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斎藤幸平さん講演学習会 報告

21世紀のエコ社会主義に向けて
気候危機から資本主義を超える


 東西冷戦の終焉から30年。いま私たちの目の前には、拡大する格差や貧困、止むことのない戦乱、そして深刻化する気候危機など、惨憺たる状況が横たわっている。破綻の大洪水に呑み込まれる前に、私たちは新たな社会を目指し、歩み出さなければならない。そんな問題意識から、去る2月23日、マルクスとエコロジーの研究で国際的評価の高い新進気鋭の思想家・斎藤幸平さん(大阪市立大学大学院経済学研究科准教授)をお招きし、講演学習会を開催した。以下、その概要を紹介する。(文責は当研究所)



 はじめに

 私がこの間取り組んでいるのは、社会主義の概念を更新することです。ソ連が崩壊して以降、社会主義に対する印象は非常に悪いのが現実です。マルクスを研究しようと考える学生たちは非常に少なくなっているし、ましてやマルクス主義を掲げる運動もほとんどありません。

 しかし、その一方で貧困や格差の問題、また私がいま一番着目している気候変動、気候危機の問題などは深刻化し続けています。こうした問題について、個人の努力でなんとかできるとか、市場メカニズムを使えばなんとかなるとか、あるいは国際機関が頑張ればどうにかなるとか、ビル・ゲイツのような賢い人がなんとかしてくれるとか、すでにそんな話では済まなくなっています。

 もっと抜本的に、いまの私たちの生活のあり方や思考のあり方を規定しているシステム、つまり資本主義システムそのものを考え直さないと、貧困や格差といったレベルにとどまらず、人類が滅ぶところまで来てしまっている。もはや何らかの形でオルタナティブ、ポスト・キャピタリズムを考えなければいけないのではないか。私はマルクスを専門にしてきたので、やはり社会主義、共産主義、コミュニズムに立ち返る必要があると思っています。

 しかも、それにはエコロジーの観点が不可欠です。実は、この間研究する中でマルクスも同じようなことを考えていたということが分かってきました。もちろん、マルクス自身は現代の気候危機に代表されるグローバルな環境危機を知る由もなかったとはいえ、私たちは危機に直面して、どのように彼の理論を使うことができるのか。今日はその点についてお話したいと思います。


 大分岐の10年に

 昨年は東西冷戦解体のきっかけとなったベルリンの壁崩壊30周年でした。当時、アメリカの政治学者フランシス・フクヤマが「歴史の終わり」と言ったように、アメリカ型のリベラル民主主義と資本主義がソ連型の独裁的な社会主義に勝利したと、盛んに言われたそうです。私はその当時2歳なので、実感としては分かりませんが(笑)。

 ただ、それで30年経って、誰もが幸福になったかと思いきや、そんなことは全然ありません。むしろ世界的に貧困や格差が拡大しているし、リーマンショックも起きている。日本でも「ブラック企業」と言われるような状況が当たり前になっています。また、今日のテーマである気候危機はもちろん、欧米を中心にした右派ポピュリズムの台頭に示されるように、民主主義の危機も深刻化しています。あるいは、GAFA
(注1)のような一部の大企業があらゆる個人情報を集め、私たちはそれがどう利用されているのか知る術もない。情報技術(IT)や人工知能(AI)を軸にした社会の再編成が、どんどん進んでいます。

 そんな状況の中で、私はいまが大きな分岐点ではないかと思っています。いまから2030年までの10年、私たちがどういう対策をとるかによって、人類の未来が決まってくるのではないでしょうか。さらに分断や格差が進行していく方向に進むのか。GAFAのような一握りの巨大企業が情報や技術を握ってすべてを管理し、私たちは低賃金労働だけをやらされるような社会に進むのか。あるいは、さらに気候危機を悪化させ、富裕層だけが生き延び、残りの大多数は住処を追われ、旱魃や洪水による食糧危機に苦しんだり、疫病に苦しんだりする社会に進むのか。

■斎藤幸平さん
 環境危機は不可逆的であり、将来世代にはどうすることもできません。歯止めをかけるなら、事態が進行する前にしないといけない。つまり、私たちがやらないといけないんです。その意味で、この10年というのは非常に大きな10年だと思っています。

 もっとも、これは逆にチャンスと捉えることもできます。というのも、これだけ事態が深刻になると、小手先の弥縫策ではとうてい間に合わないからです。世界が崩壊する前に、これまでの生活のあり方、社会のあり方を見直し、もっと自由や平等や公正を重視する社会に転換しようとする運動が出てくる可能性も高まるはずです。


 社会主義を支持する若者たち

 実際、そうした運動が現れつつあります。希望の一つが、バーニー・サンダースです。あまり神格化するのも問題ですが、まさにフランシス・フクヤマが「歴史の終わり」を実現したと見なしたアメリカで、自ら社会主義者を名乗る人物が大統領選挙に挑んでいる。それに若者たちが熱烈な支持を表明し、民主党の大統領候補になるかもしれない状況が生まれている。これは本当に大きな変化です。ソ連など知らない、冷戦が終わった後に生まれた若者たちが、「アメリカ最高」とはならず、むしろ現在のアメリカを批判し続けているサンダースを支持している。

 こうした大きな変化の流れをつくったのが、アレクサンドリア・オカシオ=コルテス(AOC)という若い民主党の議員です。若者の熱狂的な支持を受けている彼女は、サンダースを真っ先に支持しました。

 彼女は大学を出たけれども、なかなか安定した仕事がなくて、ニューヨークでバーテンダーとして働きながら、オキュパイ運動
(注2)などを通じて、いまの社会のあり方はおかしいという確信を深めていきます。おかしな社会を変えるために下院議員に立候補しました。誰もがまさか勝つとは思わなかったけれども、民主党の予備選で勝って、本選挙でも勝って議員になりました。

 もちろん、そこには現実的根拠があります。彼女に象徴されるように、若者たちの中には格差の問題、学生ローンや医療費といった問題に対する不満、アメリカはこれでいいのかという怒りが充満しているんです。実際、この間富裕層に対して減税が続けられた結果、富裕層が支払っている実質税率と比べて、下から半分に位置する人たちが払っている実質税率の方が上回るようになってしまった。こうした明らかな不条理に対する怒りが、若者たちの中から出てきています。

 アメリカだけではなく、イギリスでも同じような動きがあります。残念ながら、昨年12月の総選挙でジェレミー・コービン率いる労働党は負けてしまいましたが、若者たちの投票だけを見れば、60%ぐらいは労働党に入れていたそうです。つまり、アメリカと同じようにイギリスの若者たちも、やはり社会主義者を名乗るコービンのような労働党の最左派を熱烈に支持していたわけですね。日本にいるとあまり分かりませんが、ヨーロッパやアメリカでは、明らかにそういう流れが実感できます。

 では、そこで言われる「社会主義」とは何なのか。『毎日新聞』(2019年12月1日)の記事によると、ソ連崩壊以降に生まれた若者たちの中では、民主党の支持者の50%以上が「社会主義の方がいい」と考えているそうです。彼らの考える社会主義は、明らかにかつてのソ連とか東ドイツのような社会主義ではないはずです。ならば、どんな社会主義なのか。


 エコ社会主義という新たな潮流

 実は今日「エコ社会主義(エコロジカルな社会主義)」と言われる社会主義像が広がりを見せつつあります。結論を先に言うと、気候変動を止めようとするならば、資本主義システムを見直さなければならず、当然そのオルタナティブはサンダースたちの言う社会主義に組み込まれなければならない。それこそが「エコ社会主義」なんです。

 たとえばナオミ・クラインです。日本では『ショック・ドクトリン』が知られているくらいですが、アメリカではオピニオンリーダーとしてメディアにもよく登場し、若者たちの間で影響力があります。彼女はサンダースを非常に熱心に支援しています。

 彼女については、売れっ子のジャーナリストだから、行き過ぎた新自由主義を批判しているだけで資本主義そのものを乗り越えようとはしていないんじゃないか、と捉えている人も少なくないと思います。しかし、最新作の『これがすべてを変える』(邦訳:岩波書店、2017年)では、「エコ社会主義」という言葉を使っているんですね。こう言っています。

 「〔ソ連とかベネズエラが深刻な環境破壊を引き起こしたという〕事実は認めよう。他方で強固な民主主義的社会主義の伝統を持つ国々――デンマーク、スウェーデン、ウルグアイ――が、世界でもっとも先見の明がある環境政策を採用していることも指摘しておく必要もある。以上のことから結論できるのは、社会主義は必ずしもエコロジカルではないものの、新しい形の民主主義的なエコ社会主義――、それは将来世代への義務やあらゆる生命のつながり合いについての先住民の教えから学ぼうとする謙虚な姿勢をともなっていなくてはならない――が、人類の集団的生存にとっての最良の企てであるように思われるということだ」。

 明確にエコ社会主義という言葉を使って、人類の生存を考えたら社会主義しかないと言っています。私より若い世代は、これをすっと受け入れられる。資本主義は全然豊かにしてくれていないし、むしろ人間の生存を脅かしているじゃないか、やっぱり資本主義とは違う方がいいんじゃないか、と。30年前とは違う大きな変化の流れが生じています。


 エコ社会主義としてのマルクス思想

 その上で、エコ社会主義と言うのであれば、やはりマルクスを避けては通れないだろうというのが、私の意見です。とは言え歴史的に見れば、社会主義の理論家としてのマルクスは環境思想や環境運動にとって批判の的でした。マルクスはソ連のような計画経済を通じてアメリカより効率のよい経済発展を求めていた。工業化を進めて生産力をどんどん上げ、労働者を豊かにすることだけを考えていた。自然や環境の問題は副次的どころか、むしろ自然をどんどん支配していけばいいという思想だった――。要するに「生産力至上主義」として批判されてきました。

 ところが2000年代ぐらいから、とくにアメリカで、マルクスの自然に対する思想に着目する研究が現れるようになります。代表的なのはジョン・ベラミー・フォスターやポール・バーケットなどです。彼らは「物質代謝の亀裂」という概念を軸に「マルクスのエコ社会主義思想」を提唱しました。まさにそうした影響を受けて、私もマルクスとエコロジーに関する研究を深めるようになりました。私の英語の著作は『カール・マルクスのエコ・ソーシャリズム』
(注3)というタイトルになっています。

 今日はマルクスの理論には深入りしませんが、一言だけ触れておきます。要するに、マルクスは一貫して、人間と自然は常に関わり合いを持ちながら、エネルギーを含めてさまざまな物質のやり取りをしているという視点を持ち続けていました。それを表しているのが「物質代謝」という言葉です。『資本論』では、労働は人間と自然の物質代謝を媒介する行為だと言っています。

 ただし、どんな社会かによって、労働のあり方はまったく異なってきます。資本主義社会だと、労働は人々の欲求を満たしたり、自然の持続可能性に重きを置いて行われるのではなく、資本の価値増殖のために組織されています。これが労働の形式的包摂と実質的包摂という概念です。資本の論理によって、労働のあり方がそれまでとは抜本的に変わっていく。そうすると、人間と自然との物質代謝のあり方も大きく歪められていきます。

 資本の価値増殖のために、人間の労働力をどんどん搾り取ろうとするから人間の側も変わっていく。自然も資本にとっては無償の贈物、恩恵ですから、できるだけ搾り取ろうとして、資本がどんどん自然に介入するようになると、人間と自然の物質代謝、さらには自然そのものの物質代謝のサイクルが攪乱されて大きな亀裂が生まれてしまい、最終的には修復不可能なところまで行ってしまう。マルクスは『資本論』でそう言っています。

 つまり、資本主義の下では持続可能な人間と自然の関わり合いは決して実現できないというのが、マルクスの直観でした。その直観を基礎づけるため、いろんな事例を調べています。森林伐採ではどう表れるか、石炭資源での関連ではどう表れるか、土壌との関係ではどう表れるか、酪農で牛や羊との関係ではどう表れるか。そんなふうに、晩年のマルクスは自然科学を猛烈に勉強しているんですね。私は日本語で出した『大洪水の前に――マルクスと惑星の物質代謝』(堀之内出版、2019年)という本の中で、このあたりのことを明らかにしています。

 その上で、こうしたマルクスの洞察は、現代の気候危機を分析するためにも使えるのではないかと思っています。マルクス自身は化石燃料の使用による気候変動の問題という形では扱ってはいませんが、マルクスの基本的なアプローチ、方法論はそのまま使えるというのが私の考えです。


 システムそのものを変えなければ

 なぜ気候変動かと言えば、この間グレタ・トゥーンベリの活躍もあって、ご存知の方も多いと思います。産業革命前と比較して2100年までの気温上昇を1.5度以内に収めないと、相当深刻な事態が引き起こされるというのが、最近の科学者たちの一致した見解です。すでに現時点で、だいたい1度くらい上昇していると言われています。もし、この10年で何の対策もしなければ、2030年には1.5度上昇し、2100年には5度くらい上昇してしまうということです。だから、この10年で1.5度上昇してしまうのか、そうならないように対策を打つのか、いましか決められません。そう言う意味で、私はこの10年が大分岐の10年だと言っています。

 2100年までの気温上昇を1.5度以内に収めるという目標を設定すると、2030年までに二酸化炭素の排出量を半減させ、2050年までには排出量を実質ゼロにしなければならない。これは大変な変化が必要となります。いまでも世界的にみると二酸化炭素の搬出量は減っておらず、むしろ増えています。インドや中国もそうですが、日本も全然減っていない。それどころか、神戸に石炭火力発電所を建てようとしたりして、減らそうという気もないようです。

 このまま企業の自主努力に任せていたら、2050年までにとうていゼロにはできません。これは明らかです。というのも、資本主義は資本を増やす過程で、できるだけ経済規模を大きくして、経済成長をしなければならないからです。経済規模が大きくなるためには当然、人々はより多くモノを消費しなければならないし、より多くのモノを作って売らなければならない。そのためには当然、より多くの原料やエネルギーを使わなければならないし、必然的に二酸化炭素の排出量は増える。

 言い換えれば、GDP(国内総生産)を拡大しながら二酸化炭素の排出量を減らしていくのは不可能です。グレタも、経済成長を続けながらこの問題を解決できるなんていうのはおとぎ話だ、と言っています。資本主義が成長を止めたら、もう資本主義じゃない。だからグレタは、いまのシステムの中に解決策が見つからないなら資本主義システムそのものを変えるべきだ、と言うわけです。これは、要するに社会主義に移行しろと言っているのと同じです。

 それが、いま世界中で何十万人ものデモを起こすぐらいの影響力を持つ言説になっているんですね。日本の気候マーチは、関西だと500人くらい、東京でも1000~2000人ぐらいですが、世界の若者の認識にはもっと大きな変化がすでに生じています。今回のオーストラリアの火災を見ても分かるように、気候危機がこれから30年後ぐらいに深刻化するというような話ではなくて、まさに現在の危機になっています。すでに危機は始まっているんだという認識に立てば、気候変動への対策を求める運動も、ラディカル化するのは当然です。

 つまり、デモや署名活動などではとうてい政府は動かない、もっと訴えを激化させなければならないという認識が広まっている。昨年10月、イギリスの環境運動団体「絶滅への反逆」はロンドン中心部で占拠や座り込みを行い、1400名が逮捕されています。グレタの場合は学校をボイコットして議会の前で座り込んだりしています。アメリカでも、民主党議員のオフィスの前で若者たちが座り込みを行い、そこにオカシオ=コルテスが駆けつけて一緒に座り込みをする。そういう直接行動が増えています。


 リベラルな選択肢は残されていない

 なぜ世界がラディカル化しているのか。それは、これまでのようなリベラルな選択肢は残されていないからです。要するに、行き過ぎた資本主義を是正して、左右の分断を乗り越えて、みんなが手と手を取り合えば、なんとか元の社会に戻るんじゃないか――。そんな選択肢はもはや不可能です。これまでそうした選択肢を選んできた結果、現実には対策がどんどん遅れてしまい、後に退けない状況になってしまった。それを繰り返せば、究極的には地獄のような状況が待っている。そうなると、残された選択肢は、1%だけが救われれば後はどうなっても知らないという、トランプのような右派ポピュリズムか、資本主義も含めて社会のあり方を大幅に変えることで人々が生き延び、自由や平等や持続可能性を重視する社会主義的な選択か。後者は左派ポピュリズムとも言われますが、そういう両極端しかない。

 これまでなら、後者のような主張は過激で非現実的なユートピアだと見なされました。でも、この生活がそのまま続くと考えること自体、実は最も非現実的なんですね。もはや科学者は誰もそんな選択肢を挙げていません。政治家は現在のシステムを前提に、リベラルな選択肢を提案しようとしますが、それではもう間に合わない。だからこそ左派のラディカルな理論や行動が重要になっているわけです。

 かつては事情が違いました。すでに1980年代、ジェームズ・ハンセン
(注4)は警告しています。気候変動は人類が引き起こしているものだから、何とか対策すべきだ、と。その時から段階的に移行を始めていれば、リベラルな選択肢も残っていたでしょう。ところが、その時に何が起きたかというと、まさに89年にベルリンの壁が崩壊し、91年にはソ連が崩壊して、世界は新自由主義のグローバル化一色になってしまいました。ハンセンの警告など忘れられ、新たな市場が現れた、新たな資源もたくさん出てきた、どんどん成長していけばいいじゃないか、ということになってしまった。実際、最初はそれでうまくいくように見えたんです。でも、その結果として、もはや段階的な移行を実現するための時間的余裕はなくなってしまった。あと30年で二酸化炭素の排出量を半減しなければならないわけですから、段階的な移行ではどうてい間に合いません。
                        ■当日の模様

 グレタは厳しいです。「あなたたちが科学に耳を傾けないのは、これまでの暮らし方を続けられる解決策しか興味がないからです。そんな答えはもうありません。まだ間に合うときに行動しなかったから」と言っています。もともと政治的な発言を好まない科学者たちでさえ、もう普通の解決策はないと言っている。にもかかわらず、「あなたたち」つまり政治家、エリート、官僚たちは耳を傾けない。なぜか。耳を傾けたら、今のシステムそのものを大幅に転換しなければならないからです。それが認められないんだったら、耳障りのいい解決策はもうありませんよ、ということです。


 エコ社会主義と階級闘争

 残された時間はわずかで、できる限りの手段を使わないと取り返しのつかない状況になっている。ここで問題なのは、誰が責任をとるのかということです。二酸化炭素を大量に排出する人たちが責任をとって苦しんでくれたらいいけれども、そうはならない。むしろ、自分たちは排出していないのに温暖化の結果だけ押しつけられる将来世代、それから途上国の人たちです。

 世界の金持ち上位10%が排出している二酸化炭素の量は、排出量全体の半分を占めています。それに対して下から半分の、およそ35億人が排出している量は、全体のわずか10%です。つまり、ほとんど責任がないにもかかわらず、貧困層や途上国の人たちは真っ先に熱波や海面上昇、洪水などによって移住を迫られ、食糧危機に見舞われるわけです。

 ちょうどいま、アフリカでは4500億匹のバッタが急発生しており、今後アフリカでは深刻な食糧危機が起こると言われています。バッタが急激に発生した原因の一つが、気候変動による旱魃です。アフリカの大多数の人たちが排出する二酸化炭素は比較的少ないにもかかわらず、先進国の人々や富裕層が二酸化炭素を大量に排出したせいで気候変動が起き、旱魃が起きやすくなって、食糧危機という結果に真っ先に直面させる可能性が高まっている。

 ところが、原因を作り出している当の富裕層や資本主義はと言えば、責任を取るどころか危機的な結果を利用して、食糧援助の名目でバッタにも強いような遺伝子組み換え食物を売りつけようとしたりするわけです。あるいは、水不足になれば高い値段で水を売るかもしれないし、自然火災が起きた時にも対応可能なレスキューサービスを備えた富裕層向けの保険を売り出すとか、気候変動が激化する将来を見越して農地の確保をしたり、あるいは富裕層が移住するコロニーを作ったり。いずれにせよ金儲けの機会には事欠きません。

 こうしてみると、気候変動問題にも、やはり階級闘争という側面が多分にあることが分かります。もちろん、階級闘争と言っても、かつてのように労働者だけの話ではなく、貧困層や途上国の人たち、移住を迫られる環境難民の人たちも含めて、資本主義によって生活、生産の手段を奪われてしまう人々を広く考える必要があります。こうした人々を、私は「環境プロレタリアート」と呼んでいます。環境プロレタリアートと資本との階級闘争という構図が露わになりつつあります。

 そうした階級闘争の際に目指すべき対案こそエコ社会主義です。なぜかと言うと、気候正義
(注5)の考えに基づいた社会システムの転換は、単なる気候変動対策だけではないからです。それだけでは、先ほど触れたリベラルな選択肢のようなものでしかなく、気候変動を招いている資本主義のあり方を抜本的に問い直す要求にはなりません。それではもう手遅れです。もっと大胆に、抜本的に変えていかなくてはならない。

 たとえば、生産の計画化です。何をどれだけどうやって作るのか、企業に任せておくことはできません。カーボンバジェット
(注6)が減少しているとすれば、それを考慮しながら生産をしなくてはならず、それに合わない生産は強制的にでも停止するような社会的な管理が必要になるはずです。もちろん、これはいままでの規制緩和だとか、自由貿易の促進とは正面からぶつかります。

 そうなると、規制緩和や自由貿易至上主義といった発想から転換して、むしろローカルなレベルで生産や消費を重視するような雇用、労働のあり方を生み出していく必要がある。あるいは、これまでの二酸化炭素の排出に対しては大企業や富裕層により責任があるのだから、それに対して賠償を求めたり課税を行うことで、格差是正と気候変動対策を同時に進めていくことも考えられます。

 さらに言うと、資本主義は自然を無償の恩恵として、とにかく取れるものは取り尽くして自分たちのために使ってきました。こうしたあり方を「採取主義」と言いますが、長年にわたる採取主義を見直し、人間と自然の物質代謝の亀裂を、しっかりと修繕、克服するような社会のあり方に意識的に転換していく必要があります。そうでなければ、もう間に合わないところにきています。


 グリーンニューディールという包括的ビジョン

 とはいえ、こうしたエコ社会主義を目指すような運動は果たして存在するのか、疑問に思われるかもしれません。私は存在すると思います。もちろん、完璧だとは言えないでしょうし、実際に批判もあるんですが、最初の一歩にはなると見ています。それがグリーンニューディールです。サンダースの主要政策になります。

 サンダースは何を言っているか。たとえば、あと10年、2030年までに発電と交通機関を100%再生可能エネルギーで賄い、2050年までに完全な脱炭素社会を実現すると言っています。これは先ほど触れた、科学者たちの想定と同じです。その上で、サンダースは、脱炭素社会の実現のために16.3兆ドル規模の大型公共投資を行い、新たな雇用を創出すると言っています。つまり、既存のエネルギー関連産業で働いていた労働者に対して雇用保障や職業訓練を行い、エネルギー転換と労働者の生活保障を同時に行うということです。

 そのために、気候変動に関する緊急事態宣言を出すと言っています。たとえば、海洋採掘やフラッキング
(注7)は禁止する。さらに、農業のあり方を抜本的に転換する。農薬や化学肥料を大量に使ったり、大型機械で大量の石油を使ったりするような農業をやめて、「アグロエコロジー」と言われる持続可能な農業に転換していく。それと同時に、多数の農業労働者を雇用するような大規模農業経営から、小規模の農家たちが自ら権利を持って持続可能な農業を営むような形態に転換していく。あるいは、すでにかなり民営化の進んだエネルギー部門をユニオン化し、公共的なものに切り替えていくとか、公共交通機関を再生可能エネルギーにするだけではなく無償化していくとか、非常に包括的なビジョンを打ち出しています。

 彼のビジョンが優れているのは、これまでどちらかと言えば意識が高い人たち、中の上クラスの人たち向けのものだった環境問題を、労働問題や人種の問題と絡めて提示していることです。人種の問題で言えば、サンダースは先住民族の問題にも切り込んでおり、先住民族に対する補償と環境問題を絡めて提起しています。それから、軍事費の削減もそうです。この間、アメリカは大量の石油を使って中東に侵攻し、石油の利権を握ろうとしてきたわけですが、軍事費を削減することでエネルギー転換と平和を実現しようとしています。このように、平和や階級、ジェンダーや人種を含めた包括的なビジョンとしてグリーンニューディールが打ち出されています。


 気候ケインズ主義を超えて

 これは重要なところです。というのも、一口にグリーンニューディールと言っても、無限の経済成長を目的としてグリーンな領域に公共投資を行うような発想では、今までの資本主義のあり方とほとんど変わりません。実際、たとえば“グリーン革命でアメリカをもう一度グレートにしよう”とか、“グリーンな技術を輸出してさらなる成長を展望しよう”といった考えの人もいます。

 でも、当然ですがリチウムやコバルトといった太陽光発電を支えるような資源にも限りがあります。経済規模をどんどん拡張しながら、単にエネルギーをグリーン化しさえすれば問題はすべて解決するという考え方では、アメリカはグリーンになるかもしれないけれども、ブラジルや中国やチリなどでは資源がどんどん採掘され、労働者は搾取され、地域の環境は破壊されることになりかねません。そうならないためには、やはり資本の論理そのものをしっかりと抑制することが必要です。

 ナオミ・クラインも「グリーンニューディールは一回限りだ」と言っています。つまり、グリーンニューディールは当面の対策として使わざるを得ないとしても、その後は経済規模を縮小し、ある種の脱成長社会に移行していくべきだということです。だから、彼女はこうも言っています。

 「グリーンニューディールの生み出す良質なグリーンな仕事の賃金が、ただちに極めて消費主義的なライフスタイルにつぎ込まれ、うかつにも最終的には(二酸化炭素)排出を増やすようなことがないように」しなければならない、と。つまり雇用が増えたからと言って、みんなが海外旅行に出かけたり、車を買い換えたりするようなことになってしまえば、元も子もないんですね。ちなみに、グリーンニューディールで需要を喚起し、経済成長を目指す考え方は「気候ケインズ主義」と呼ばれます。

 そうではなく、むしろ「必要なのは、採掘に厳しい制限を課し、同時に、生活の質を改善し、際限のない消費サイクル以外の喜びを得るための新しい機会を人々に提供する移行」です。そうでなければエコ社会主義は実現されません。その意味では、現在まさにグリーンニューディールというプランにおいて、ヘゲモニー闘争が行われているわけです。実際、サンダース支持者の中にもさまざまな考えの人がいて、ヘゲモニー闘争を行っています。そうした中で、しっかりした変革のビジョンがなければ、最終的には気候ケインズ主義的な発想に負けてしまうでしょう。そうならないためにも、私としてはマルクス研究をさらに深め、新しいエコ社会主義の概念を更新していかなければならないと考えています。


 エコ社会主義と「コモン」

 
【質問】新自由主義からの決別とエコ社会主義というお話を聞いて、宇沢弘文さん(注8)の名前を思い浮かべました。斎藤さんの宇沢さんに対する評価をお聞きしたい。

 
【斎藤】宇沢さんのことはよく訊かれます。私は『未来の大分岐』(集英社新書、2019年)の中でアメリカの哲学者マイケル・ハートと対談していますが、彼は「コモン」という概念を使っています。このコモンが、宇沢さんの「社会的共通資本」に似ているんじゃないかという話をよく聞きます。似ているところは多々あります。世の中には市場での管理に馴染まないものがあり、それは社会的に管理した方がいいという考えですね。その点では同じですが、ハートたちは宇沢さんの議論を知らないので、独自にコモンという概念を提唱しています。もっとも、コモンという概念もとくに真新しいわけではなく、昔からコモンズという概念は存在しているし、そんなに特異なものではありません。

 とはいえ、マルクスを研究する上で、コモンという概念は非常に重要です。これまでのソ連型のマルクス主義では、議論の中心は「私的所有vs.国有」でした。つまり、資本主義か社会主義かの問題は、誰が生産手段を所有するのかという所有の問題に還元され、国有にすれば問題は解決するとされてきた歴史があったんです。でも、実際に国有にしてみたら、官僚が資本家の代わりをするようになって、ある種の国家資本主義が生まれてしまった。それに対して、ソ連が崩壊した時、資本主義か社会主義かの問題は、所有の問題ではなくアソシエーションの問題なんだという提起が行われました。コモンという概念もそれに通じる面があります。つまり、単に国有か私有かではなく、その間にある第三の層ですね。

 たとえば、労働者協同組合は国有でもないし私有でもない、労働者が自ら協同で所有している。これはコモンの一つでしょう。あるいは、水道も地方自治体が管理しているもので、国有でもなく私有でもない、そういうものを私有にしようという流れはあるけれども、それに対抗する動きもある。これもコモンです。あと、日本ではこの間種子法の改正という問題がありますが、種子は本来は誰のものでもなく、長い歴史を経て代々受け継がれてきたもの、いわばみんなのものなんですが、それもコモンです。知識や情報もそうですよね。

 要するに、誰かに独占されず、みんなが共通に民主的に管理することが可能だし、その方が人々の生活や発展にとって、むしろ有効活用できるという概念がコモンです。さらに言うと、コモンの領域を広げていく、つまり人々が国家に頼らずに、私的所有や商品化の論理にも囚われないような形で、自分たちの生産手段を管理する領域を広めていくのがコミュニズムの運動だと言えます。

 マルクスは、コモンとは究極的には「Erde」(地球、大地を意味するドイツ語)だと言っています。地球、大地、自然というのは本来は誰のものでもない。だから、国有にすれば問題が解決するわけでも、私有にすれば問題が解決するわけでもない、そういう領域としてコモンを持っていないといけないというのが、マルクスのエコ社会主義の根底にあると思っています。私は、宇沢さんの社会的共通資本は、必ずしもそこまでは行かないような気がしています。


 マルクスとラディカルな改良主義

 
【質問】いまのコモンの話で、たとえばロシアにミール共同体がありましたよね。「ザスーリチへの手紙」にあったように、後期のマルクスは、いわゆる生産力主義ではなくて、共同体そのものを生かしながら社会主義革命を起こすという考え方を持っていたように思いますが、それがいつのまにか、国家権力を奪取して社会を変えるという方向に固定化されてしまった。これはやはりマルクスの中に国家社会主義的なところがあったんじゃないですか。

 
【斎藤】マルクスがややこしいのは、主張が変わることです。でも、人間だから当たり前ですよね。それなのに、マルクス主義はそういう主張の変化を許容できず、思想としての一貫性、体系性を強調してしまいました。あれほど多作で、しかもほとんどが草稿だったり、断片だったりするものを体系化するのは極めて困難です。

 そこでエンゲルスの出番になります。エンゲルスは頑張って、しかもマルクス主義という政治運動をつくるために、理論の体系化、単純化を行いました。その点で分かりやすいのは『共産党宣言』でしょうね。そういう初期の作品には、いわゆる前衛党的な考え方とか、プロレタリアートが権力を奪取して、国有化を通じてさまざまな改革を進めていくといった考え方も出てきます。そういう発想が強く出ている作品から体系化が進められました。

 その一方で、たとえば労働者協同組合について、当初は改良主義でダメだという否定的な評価から、後にはアソシエーション的なものとして高く評価する方向に抜本的に変わるんですね。あるいは標準労働日の制定で、10時間労働制から8時間にすることが重要だとか。ある種の改良主義的な方法を評価したり、あとは地方分権的なコミューンの評価もそうですが、変革路線が大きく変わってきます。

 その意味で、マルクスが資本主義の枠内での変革、言わば改良主義を非常に重視していたことは疑えません。ただし、それは単なる改良主義ではなく、最終的には資本主義の論理そのものを侵食して揺るがすようなラディカルな改良主義です。そこが重要なところです。その延長として、ロシアのミール共同体を含めた共同体が、むしろ抵抗の拠点になるという発想が出てきます。

 私が注目するのは、もしマルクスがロシアの共同体を社会主義の基盤として捉えているとしたら、事実上マルクスは脱成長を受け入れていることになるからです。共同体社会はほとんど経済成長をしない、安定した状態と言われます。そういう定常型の経済を、ある種の社会主義の基盤として評価できるとすれば、マルクスのコミュニズム像も、今日私が触れたような脱成長型のコミュニズムという概念と結びつく可能性が開かれるかもしれません。


 なぜ日本の運動は盛り上がらないのか

 
【質問】お話の中で、気候危機への危機感とか、エコ社会主義への関心というのは、欧米では盛り上がっているけれども、日本ではまだそこまではいかない状況があると言われました。この違い、なぜ日本ではなかなか盛り上がりにくいのかということについて、お考えを聞かせてください。

 
【斎藤】難しい問題ですね。ただ、日本の場合は若者の気候変動に対する問題意識だけが低いのではなく、労働運動も含めて運動全体が非常に厳しい状態が続いている。それが実感だと思います。ただ、スウェーデンでグレタが行動を始めた時も一人だったわけで、必ずしも最初から関心が大きかったわけではありません。

 日本の場合、問題は「知らない」ということです。どれほど深刻な危機か、気づいていない人が大半です。なぜ知らないかと言えば、メディアが報じないから。なぜ報じないかと言えば、記者の関心がないからです。そういう問題は環境部が担当していて、政治部や経済部の記者はあまり扱わない。環境部は新聞社で中心的な部署ではないなので、一面に記事が載ることはない。その結果、深刻な危機が知られる機会もなく、悪循環がずっと続いています。

 ただ、安保法制問題のシールズもそうでしたが、一度火さえ点けば、あまり党派の縛りもなく、今まで関心のなかった若者たちが自然と入ってくるような流れはできやすいと思っています。とくに気候危機に関しては、自然に解決するような問題ではないので、これから日本でも運動が拡大する可能性はあると思います。私も何回かデモに行ったりしましたが、スピーチを聞いたりしても、頑張っている若者たちは少なくありません。

 いま海外の運動では、「システム・チェンジ、ノット、クライメイト・チェンジ(気候変動ではなくシステムの変革を!)」というスローガンがあります。システム・チェンジが先、システムを変えないと気候変動は止められないという明確なメッセージです。一方で、日本の若者たちは気候変動を止めようというスローガンは叫ぶけれども、それがシステム・チェンジには結びついていないですね。この点では、やはり気候変動をシステムの問題として理解してもらえるよう、左派の理論がもっと頑張らないといけないと思います。


 権力的手法と民主主義をめぐって

 
【質問】現状では資本が大きな権力を握っており、エコ社会主義的な運動が力をつけたとしても、よほどのことがなければ巻き返されてしまうでしょう。そう考えると、グリーンニューディールにしても、ある程度の権力的な手法がなければ進展するとは考えにくいです。あと10年とすれば時間もないわけで、民主主義は時間がかかるけれど議論することに意味があるなんて言っていたら、あっという間に経ってしまいます。その点はどうお考えでしょうか。

 
【斎藤】私が『未来への大分岐』の第一章で述べたことと重なりますが、気候変動が10年で抜本的な変革を要するという意味では、ある程度政治主義的に、国家の力をフルに活用しながら、既存のありとあらゆるものを使わざるを得ない。あくまでコモンを重視するマイケル・ハートと見解が大きくずれるところです。コモンは確かに民主的で、民主主義は時間がかかる。その意味で、私はコミュニズムで脱成長が起きる理由は民主主義だと思います。アソシエーションの中での意思決定が民主的に行われるとすれば、企業での意思決定に比べて大幅に遅くならざるを得ない。生産スピードが落ちて、経済成長のスピードもかなり緩やかになるはずです。

 だから非常に重要なんですが、いま求められている対策には間に合わなくなってしまう。海洋採掘やフラッキングの禁止とか、あるいは石炭火力の強制的な停止とか、ある程度は強権的な手法で即時導入する必要も出てくるでしょう。おっしゃるように、石炭火力を継続するか、10年後に止めるか、民主的に意思決定している時間はない。即時停止が正当化される理由は、そうしなければ将来世代の人々の繁栄を脅かしてしまうからです。繁栄のための条件が民主主義によって破壊されたら元も子もない。将来世代が民主主義を可能にするための対策には、民主的な過程を経ずに、ある種の政治主義的な上からの改革が必要になるような気がしています。


 AIは計画経済を救えるか

 
【質問】先ほど将来イメージについて、何らかの計画的な経済運営の必要性に言及されましたが、たとえばAIなどの技術をうまく使えば、旧ソ連のような中央統制経済ではなく、技術的に経済をコントロールできるということでしょうか。だとすれば、全体の管理統制と、各生産単位で自主的民主的に運営していくべき分権的システムとの兼ね合いは、どう考えたらいいのでしょうか。

 
【斎藤】イギリスのジャーナリスト、ポール・メイソンは『ポストキャピタリズム』(邦訳:東洋経済新報社、2017年)という本の中で、党官僚ではなくAIが代わりに計算を担っていれば、ソ連の計画経済は成功したと考える人たちの議論を紹介しながら、最終的にはサイバー独裁、サイバー・スターリン主義が生まれると結論づけています。つまり、官僚でなくAIと計算機が意思決定を行い、人民は計算機が出した答えに従う形になってしまうと、一見効率がいいようで、結局は資本家の代わりに機械に服従することになる。これは要するに、大工業で生きた労働が死んだ労働に支配される生産過程の物象化ですが、それが生産全体に拡張されて、人間は機械の奴隷になるような世界が現れるわけです。

 その意味で、やはりアソシエーションは重要です。生産はそれぞれ地方分散型で意思決定ができるような余地を残しておき、それをボトムアップ的に集約して、再調整する際のプロセスを透明なアルゴリズムとか、AIみたいなものを使って効率化していく。そういう可能性はあると思いますが、全部AIに任せれば、ソ連型の社会主義もうまくいったというような考えは危険だと思います。

 イギリス労働党のジェレミー・コービンたちは、「オルタナティブな所有モデル」というパンフレットを出して、労働者協同組合が21世紀型の抵抗の形になる可能性を主張しています。これは結構新しい話です。20世紀型の労働者運動は福祉国家モデルで、福祉国家というのは、企業が作ったものを国家が巻き上げて再分配するシステムですが、コービンたちは労働者協同組合に着目することで、必ずしも国家の再分配を媒介せずに労働者が自分たちで生産―分配を調整するようなモデルに移行する可能性を示しています。今日は紹介できませんでしたが、イギリスやアメリカでの議論はそういう形で進んでいる。今後そうした議論を紹介することが、私の役目だと考えています。


 社会運動と政治勢力の連携

 
【質問】イギリス労働党が今回の総選挙で出したマニフェストの表題は「緑の産業革命」でした。斎藤さんの注目点を教えていただければと思います。

 
【斎藤】基本的にはサンダースのグリーンニューディールと同じような内容です。気候緊急事態宣言を発令して、大型予算を組んでやっていく。面白いのは医療の領域で、「製薬のコモン化」を検討しています。いま各国では「医療費が足りない足りない」と言っていますが、一つの原因は薬の高騰です。一錠何千万円の薬まであって、製薬会社だけがぼろ儲けしています。ここでコービンたちは、人命にかかわるものを商品化に任せておいていいのか、と明確に疑問視した。製薬会社の国有化や製薬に関する特許の無効化などを目的に、コモン化を検討すると言っています。製薬会社と資本の論理と真っ向から取り組む。それによって浮いた予算で国営医療のナショナル・ヘルスサービス(NHS)を拡充するということです。これは実に斬新です。

 もう一点コモンとの関連で面白いのは、高速インターネットの無償化です。いまやインターネットは、水や空気にように人々の生活にとって不可欠です。にもかかわらず、お金を払えない人はインターネットを利用できません。しかし、必要な情報にアクセスできなければ民主主義も機能しなくなってしまいます。そこで、無料で高速インターネットを提供する。これもまさにコモンです。

 こうした包括的なビジョンを出すことで、若者たちを魅了しています。もちろん、これはコービンが一人でやっているわけではなく、モメンタムという下部組織があって、彼らが開いているワークショップとか集会などでこういう要求が出され、それを執行部が取り入れるというサイクルです。

 グリーンニューディールもサンダースが考えたわけではなく、サンライズ・ムーブメントという運動があって、彼らが運動を広げる中でサンダースにアプローチし、それをサンダースが受け入れたという経緯があります。その証拠に、サンダースは今回の大統領選で新しいマニフェストを出し、サンライズ・ムーブメントはそれを信頼する形で、最終的にウォーレンではなくサンダースを支持する声明を出し、いま若者たちは熱狂的に支持しているわけです。

 そこが重要なところで、既存の政治勢力が若者受けする政策を打ち上げればいいわけではない。むしろ、それを既存の政治勢力に要求していくような下からの運動がなければ、結局すぐに負けてしまう。私が言うのもおこがましいですが、社会運動が基礎になっている点は強調しておきたいと思います。

[注]
 (1)支配的・独占的な米国のIT企業4社、グーグル(G)、アマゾン(A)、フェイスブック(F)、アップル(A)を指す。
 (2)2011年9月、アメリカのニューヨーク・ウォール街で始まった若者らによる運動。「ウォール街を占拠せよ!」「1%の金持ち対99%の貧困」をスローガンに、経済格差の解消を求めて富裕層への課税強化などを訴え、全米から世界に広がった。
 (3)Karl Marx's Ecosocialism: Capitalism, Nature, and the Unfinished Critique of Political Economy, Monthly Review Press, 2017.
 (4)1941年~。米国の宇宙科学者、環境科学者。「地球温暖化問題の父」と呼ばれる。
 (5)気候変動は人為的な要因に基づいており、化石燃料を大量消費する先進国や現存世代と途上国や将来世代との間には「不公正」な関係が存在するとし、その是正と地球温暖化の防止を共通課題とする考え方。
 (6)人間活動に起因する気候変動による地球の気温上昇を一定のレベルに抑える場合に想定される、温室効果ガスの累積排出量、つまり過去の排出量と将来の排出量の合計の上限値を指す。過去の排出量と気温上昇率にもとづいて将来排出可能な量を推計できる。
 (7)地中深の岩盤層を水圧で破砕し、天然ガスを採掘する工法。地中の水質汚染や地盤沈下の懸念が強い。
 (8)1928年~2014年。数理経済学を専門とする日本の経済学者。主流派経済学の発展に寄与しながら、後に徹底批判へと転じた。


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