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改革開放40年の中国を考える(中)

農民工から見えるもう一つの中国

 改革開放政策から40年を迎え、年を追うごとに世界における存在感を高めていく中国。私たちはその姿をどう捉え、それとどう向き合っていくべきか。この年末年始にかけての深セン、広州、香港への訪問をダシに、中国の一面を考えてみたい。今回は広州を中心に深センを補完する。

農民工という存在

 広東省の省都・広州は、悠久の歴史を誇る中国第三の大都市であるとともに、経済発展を中心的に牽引した珠江(じゅこう)デルタの中心として改革開放の40年を支えてきた。今回そんな広州を訪れた理由は二つ。一つは「農民工博物館」の存在を知ったからだ。
 ■農民工博物館の入り口

 経済成長を達成するには技術・原材料・資本など、さまざまな原資が必要となる。なかでも不可欠なのが労働力だ。主に地方の農村から膨大な数の人々が都市に集まり、工場や建設現場などで汗水を垂らし、不本意な処遇に苦しみながら都市の繁栄を支えた。それが「農民工」あるいは「民工」と呼ばれる人々だ。日本語では「出稼ぎ労働者」に相当するだろう。

 中国旅行の経験のある人なら、道すがら工事現場などで、頭にはヘルメット、上半身は野暮ったいジャケットというアンバランスな出で立ちの赤銅色に日焼けしたオッサンに出くわしたことがあるかもしれない。あるいは鉄道駅で、巨大な家財道具の包みを抱えた家族連れを目にしたこともあるだろう。こうした人々を農民工と想定すれば、ほぼ間違いない。

 もちろん、農村から都市への労働力移動それ自体は、かつての日本も含め世界のどこでも見られる現象である。だが、中国の場合は明確な特徴がある。都市と農村の間に存在する制度面での違いだ。

 その象徴が「戸籍」である。都市戸籍と農村戸籍に峻別されており、それに伴って教育や医療、年金など受けられる公共サービスも異なってくる。たとえば、一家で農村から都市へ働きに出て、学齢期になった子どもを学校に入れようとしても、農村戸籍の子どもは都市の学校には入れず、戸籍所在地の学校しか通えない。日本の感覚では、それなら戸籍を移せばいいように思うが、農村戸籍の保持者が都市戸籍を取得するのは極めて困難なのが実情だ。
 ■製靴工場の現場を再現した展示

 こうした、ほとんど身分制とも言える制度が生まれたのは1950年代末。国内で急速に社会主義改造が進む一方、東西冷戦および旧ソ連との対立が深まる中、政府は重工業を軸とした経済建設を急ぐために都市の工業を優遇し、農村は自給自足に任せた。その結果、増え続ける農村から都市への人口流入を抑制するのが、戸籍制度の目的だったとされる。

 当時の中国が圧倒的な農業社会であり、財政的な余力が限られていたことを考えれば、やむを得ない面があるのかもしれない。しかし、農村を基盤とした革命で政権を握った共産党体制下の中国で、かくも長きにわたり不条理な制度的差別が続いているのは、理解に苦しむところだ(中国政府としても、とくに2000年代に入って以降、戸籍の一本化に向けた検討を行ったり、地方都市レベルでは都市戸籍の取得を容易にするなどの取り組みを進めているらしい)。


農民工博物館

 中国の改革開放を支えながら、公式には脚光を浴びる機会の極めて少ない農民工。彼ら彼女らを主題とする博物館とは、いったいどんなものなのか。おそらく、民間団体などが運営する小規模な施設ではないか。当初はそんな想定を抱いていた。

 広州駅から市バスで北へ20~30分。かつては実際に繊維工場に働く農民工で賑わった工場地区の一角に博物館はある。4階建ての建物全体が展示スペースとなっており、入り口には凝った彫刻が鎮座している。完全に想定を裏切られた。
 ■建設現場の様子を再現した展示

 1階では、1980~90年代当時の作業機械や材料などを使って製靴工場の現場風景が再現されており、のっけから圧倒される。2階は「生育と発展」をテーマとして、1950年代から現在に至る農村と都市の二元的な経済構造を軸に、歴史的に振り返る展示が行われている。戸籍に基づく農村と都市の間の厳格な移動統制や文化大革命期における都市青年の農村への「下放」、改革開放に始まる大規模な労働力移動、その歴史的な変化など、内容は詳細だ。

 また、最終的には問題解決に向けた共産党=国家の尽力を強調しているとは言え、先に触れた農民工に対する制度的差別にかかわる政治的に敏感な部分についても言及がなされている。

 ちなみにパンフレットによると、博物館は2011年、当時の広東省トップだった汪洋(現:共産党中央政治局常務委員)の発案で、翌12年に開設されたとのことだ。1955年、安徽省の貧困家庭に生まれ、早くに父親を失った汪洋は、中卒で工場労働者になった苦労人であり、現在の中国首脳陣の中では改革派と目されている。そうした経歴が何らかの形で影響しているのかもしれない。

 それはともかく、3階は「億万の農民工に近づく」、4階は「億万の農民工に分け入る」と題して、農民工の作業現場の情景や生活風景を再現した展示、出身地の農村の状況や残してきた家族との関係などに関する展示、都会での暮らしに伴う悲喜こもごもを示す展示などが並べられ、農民工の実情に関する理解を助ける内容となっている。

 あこがれの都会で現金を稼ごうと、長距離列車に揺られてやってきた農民工たち。しかし、待ち受けていた現実は甘くない。長時間の肉体労働に耐えながら、故郷に残した幼子に会えるのも年に1~2回。そんな状況でも歯を食いしばって働き、経済発展や便利で豊かな都市生活を支えてきたのだ――。

 たとえ中国語の案内文は分からなくとも、そんなメッセージは伝わってくる。見応え十分だ。

 とはいえ、中国最大のネット事典『百度百科』によると、博物館の展示をめぐっては、開館当初から農民工自身や支援者などによって「内容がきれいごとに偏っており、労働争議や賃金未払い問題、社会的・制度的な差別の実態に触れられていない」といった批判や提言がなされ、当局側との話し合いも行われていたという。

 実際に目にした展示には「権利を擁護し公平を保つ」という項目で、「農民工が就業する過程では時に労働に関する権利の侵害現象が発生した」と記されており、賃金未払い問題への言及もあるので、批判や提言が反映されたのかもしれない。
■広州行きの列車を待つ農民工たちの像

 ただし、最終的に「党と政府は農民工の権益を擁護する決心を固めた」とまとめられている点には、複雑な感慨を抱かざるを得ない。農民工の権利侵害を告発し雇用主と闘ってきたのは、実際にはNGO(非政府組織)や人権派弁護士だからである。前回でも触れたように、むしろ共産党や国家はそうした動きが政治化するのを恐れ、抑圧に回る場合も少なくなかったのだ。

 こう考えてみると、敏感な問題を孕む農民工を対象とした博物館が存続している背景には、農民工の歴史や実態に対する「官」の側からの総括(開明的な指導者による温情的な対応も含めた)だけでなく、いまなお存在している「官」と「民」との対抗や緊張を帯びた相互関係をうかがうことができる。


都市の中の村

 広州を訪れたもう一つの理由は「城中村(じょうちゅうそん)」にある。日本語では「都市の中の村」となる。
 ■取り壊しの進む洗村

 前近代の中国では、外敵から身を守るための城壁で囲まれた区域を指して城鎮(じょうじん)=都市と称し、現在でも「城」といえば都市を意味する。先に“改革開放以前の中国は農村と都市が厳格に区別された二元的な社会構造から成り立っていた”と記したが、その遠因はこうした歴史的経緯も影響しているようだ。

 広州の場合も、もとの城鎮はごく限られた範囲だったのが近代化とともに領域を広げ、数多の農村を呑み込んで大都市へと成長していった。とりわけ改革開放以降の変化は急速かつ甚大だったという。

 呑み込まれた農村は、行政区分としては都市に属しながら、農地も含めて旧来の農村の社会構造を維持している事例もあれば、早い段階で農地を手放し、外見上も農村とはほど遠くなってしまった事例もある。一般に城中村と呼ばれるのは後者だ。

 土地が国有で何かと規制の多い都市に比べ、村の土地は村民の共同所有で運営も農村の習俗に基づいた一種の自主管理に任された。その結果、市街地なのに家賃が安く、農村的な気安さも残っているなどの理由で、次第に地方から都市に流入する農民工たちの集住地にもなっていったという。
 ■員村のメインストリート

 一方、地元村民としては家賃収入を増やそうとして勝手に増改築を繰り返すため違法建築が横行し、公共インフラも不十分、居住環境や衛生状況が悪く、治安や防災の面で不安の声も少なくない。

 こうした点から、発展途上国によくあるスラムとの類似を指摘する意見もある。たしかに、普通の旅行なら、まず足を踏み入れることはないだろう。

 4~5階建ての細長いビルが密集し、見上げても目に入るのは線のように細長く区切られた空ばかり。およそ採光や通風など期待できない住環境だ。道幅は人一人すれ違うのも困難なほど狭く、しかも入り組んでいる。頭上には電線や配管が絡み合い、ときには得体の知れない水がポタポタと垂れてくる。路面は意外ときれいだが、排水が悪いのか、ところどころ饐えた臭いが漂ってくる――。
 ■一部再開発された洗村の高層住宅

 こう書くとほとんど「魔窟」だが、実際には単なる庶民の生活の場に過ぎない。八百屋や肉屋もあれば食堂も床屋も揃っている。人々の暮らしぶりが身近に感じることができ、物価上昇の著しい中国で手軽にB級グルメを味わうこともできる。私見では、日本語で最も相応しい表現は「下町」だと思うが、よくも悪くもはみ出す部分が多いことはたしかだ。


消えゆく城中村
 
 今回はそんな城中村のなかで「洗村(せんそん)」と「員村(いんそん)」の二箇所に足を運んだ。いずれも新市街の中心である天河区に位置しているが、洗村は現在再開発の真っ最中。すでにほとんどの建物が取り壊され、一部は新たな高層住宅が建設されていた。

 日本の場合、まだ生活している住民がいたとしても工事現場はフェンスなどで覆われ、部外者の立ち入りは厳しく制限される。だが、ここは中国、幸いにも制限なし。ガレキの山を乗り越え、住民の訝しげな視線をかわしながら、消えゆくものが醸し出す独特の風情に身を委ねる。ふと彼方を見れば、私と同じくカメラを構えた若者が……。「好き者」は国を選ばず、ということだろう。

 ともあれ、再開発の目的としては、住環境の改善や都市空間の整備、土地の有効利用や資本の呼び込みなどが挙げられよう。洗村の近辺でも、いくつか先行して再開発が行われており、外からは「村」の来歴など想像できないほどに変貌を遂げている。

 こうした再開発の多くは、広州市政府、開発業者、さらに城中村住民組織の三者によって行われる。洗村の南に位置し、2010年に再開発を終えた猟徳村の場合、住民たちは集団所有の土地を供出する代わりに再開発住宅という形で補償を得ることになった。取り壊し以前に賃貸していた部屋も含め、面積に基づく等価交換で補償が行われた結果、再開発住宅でも複数の住戸を入手することができ、住民たちは賃貸収入で左団扇の生活を送っているという。

 ところが、城中村に住居を借りて都市で働いたり、城中村で小商いを営んで生計を立てていた農民工に対しては、当然とはいえ補償は皆無である。再開発住宅を借りようにも、家賃は数倍に上昇しており、とうてい手が出せない。そもそも都市戸籍を持たないが故に、公的な支援の対象でもない。とり得る選択としては、別の城中村へ移るか、都市での生活を断念するか、いずれにせよ不利益のみが集中する。
 ■出租屋(賃貸住宅)の情報コーナー

 訪れたもう一箇所の員村は、ひょっとすると洗村からあぶれた人々の移住先になったのかもしれない。少なくとも当面は再開発の予定もなさそうで、表通りに並ぶ食べ物屋や雑貨屋、道端に吊された洗濯物、路地に溢れる子どもの泣き声など、庶民の生活感満載である。一角には出租屋(賃貸住宅)の情報コーナーが儲けられ、「単間(個室)」「1房1庁(1LDK)」など部屋の種類と家主の電話番号が記されていた(なぜか賃料の記載はない)。

 ピカピカの高層住宅など街歩きをしてもつまらないし、そもそも敷地内に入れない。城中村のような空間こそ人が生きるに相応しい――。そんな感慨など、しょせん部外者の勝手な思い込みに過ぎないのかもしれない。とはいえ、金持ちも貧乏人もそれなりに暮らしていけるのが、都市の都市たる所以ではないか。都市の繁栄を陰で支えた農民工たちへの仕打ちとしては、あまりに切ないように思われる。

 
第二世代農民工という存在

 ここで舞台は再び深センに戻る。

 先の農民工博物館で、農民工の歴史に関する展示の最後は「カバンを下ろして出稼ぎに行く 2010年から現在」と題し、新たな世代の農民工について言及されていた。曰く「現在、80年代生まれ、90年代生まれに代表される新世代農民工は農民工全体の6割を占める。親たちの世代に比べて、彼らは農業や農村をよく知らず、かつ都市に融け込むことを強く望んでいる」と。
■「三和」の由来になった三和人材市場

 改革開放を契機に誕生した農民工も、40年を経て世代交替が進んでいる。1980年代~90年代の農民工を第一世代とすると、新世代=第二世代はその子どもたちの世代に当たる。しかも、これは単に計算上の話ではない。たとえ出稼ぎを終えて故郷に錦を飾り、子どもに高等教育を与えられたとしても、あるいは出稼ぎのまま城中村で家族と暮らしていても、農村戸籍に属する農民工の子どもは農村戸籍のままであり、必然的に農民工にならざるを得ないのだ。「身分制」に擬せられる所以である。

 中国・安徽大学の李坤剛教授によれば、両世代の特徴は次のように捉えられる(「新世代農民工、その特徴と課題」、労働政策研究・研修機構『ビジネス・レーバー・トレンド』2017年10月号)。

 まず第一世代は、基本的に農村における余剰労働力であり、出稼ぎの目的は農村に残した家族・親族を養うことにある。もともと農業経験があり、農村での生活に親近感を抱いているため、いずれは農村に戻って老後生活を送ろうという考えがある。キツい労働にも辛抱強く耐える。

 これに対して、第二世代の多くは農業経験に乏しく、農村生活に親近感を覚えることも少ない。出稼ぎの目的は都市で生計を立て、自らの人生を謳歌することにある。第一世代に比べて教育水準が高いため、生活観念などは都市化され、権利意識も比較的強い。農村に帰るよりも都市に定住し、都市の若者と同じような生活を送ることを望んでいる。
 ■日曜日だが、少ないながらも求職者が集まる

 前号で労働争議に触れたが、2000年代以降に急増した労働争議の背景要因として、第一世代に比べて強い第二世代の権利意識がよく指摘される。と同時に、第一世代には存在した農村との強い結びつきが希薄化もしくは失われたことで、都市住民でも農村住民でもないというアイデンティティの不安に苛まれる度合いは高まるものと推察される。それが富士康工場での連続自殺事件に何らかの形で影響していたと考えることもできるのではなかろうか。




「三和大神」、その社会的背景

 さて、こうした第二世代農民工の状況を考える上で、重要な場所が深センにある。中心部から地下鉄で北へ約30分。龍華駅を下車して10分ほど歩くと、通称「三和」と呼ばれる一角がある。地方から出てきた若者に深セン近辺の工場などを斡旋する職業紹介所が集中している。その一つ「三和人材市場」が通称の由来だ。周囲に建ち並ぶ古めかしいビルには、職を求める人々を対象にした安宿や安食堂、ネットカフェなどが入居し、そこはかとなく場末感が漂う。

 訪れたのはあいにく日曜日だったが、わずかながらも求職者がおり、一部カウンターでは斡旋業務を行っていた。また、少し離れたところでは手配師らしき男が車で呼び込みをしており、大阪・釜ヶ崎の情景を思い出させる。実際、求人には日雇いをはじめ短期間のものが多い。ただし、募集しているのは第一世代に多い土木・建設系ではなく、電子機器の製造が中心だという。こうした職種を好むのも、第二世代の特徴らしい。
 ■「三和」周辺のネットカフェ

 だが、「三和」の名が象徴するのは残酷な実情だ。
 「三和人才市場:中国底辺青年の残酷な生存物語」
 「身分証を売り飛ばし、私は三和大神になった」
 「深センにいる“三和大神”の一群、4元で一日食べ、8元で一夜を過ごす」

 中国のネット上には、こんなルポが溢れている。希望を抱いて農村から出てきたものの、低賃金、ブラック労働、都市住民による蔑視、孤独などから働く意味を見失ってしまう若者が少なくないらしい。そのなかには、短期バイトで日銭を稼いではネットゲームやネット博打に注ぎ込み、現実逃避の生活を続ける人々もいるという。

 カネがあれば安宿、なければネットカフェ、一文無しなら路上。ついには公的な証明書である身分証までカネに換えてしまうことも……。自由気ままに見える姿から「三和大神」などと呼ばれもするが、揶揄や蔑視の意味合いが大きいのは間違いない。

 日本では一昨年、中国関連のノンフィクション作家・安田峰俊がルポ(『さいはての中国』小学館新書、2018年、所収)を公表したのをきっかけに、翌年5月にはNHK-BSが「三和人材市場~中国・日給1500円の若者たち~」を放送、9月には朝日新聞が一面の半分を使って詳報した。これらに触発され、現地を訪れる日本人も現れた。私もその一人だ。

 ちなみに、安田は三和大神たちについて「自他ともに『自堕落』という評価を下されることが多い」とする一方で、社会的要因にも言及している。すなわち、彼らのほとんどは農民工の子弟であり、しかも両親ともに不在の家庭で育った「留守児童」の割合が高いという。農村出身という「ハンデ」に加え、幼少期に親から切り離された結果、家庭生活で身につけるはずの習慣や教育とも縁遠くなり、都市の労働市場ではスタート段階から「負け組」が決定づけられてしまう可能性が極めて高いのだ。

 「親がおらず、子どもの頃から他人に見下されてきた。でも、ゲームの世界は違う。ちゃんと認められるんだ」。三和大神の一人の述懐である。

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 いささか極端な事例を引き合いに出したと思われるかもしれない。とはいえ、中国国家統計局によれば、2017年中国の農民工の総人数は2億8652万人、うち第二世代農民工は50.5%を占めるとされる。つまり、第二世代だけでも日本の総人口と同程度、農民工全体では2倍という膨大な数の人々が、層として存在しているのである。

 こうした人々が中国の現状や将来像をどう考えているのか、そうした視点を抜きに私たちが中国に向き合おうとすれば、やはり大きな欠落が避けられないのではないかと思う。(つづく)

                                                  (山口協:当研究所代表)



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