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地域から政治を考える

新天皇の即位礼に思う

日本社会
の真の民主化へ
避けて通れない
天皇制の問題


 10月22日、新天皇の即位礼正殿の儀が行われた。私はこの日が「国民の祝日」になっているとは知らずに仕事にいった(常に祝日も関係なく仕事しているので問題はないのだが)。

 途中で寄ったコンビニで高齢の店員と話をしたが、「今日仕事したら右翼にがなりたてられる」とぼやいていた。以前は、天皇関連の祝日に仕事をしていると、右翼が街宣車を回して無理やり休ませたこともあったそうだ。私も含め、天皇制の信奉者ではない人間には迷惑な話だ。

 テレビも持っていないので、式典にまつわる大騒ぎも知らない。新聞で読んだが、東京では天皇制反対のデモも行われたそうだ。

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 新聞を読んで気になったのは、国連での核兵器禁止条約の成立に貢献してきたNGOの連合体「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)」がノーベル平和賞を受賞した際に講演を行った、カナダ在住の被爆者、反核運動家のサーロー節子さんと、昨年の沖縄の慰霊の日の記念式典で平和の詩「生きる」を朗読した相良倫子さんが、式典に招待されていたことだ。

 ネットなどでは、核兵器禁止条約への参加を拒み、沖縄での新基地建設を進める安倍政権に対抗して、天皇家が招待したという論調も見られた。しかし、はたしてそうだろうか。

 私には、むしろ天皇制への支持を広め、天皇制を強固にするための措置に思えてならない。

 たしかに、先々代の天皇に比べて先代の天皇を支持する人たちが増えたことは間違いない。「国民統合の象徴」の役割は確実に強化され、天皇制に疑問を呈する人々は、ますます少数派になったように思える。平和主義に逆行する安倍政権を批判することは簡単だが、「平和主義者」の天皇を批判することは難しい。

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 しかし、日本の社会を真に民主的なものとしていくためには、やはり天皇制の問題は避けて通ることができないと思う。

 たとえば、今回の即位礼でも、高御座や三種の神器など、神話に基づくとされる舞台回しが用意された。これについては以前から、憲法の政教分離原則に抵触すると言われているが、ほとんど議論されることなく前例が踏襲されている。明治以来の天皇制の残像を拭うことができない。

 そうした中で、「神の末裔」としての新天皇が高いところから下々の国民に向けて即位を宣言し、それに対して首相はじめ三権の長が「国民の代表」として、新天皇を仰ぎながら万歳三唱を行ったのである。憲法に謳われた「国民主権」はどこへ行ったのか、これまた戦前の関係を払拭できていない。

 そもそも、個人の人権が尊重される現在にあって、自ら選択できない地位に縛り付けられ、自らの政治的意見すら表明できない人間の存在は、果たして許容されるのだろうか。

 むしろ現実には、天皇個人がどれほど平和主義であろうと、善人であろうと、歴史的に形成されてきた天皇制という枠組みの中で動くことしかできない。つまり、その枠組みを押さえている政治権力にとっては、いつでも自らの存続のための安全装置として使うことができるだろう。

 憲法第1条には「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と記されている。言い換えれば、私たちは総意に基づいて天皇と天皇制のあり方をどうすべきか考え、変えていくことができる。問われているのは私たちなのだ。

                                                                       (戸平和夫:北摂反戦民主政治連盟)



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