 「政府の本音の狙いは、法的強制力ある規制は正当な損失補償負担への法的責任を伴うため、これをバイパスして、事実上の規制圧力を行使することにある。」(同前、35頁)

 もっとも、法的な厳格性を主張する井上だが、憲法改定による非常事態条項の設置に法的根拠を求めることについては「まったく的外れ」と指摘する。というのも、コロナ対策にかかわる強制力を伴った法的規制は、現行憲法に規定された「公共の福祉」による基本的人権の制約として充分に対応できるからである。また、「公共の福祉」の拡大解釈による危険性についても、「人権は人権のみによって制約」されるとして、「人権を超越した外在的価値による制約」を斥ける学説が主流であり、この点でも非常事態条項を要請する根拠は存在しないという。

 と同時に、法的強制力を伴う規制自体を忌避する立場についても、4点にわたって厳しく批判する。その内容については、これまで触れた主張と重なるため記さないが、いずれにせよ、公権力の行使そのものを批判、忌避するのではなく、法の支配の確立を通じた正統な公権力の行使を主張する点では、国家権力による社会統制それ自体よりも民主的手段を通じた社会統制への同意のありようを問題にする木下の主張と通じるところがあるように思われる。


「無責任の体系」いまも

 しかし、周知の通り事態は木下や井上の主張する方向とは逆に進んだ。責任主体や拘束力の曖昧な「要請」「指示」だったため、人々の行動を充分に制限できたとは言い難い。ただし一方で、「要請」「指示」に自発的に同調し、その意図を忖度する形で社会的な圧力が生じた結果、人々の行動制限について一定の効力を発揮したのも事実である。

 驚くべきことに、5月下旬に緊急事態宣言が最終的に解除された際には、感染者数も死者数も欧米に比べてはるかに少ないとの結果が判明した。これを受け、安倍首相は記者会見で「これまでの私たちの取り組みは確実に成果を挙げており、世界の期待と注目を集めています」と自画自賛した。「日本モデル」などという内実の不明な言葉も現れた。

 とはいえ、得意顔ができたのもここまでだった。しばらくの小康状態を経て、7月からは再び感染者数が増加に転じる。その規模は3月~5月を上回り、部分的な移動制限や局地的な休業・時短要請が繰り返された。政府の対応の遅れに対する批判が拡大し、安倍首相の辞任を導く大きな要因となった。

 現在、またぞろ感染拡大がぶり返し、感染者数は3月~5月、7月~9月を超える規模で推移している。にもかかわらず、政府は観光・交通・飲食業を支援する一連のキャンぺーンに固執し、対応の遅さ拙さを三度問われる事態を招いている。同意の調達や公権力の創出どころか、権力の所在そのものに深刻な疑念が向けられる始末だ。

 先に木下が触れた政治学者の丸山真男は、かつて日本が無謀な戦争に突き進んだ背景として、旧憲法では内閣に憲法上の権限がなく、軍の統帥権も独立していたため最高意思決定機関が不在だったと指摘し、こうした日本の意思決定の特徴を「無責任の体系」と呼んだ。

 その意味で、現状は当時と二重写しだと言わざるを得ない。これこそ「日本モデル」と呼ぶべきかどうかはともかくとして。

                           (山口 協:当研究所代表)


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