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カタログ研究会公開学習企画 報告
中野佳裕さん講演会

可能性はどこから生まれるのか

 商品を宣伝するための媒体であるカタログ。だが、それ以外の役割はないのだろうか。そうした問いは、関西よつ葉連絡会が行っている事業活動の意味を問い直すこと、さらに私たちの日常的な経済行為の意味を吟味し、新たな可能性の探索にもつながるのではないか――。そんな問題意識からはじまったカタログ研究会。去る7月13日、中野佳裕さんをお招きして講演会を開催した。以下、その概要を紹介する。


はじめに


 中野さんは国際関係論、平和学、社会政治学を専攻する若手研究者(早稲田大学地域・地域間研究機構研究員)。「脱成長」を掲げるフランスの経済哲学者セルジュ・ラトゥーシュの『経済成長なき社会発展は可能か?』(作品社、2010年)を翻訳・紹介し、注目を浴びた。当研究所でも2011年、東日本大震災を受けて行った緊急座談会に参加いただいた経緯がある(本誌第86号所収)。

 その中のさんが昨年、イタリアの経済学者ステファーノ・バルトリーニの『幸せのマニフェスト』(コモンズ、2018年)を翻訳・出版し、注目を集めている。カタログが体現する広告というもの、その背景にある消費社会を分析し、より人間的な社会を展望する本書の議論を軸にお話しいただいた。

 最初に、「可能性はどこから生まれるのか」という講演会の主題について、カタログ研究会の主宰者でもある司会の津田道夫から問題意識が語られた。ひとことで言うと、現在の消費社会を変革する可能性を見出すためには、過去の結果からその先を展望するだけではなくて、未来の目標から現在の現実をとらえかえす必要があるのではないかということだ。
 ■中野佳裕さん

 中野さんはその問題提起を受けて、それはもちろん必要なことだが、もう一つ気付く必要があるのは、私たちが現在というもの考えるときに、そのベースとする過去のデータというのは、実は限られたデータに過ぎないのだということを指摘した。我々の常識からは古いとか、低開発だとか言われて、認識の枠組みの外にある伝統的な社会の知恵が、実はこれからの社会の中では豊かな可能性を秘めているのかもしれない。そのことを後ほどみんなで考えたいと前置きをして、本題に入った。


米国における不平等の増加

 「(この国に)滞在中に私の注意を惹きつけた新しい主題の中でも、条件の平等以上に私を驚嘆させたものはない。基本的事実が社会の機能に与える多大な影響を、私は容易く認識した」「公道で予期せぬ事故が起きたなら、人々はあらゆるところから駆け寄り、犠牲者を助ける。ある家族が予期せぬ災難に遭遇したなら、無数の見知らぬ人々が自らの財布を喜んで開く…」

 これは、19世紀初頭にアメリカ合衆国(以下、米国)を訪れたフランスの思想家・作家のトクヴィルの言葉で、『アメリカの民主主義』(1835年)からの引用だ。この文章から伺えるのは、独立後の米国では条件の平等が進んでいて、しかもコミュニティーでの社会関係資本(信頼、相互扶助など)が非常に強いということだ。

 政治学者ロバート・パトナムが指摘するように、米国は20世紀の半ばまではコミュニティの社会関係資本に支えられた平等主義的な社会づくりへ向けて努力していたと言える。彼は米国社会の変遷を統計学的にも研究し、21世紀の初頭にそれをまとめて『孤独なボーリング』という本を出版した。その研究結果をひとことでまとめると、米国が平等主義的な社会へ向かっていたのは、1950年代から60年代ぐらいまでで、1960年代の後半以降には不平等が増えていった。パトナムは書いている、「…20世紀の最後の30年間は、不平等の増加と社会関係資本の崩壊が起こった時期です。1965年~70年のどこかで、米国はこれまでの道を逆行し、経済的により不公平になり、社会的にも政治的にも関係性を失いはじめました」。

 1970年以降、米国はそれまでの富や所得の分配を重視する政策をやめて、市場経済中心の社会をつくっていった。最も大きな政策の転換は、レーガン大統領になってからの1980年代に起こった。大企業の合併&吸収の推進、法人税の大幅な減税、労働市場の規制緩和による不安定労働者の増加が起こった。この間、米国では格差がさらに拡大しているが、バルトリーニが指摘しているように、国民の幸福度も下がってきている。


豊かさの中の不幸せ

 米国における国民の幸福度の推移について、バルトリーニは、その著書である『幸せのマニフェスト』の中で分析している。

 図1は、米国における所得と幸福度の推移を表しているが、米国では第二次大戦後一人当たり国民所得(GDP)は伸び続けており、現在では第二次大戦直後の3倍以上になっている。ところが自分の生活が「とても幸せだ」と答えたアメリカ人の割合は1956年をピークに下がってきている。
 図1:米国における所得と幸福度の推移(1945~1996年)
 出典:バルトリーニ『幸せのマニフェスト』81

 バルトリーニはその要因を、コミュニティーの社会関係が貧しくなったことに求めている。コミュニティーの支えあいがなくなったから、一人ひとりがより多くのお金を稼いで商品やサービスを買うことで、生活のニーズを満たさなければならなくなったのだと。たとえばそれは日用品、食料品だけではなく、医療サービスや家事代行サービス、あるいはベビーシッターを雇うことも含まれる。コミュニティーの社会関係が薄れてくると、これまで相互扶助を通じて無償でアクセスできていた基本的ニーズを満たすのに、経済的コストがかかるようになる。それだけではない。20世紀における米国の都市計画を見ると、職場がある市街地と自宅がある郊外の距離が離れていて、その間を車で通勤しなければならない。つまり自動車依存を生む都市設計がなされている。こうしてあらゆる生活面でお金がかかる社会になっていった。

 バルトリーニは経済成長そのものを否定しているわけではない。経済成長は幸福度の増加にある程度は貢献する。けれども、その経済成長のプロセスの裏側で進行している関係性の貧困によって、生活の質が低下していく。それが、経済成長にともなう幸福度の増加よりも上回ってしまうと、経済は成長しているのに幸せではないという状態に陥ってしまう。このような逆説的な現象が、米国では1956年以降次第に強まっている。経済成長過程で生じた社会関係の欠乏が不満足感を生み、その不満足感を解消するために市場経済への依存がますます強まっていく。いまや経済成長は、生き辛さから身を守るための消費行動によって引き起こされている。この特殊な経済成長のメカニズムを、バルトリーニは「防御的な経済成長」と言っている。


防御的な経済成長とは何か

 防御的な経済成長とは何かということを理解するために、歴史を振り返ってみて、資本主義経済が発展する以前のコミュニティーを想像してみよう。かつては人間の基本的な生活のニーズというのは商品化されていなかった。コミュニティーの社会関係やそれを支える自然の資源、水や森林などは、もともと商品として売り買いされるものではなくて、コミュニティーの中で無償の共有財として管理されていた。それが経済発展とともに資本主義が普及してくると、共有財が減っていく。つまり市場経済を通じて、物を作って、売って、買って生活するというライフスタイルに変わっていった。そうすると、いままで共有財によって満たされていた生活のニーズを、市場経済が提供する商品によって補う必要が出てくる。商品を手に入れるためにはお金が必要となるので、働かなくてはならない。さらに現代の消費社会は我々に、今よりもっと消費することを求めている。生活の基本的なニーズが満たされていても、さらにもっと新しい商品を開発して、その商品を買わせようとする。そのようにして経済を成長させていくという仕組みになっている。もっと消費するために、もっとお金が必要になってくる。だからもっと働かなくてはならない。

 消費社会は、過剰な消費を支えるために、過剰な労働を求める社会だといえる。働きすぎによってストレスがたまり生活の質が下がるが、消費社会は、さらなる消費によってストレスを解消しようとする仕組みになっている。たとえばゴールデンウィークの海外旅行やいろいろなレジャー、また爆買いによってストレスを解消するなど。けれどもそのためにはもっと働かなければならない。このように、もっと消費するためにもっと働くという「労働―消費サイクル」の悪循環に陥っている社会。これが防御的な経済成長だ。


労働―消費サイクルの悪循環
 図2:15~64歳の就業人口の年間平均労働時間の推移
   (1955~2003):ヨーロッパと米国の比較
 出典:バルトリーニ『幸せのマニフェスト』106頁

 以上のことを図2が端的に示している。これはヨーロッパの主要国とアメリカの年間平均労働時間の推移を表したものだが、ヨーロッパの方は1955年には米国人の平均を上回っていたが、1960年代後半に入ってから下回るようになった。ヨーロッパ諸国は第二次大戦後、福祉国家の理念を大切にする社会づくりを行い、生産性が上昇した分、労働時間を減らす方向に向かっていったからだ。以下は参考情報だが、厚生労働省の平成30年度版厚生労働白書で紹介されているOECDデータによると、2016年のドイツ人の一人当たり平均労働時間は1298時間、フランス人は1383時間である。これに対して米国人一人当たりの労働時間は長く、2016年は1789時間である。日本人の一人当たり労働時間は1971年から1991年までは年間2000時間以上と先進国の中でも圧倒的に長かったが、その後に漸次的に減少し、2016年には米国とほぼ同じ水準の1724時間となっている。

 図3は、米国人の平均所得と労働満足度を比べたもの。主流派経済学の常識では、所得が上がれば、それに相関して労働満足度も上がるということになっている。しかし、米国人の実態を見てみると、実際はそうはなっていない。米国人の一人当たり平均所得は、1972年から2004年まで増加し続け約5倍になっているが、労働満足度はずっと変わらなかったということを示している。

 二つのグラフは、防御的経済成長の主要な特徴を表している。もっと消費するためにもっと働くという、労働と消費の悪循環の中では生活や職場での満足というのは得られない。むしろ、生活の質の低下や幸福度の低下が起こっている。


消費主義を促す複合的なメカニズム

 バルトリーニが強調しているのは、幸福は個人の主観的な気持ちの問題ではなくて、社会システムに関わる問題なのだということだ。

 消費主義を促す社会は、経済成長をそれだけ求めるので、職場や学校などでも競争を促す。成果を上げるために競争することが目的になってしまう。さらに広告産業は、おびただしい商品を売るために有名人を起用し、そのようになりたいという消費者の心理を刺激する。また、職場で長時間労働を強いられて、親と子が接する時間が減る。親子のコミュニケーションがなくなり、親は子供にもっと勉強しろ、塾に行けと言う。子供にもストレスがたまり、家庭では一人でテレビゲームをして遊ぶということになる。そのようにして、社会的な比較や競争を促す社会のシステムというものが、家庭の中で親から子に再生産される。米国では、親世代の幸福度の低下以上に子供の幸福度の方が下がっているという。そして広告産業は年々、大人よりも子どもをターゲットにしている。
 図3:米国人の平均所得と平均労働時間の推移
       (1972~2004年)
 出典:バルトリーニ『幸せのマニフェスト』234頁

 バルトリーニは、問題の根本は消費社会によってつくられる社会関係の質にあるということを主張している。近代社会は、共同体のしがらみや縛りから個々人を解放したという側面もあるが、現代資本主義社会はあまりにも社会的比較と競争を強いて、労働と消費の悪循環に我々を閉じこめ、社会関係の質を悪化させている。その消費社会からどうやって抜け出すのかというのがポイントになってくる。


20世紀は終わった

 バルトリーニはこの本の中で「20世紀は終わった」と大胆なことを言っている。つまり、20世紀と同じような社会発展の理論に基づいて21世紀はつくれないということだ。

 20世紀は、国家と市場の対立の物語として社会の発展が語られていた時代だった。そこには見落とされていたものがある。ヨーロッパでは19世紀に産業革命が始まり、資本主義が浸透していくなか、様々な構造的問題が出てきた。そのような時代背景の中、各地域社会で協同組合をつくって、コミュニティー・レベルで資本主義の構造的問題を解決しようとするアソシエーション運動が広がっていった。ヨーロッパの福祉国家というのはそういう地域コミュニティー・レベルのアソシエーション運動の結果として構築された。

 ところが1917年にロシア革命が起こって、ソ連型の計画経済モデルが資本主義に対抗するオルタナティブなモデルとしてでてきて、理想化されるようになった。結果的にロシア革命以後、国家か市場かという対立軸で社会の発展が議論されるようになり、コミュニティー・レベルで自律的な生活をつくっていこうという市民社会の動きが止まってしまった。

 1990年代初頭にソビエト連邦が崩壊して冷戦が終わると、市場経済の万能性というものが米国を中心に主張されるようになった。1990年代から21世紀へと、市場経済のグローバル化が進んでいった。ところが2008年米国発金融恐慌で、市場経済のグローバル化ももはや上手く機能しないのではないかと言われるようになってきた。結果的に、国家か市場かという二者択一で社会の発展を考えるのではなくて、第三の道としてコミュニティー・レベルでの自律的な経済システムの構築が重要なテーマとなってきている。

 実は日本でも1970年代の後半に、経済学者の玉野井芳郎が同じことを提案していた。彼は地域主義というビジョンを提案し、国家によって国有化されない、市場によっても私有化されない、人間の生活の基盤であるコミュニティーを再構築するということが、これからの社会においては重要な課題となると主張した。21世紀の現在、先進国のさまざまなところで、かつて玉野井芳郎が言っていた自律的なコミュニティーの再構築が注目されるようになっている。未来を語る物語構造を変えなければならない時代に入ってきているのだと言えるだろう。


各地でのローカリゼーション

 この30年くらいの間に、世界各地でローカリゼーションという運動が進められている。ローカリゼーションは市場経済のグローバル化に対抗する運動で、自立した循環型の地域経済を構築することを目指している。オーストラリアの地方自治体の中には、多国籍企業の地元への進出に規制をかける政策を行っているものがあるし、イタリアのナポリやフランスのパリなどでは、一度民営化された水道事業を再公営化している。市場経済にすべてを委ねるのではなくて、地域住民の共有財(コモンズ)をコミュニティー・レベルで管理していくという動きが出てきている。

 特に南ヨーロッパでは、先ほど述べた玉野井芳郎の地域主義と似たような考え方が現れている。代表的な思潮としては、フランス経済学者セルジュ・ラトゥーシュ(Serge Latouche)が提唱する脱成長(dcroissance)や、イタリアの都市社会学者アルベルト・マグナギ(Alberto Magnaghi)が提唱する地域主義(terrtolialismo)がある。その他には、イタリアのステファノ・ザマーニ(Stefano Zamagni)やルイジーノ・ブルーニ(Luigino Bruni)が提唱する市民的経済(economia civile)、エジオ・マンジーニ(Ezio Manzini)によるコミュニティーデザイン理論がある。

 ラトゥーシュは、ローカリゼーションの動きについて次のように語っている。「先進諸国では経済のグローバル化の影響で、国家とその社会保障制度が相対的に後退しており、「地域」が再び活性化してきています。…このプロセスは様々な経済活動のシナジーを引き起こす文化的変革を引き起こしています。余暇、保健、教育、環境、住宅、人間関係財は、生活の基礎である身近な地域のレベルで管理されなければなりません。日常生活の自治は、市場経済から排除された人々やグローバル化に抵抗する人々の間に豊かな市民活動を生み出しています。ヨーロッパだけでなく、米国、カナダ、オーストラリアでも、新世代の農家、農村生活者や職人が出現するなど、新しい現象が起こっています」。
 ■講演会の模様


新しいコミュニティーづくりへ

 21世紀のコミュニティーづくりは、20世紀の地域開発の繰り返しであってはならない。地域の経済成長のために工場を誘致して、それによって生み出される雇用機会や経済効果に期待するということでは、歴史の教訓からなにも学ばないことになる。開発の思想を追求し、経済成長一辺倒の社会づくりを目指すのではなく、そういう発想から抜け出してこそ、地域は本当の意味での再生を実現することができる。

 イタリアのスローフード運動に代表されるように、カタツムリは脱成長的な地域づくりの実践でシンボルとなっている。カタツムリは「ゆっくり」を体現している。効率やスピードを重視する消費社会の価値観に対して、生活のテンポを緩め、新しい価値をつくっていこうという意味がある。また、カタツムリは生物学的な本能として、殻の渦が一定の大きさに到達するとその成長を止めるという知恵を持っている。これまで経済成長一辺倒でやってきたけれども、結果的に環境破壊が起こったり、コミュニティーの社会関係が失われたり、格差が拡大したりと、バランスが悪い社会になってしまった。だから経済的な豊かさを既に達成した先進国は、その過程で壊されてきた生活の非経済的側面を修復し、「節度ある豊かさ」を求めていこうという発想である。脱成長が目指しているのはマイナス成長でも緊縮財政でもなく、社会のバランス感覚の回復である。


8つの再生プログラム

 そのためにラトゥーシュは、地域づくりの8つの再生プログラムを提唱している。①再評価。自分たちが暮らすこの地域を、経済以外の物差しで評価し直していくこと。②言葉を作りかえるということ。豊かさや貧しさについての言葉の意味をもう一度定義し直すということ。それによって、③社会の構造を変えたり、④地域の中で新しい分配の仕組みをつくったり、⑤ものづくりをもう一度地域の中にローカル化したり、⑥生態系に関する負荷を削減して環境に優しい地域をつくる、⑦地域の資源をリサイクルしたり、⑧再利用することによって循環型の地域をつくっていこう。

 このプログラムの中で最も大事なのは再評価だ。なぜなら自分たちが暮らす生活の場をこれまでと違った発想で、違った物差しで見つめることができないと、今までと同じことを繰り返すだけになってしまうからだ。近代化、都市化のプロセスの中で遅れているものとされていた伝統的な生活の中には、実は資源を大切に使うとか、お互い様の文化など、現代社会が見落としてきたいろいろな知恵があったのではないか、そうした伝統的な知恵からもう一度学び直すということが必要なのではないかということだ。

 この日本で、我々はまずどういったところから市民が主体となった地域づくりを始めることができるだろうか。自分たちの地域を、これまでと違った物差しで再評価するところから、なにができるかということを、皆さんと考えてみたいと思う。


グループでの意見交換とコメント

 以上のように講演をいったん締めくくり、中野さんは、私たち一人一人が広告産業の影響や、防御的な経済成長のワナにどれだけはまっているか、意見交換してほしいと促した。

 短い時間だったが、数人ずつのグループに分かれて話し合い、たとえばアマゾンで本を買うと、その系統の本が勝手に推薦されるという例や、ポイント制や電子マネーによって、コンビニやドラッグストアなど、消費者の囲い込みが行われているという例が出された。一方で、今の若者はあまりお金を使わない、シェアハウスを利用するなど倹約指向だという疑問もあった。それに対して、中野さんは、確かに今の若い人たちは、昭和の時代に流行ったようなものを求めて消費はしないけれども、違う場面、たとえばスマホなどにお金をかけているし、必ずしも消費主義を抜け出してはいないと指摘し、そういう願望を持っている者も一定数はいるが、しかし消費主義ではない生活といっても、それを実際にはイメージできないのが現実だとコメントした。

 また滋賀県で保養キャンプを運営しているよつ葉の職員からは、お金や物など、いろいろなものが不足する中でも、それを探し出してきたり、提供したり、いろいろな助けを申し出る人が出てきて、持続することができている。これは市場原理主義を抜け出す一つのヒントかもしれないと思う。しかしこの場合は原発事故という、いわば非常事態が人びとを動かしている面がある。日常生活の中で消費主義を抜け出すために、もう一つどうしたらいいのか悩むところだという意見が出された。

 それを引き継いで、中野さんは、ご自分の出身地の隣のコミュニティーである祝島について、厳しい状況の中で上関原発計画に反対して、自立する地域をつくろうとがんばっている実例としてあげた。しかし、多くの日本の人びとの、消費社会をベースに生きている日常生活の場所で、それとは違う地域づくりをどのように始めたらいいのだろうか、それは我々の課題でもあると皆に問いかけた。それは講演会の本題である「希望はどこから生まれるのか」という問いの、もう一つの形でもある。

 司会からは講演会の最初にその問題意識を話したように、今よりもより良い暮らし方というものが、どういうものなのかをそれなりにイメージするというところからしか、始まらないのではないか、という考えが出された。かつては、資本主義に代わる社会主義というものが未来社会のイメージとしてあったが、それが今の時代、曖昧になり、もしくはほぼ見えなくなっている。それを違う形で再生するために、具体的なところで、具体的な人びとがいろいろ試行錯誤しているところからヒントとして探り、みんなでつくりださないと、なかなかそのサイクルは本当に社会の多数を巻き込むようにはなっていかないのかなと思うと。


コミュニティー再生のための政策案

 以上の意見交換を踏まえて、中野さんは、バルトリーニによるコミュニティー再生のための政策案を、まとめとして紹介した。

 バルトリーニによれば、社会関係の貧困を克服し、社会関係を豊かにしていくために。各分野での政策が必要であり、そのための制度改革もやっていかなくてはならない。

 一つ目は、都市デザインを変えていくということ。職場と住居があまりにも離れているクルマ依存の社会を変える。都市の中の公共空間をもっと増やす必要がある。たとえばアメリカのポートランドなどでは、日曜日には市街地にクルマを通さない、自転車と歩行者だけで暮らせるような街にしているし、ヨーロッパの地方都市では市街地をトラム(市電)だけで移動できるようにする街づくりが広がっている。

 二つ目の教育プログラムの改革では、競争を強いるような学校教育から、お互いに協力しながらグループワークを通じて課題をこなすという教育へと変えるということ。これは先進国の中で、日本は非常に遅れていて、下から二番目だ。

 三つ目の広告産業については、特に子どもたちへの悪影響を考えて、児童向けのテレビコマーシャルに対する規制が進んでいる。たとえばスウェーデンでは1990年代初頭に、児童向けのテレビコマーシャルを全面禁止するという法案が国会で採択された。

 一方で、米国では児童に対する広告規制は国会ですべて廃案になっている。アメリカの政治というのは大企業の資金援助、献金によって成り立っているからだ。民主主義というのが市民のためではなくて、大企業のための政治になっている。四つ目には民主主義を再生するという改革がある。さらに五つ目には働き方の改革、六つ目には保健医療の改革が必要だ。 

 こういった政策案もとても大事で、消費主義に対抗するような政策をともないながらコミュニティーを再生する条件を整えていく必要があるのだと中野さんは指摘し、講演の結びとした。

                                               (下前幸一:当研究所事務局)


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