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アソシ研リレーエッセイ
緊縮政策が奪う人
間の尊厳


 ケン・ローチ監督と言えば、日本では2017年に公開された『私は、ダニエル・ブレイク』を想い出す。

 舞台はイギリスのニューカッスル。主人公は妻を亡くした初老のベテラン大工ダニエル・ブレイク。彼は心臓病を患い、医師からは就労困難と言われている。ところが、政府の給付金を受け取るにはコンピューターでの求職登録が必要。これまで腕一本で食べてきた彼には難関だ。杓子定規の役所仕事に翻弄され、腹立ち紛れに皮肉を言えば、面接官から「就労可能」と認定されてしまう。実際には働くことができないのに、求職活動しなければ給付が打ち切られる矛盾。アリバイ的な求職活動を強いられ、職人としてのプライド、人間の尊厳は傷つけられる――。

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 第二次大戦後のイギリスは、労働党政権の下、「ゆりかごから墓場まで」と言われる福祉国家政策がとられていた。それが急激に変化するのは、1980年代のサッチャー政権下だ。「社会などというものはない」との発言に象徴されるように、サッチャー政権は私的領域、それを垂直に統合する国家領域だけを重視し、中間にあるはずの社会という「共」の領域を徹底的に排除した。

 国家が社会を下支えする福祉国家の役割は否定され、民営化による市場原理の導入が推奨された。かつての手厚い社会保障制度も削れるだけ削られ、貧困と格差が拡大した。失業者を就労可能か不可能かによって分類し、就労可能なら就労もしくは求職活動と引き替えに給付金を支給する。就労と福祉を連動させた「ワークフェア」と呼ばれる制度も、サッチャー時代に導入された。

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 さて、ワークフェアに翻弄されるダニエルは、二人の子どもを抱えたシングルマザーのケイティと知り合う。ダニエルは食費にも事欠くケイティをフードバンクに案内するが、陳列された食品を前にしたケイティは空腹のあまり反射的に缶詰をこじ開け、涙を流しながら手づかみで貪り喰う。その様子に心を痛めたダニエルは、ケイティ一家の力になろうと支援を行う。それはまた、彼自身が人間としての尊厳を取り戻すことでもあった。

 つかの間の微笑ましい一瞬。だが、現実は残酷だ。子ども二人を育てるためにどうしても現金が必要なケイティは、やむを得ず売春という手段を選んでしまう。それを知ったダニエルが説得するも、ケイティは拒絶し、二人は絶交状態になってしまう。

 非人間的な社会保障制度に怒りを募らせたダニエルは、思いあまって役所の壁に抗議の落書きをする。

「私は、ダニエル・ブレイク。名前を持った人間だ」。

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 イギリスの状況はサッチャー政権以降もあまり変わらなかった。1997年、20年近い保守党政権から労働党が政権を奪還するも、ワークフェアをはじめサッチャー政権の基本的な方向性は温存される。

 こうした流れに追い討ちをかけたのが、財政赤字削減を公約に掲げて2010年に発足した保守党キャメロン政権だ。赤字削減の緊縮政策を錦の御旗に、医療や社会保障への支出がさらに削られた。今回のコロナ禍の中、イギリスで多くの感染者と死者が発生したのも、そうした歴史的経緯が深く関連していることは間違いない。

 不慮の病気による失業者、慎ましく生きるシングルマザー。何の罪もない人々が、特定の人間の悪意によってではなく、構造的な制度によって生活苦に追い込まれ、人間としての尊厳すら剥奪されてしまう。緊縮政策の恐ろしさはそこにある。

 今年初めのイギリス総選挙で、敗れたとは言え「反緊縮」を訴えたコービンの労働党が若者の圧倒的な支持を得たのは、その裏返しと言えるだろう。

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 映画の終盤、失意の中で生きる気力を失ったようなダニエルに、今度はケイティが支援の手を差し伸べる。自らの生活再建に尽力してくれた良心的な弁護士を紹介するという。求職活動などしなくても給付金の支給は可能。役所の対応は不当――。そう告げられたダニエルは、再び生きる気力を取り戻す。しかし、その直後、心臓発作で帰らぬ人となる。

 あまりに苦い結末だ。しかし、彼はただこの世を去ったのではない。人間の尊厳、それを守る社会とは何かという問いかけ。彼の唯一の遺産である。

                        (山口 協:当研究所代表)



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