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連載 ネパール・タライ平原の村から(91)

第二世代から見た山岳民族の移住

ネパールの農村で暮らす、元よつば農産職員の藤井牧人君の定期報告。その91回目。


 「僕はSLC(全国共通卒業認定試験)を受けた翌日には結果を待たずバーレーンへ出稼ぎに出て12年働いた」と語るのは、現カワソティ・プンマガル協会代表ロクバハドゥル・プンさん(以下ロクさん)。「当時、トウモロコシ畑の土寄せは手間替えで10人(10戸)の畑作業だった。今では農地を切り売りして狭くなり、人も手間替えでなく現金で雇うようになった」。収穫したヒヨコ豆を箕に広げ選別しながら語るのは、ロクさんの姉ミナクマリ・プンさん。今回は山岳民族プンマガルの平地への移住とその後の生活について、当時は子どもだった40~50代の移住第二世代に話を聞きました。

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 1977年に地元カワソティへ移住したロクさんや姉ら家族8人。伯父が英国軍の退役傭兵(グルカ兵)で既に平地に移住していたため、その情報や年金を頼っての移住だった様子。再定住プロジェクトにより既に土地を無料で入手し、当時10台の貸し自転車業を営む裕福な高位カーストから土地を“買った”とのこと。土地無し農民を対象に山岳部の人口圧減少や平地の農地拡大による食糧増産を目的とした再定住プロジェクトの計画性が乏しく、初期入植者の定着率が低くかったことが分かる一例と言えます。
■手前左がロクさん、右が妻のティル、
 その奥で豆の選別をするロクさんの姉

 29戸のプンマガルがカワソティへ最初に移住したのが1970年。その後、親戚の伝手や噂を頼りに1979年には42戸が移住していたとのこと。その後も移住者や分家により現在は151戸に。移住当初は稲の植え方も知らず、山岳部と同じくトウモロコシやシコクビエの粉を溶いて湯で練ったディロを主食とし、「シコクビエは貧しい娘に」「米は裕福な娘に」と言われていたとのこと。祭事の時だけ食べる米に感激したことを思い出すとのことです。

 グルカ兵としての収入に頼って来たプンマガルは、土地があっても新たに収入を得る手段や工夫が乏しく、高位カーストの他の移住者に土地を転売したそうです。高位カーストのように公的機関で働くためのコネや職業的ネットワークがなかったためですが、その要因は学校教育を重視しなかったからではないかと、多くのプンマガルが考えるようになったそうです。その後は教育に投資するようになりましたが、相変わらずプンマガルの国内就労が少ない状況に変わりはないとのこと。今は「便利になり食べるに困らなくなった」一方で「昔はどこの家で飯を食べても構わない家族のような関係で助け合っていたが、そうした関係は薄くなった」とのこと。

 ロクさんの家から数十メートルの位置にある「デビ・チョーク(辻の名称の1つ)まで昔はジャングルがあり、そこへ行けば薪はいくらでもあった」。家から1キロ以上ある「タルワー(洗濯や水浴びをする湧水地の名前)まで昔は水汲みにいっていた」。「家畜の飼葉を刈り家畜の放牧に出掛けるのが日課だった」。「薪・水・家畜のために明け暮れしていたが、今では薪がガスとなり、湧水が水道となり、家畜はほとんど飼わなくなった」とのことです。

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 以上の話から、プンマガルの多くが高騰した農地を売り農業をやめたこと、暮らしの立て方が根本から変わったことがわかります。時代の変容と共に「食べることより稼ぐことを考えるようになった」と。現実と向き合い、現実に対応してきた中で、“歩んで来た道は本当にあっていたのだろうか?”と反芻する時代へと移行したと思うのです。

                                                              (藤井牧人)



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