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アソシ研リレーエッセイ

「客観的法則性の意識的適用」をめぐって


 もう記憶もあいまいな昔のことになるけれども、前回のリレーエッセイを引き継いで、思いつくままに、「人間にとっての技術とは」ということを考える上での一つのメモのような話を書いておきます。粗雑で役には立たないかもしれませんが。

 かつて、技術とはなにかということをめぐって、二つの立場からの大きな論争がありました。技術とは、人間に属する技能とは違って、対象化された「労働手段の体系」であるという当時主流の説に対して、物理学者の武谷三男さんや技術史家の星野芳郎さんなどが「人間実践(生産的実践)における客観的法則性の意識的適用」であるという説を提出し、論争になりました。

 勉強不足で確かなことは言えませんが、当時工学部の学生だった私にとっては、後者の説が自分の実感にとてもフィットするように感じ、彼らの著作を乱読したものです。

「労働手段の体系」という考え方は、技術というものが実体として蓄積されていくものであるという本質的な面をとらえている一方で、人間の実践として技術が生み出され、展開していく動的な面をとらえていないと感じました。

 それに対して、「意識的適用」説は、技術(実践)が科学(認識)と一体化し、科学技術として社会に大きなインパクトを与えつつあった時代にあって、技術の現代性、現場性をよりとらえたものであると感じました。

 また「意識的」という言葉にあるように、主体としての技術者のあり方や社会的責任が問われるものであるということも。そこから技術者の運動は反核運動や反公害運動などさまざまな現場の運動へとつながっていくことになります。

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 大学を出てから会社も技術職も落ちこぼれて、長くぼうふらのように社会を漂っていた私にとって、技術も技術論も遠い世界のことになりましたが、今ふと思い返して感じるのは、「意識的適用」というのは少し主知主義的で個人主義的な臭いがするということです。

 とは言っても、AIにしろ、情報技術にしろ、iPS、遺伝子操作にしろ、それを最先端で担う科学技術者はエリートには違いなく、そういう意味では現代の科学技術をよく表しているのかもしれません。

 先走って言ってしまうと「客観的法則性の意識的適用」説をどのように、どの方向に食い破っていくのかというのが現代に課せられた課題だと言えるのかもしれません。

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 もう長く様々な技術に囲われて暮らしてきた私たちにとって言えることは、技術とは自然を改変するものであるとともに、それはひるがえって人間自身、人間社会を変えるものだということです。

 技術は単なる手段・道具ではなく、たとえば大きな話では、火を扱う技術や農耕の技術が社会を大きく変えたように、人間社会のありように本質的な改変をもたらすものです。つまり「意識的適用」の「意識」そのものもまた技術の産物だと言えるかもしれません。

 さらに言うと、技術は「客観的法則性」に従うものではあるでしょうが、「客観的法則性」はそれをとらえる認識の範囲、その深さによって異なり、社会的な状況によって大きく制約されます。技術の進歩そのものは止められないでしょうが、進歩の方向は変えることができるし、むしろ変えなければならない場面も多い。たとえば、核兵器の開発、原子力発電、化石燃料による技術など、など。

 科学技術は現在、社会や個人の生活において、ますます社会の内部、生活の内部、個人の身体の内部に浸透し、大きな影響を与えるようになっています。それぞれの場面で心ある人たちは警鐘を鳴らしていますが、科学技術は国家や大学、資本と絡まり合いつつ自走し、技術のあり方について、立ち止まって考えることができていないのが現状です。

 今こそ専門家だけではなく、むしろ市民が主体となった議論が必要であり、その道しるべとなる現代の科学技術論が必要なのだと、私は思います。

                                               (下前幸一:当研究所事務局)



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