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連載 ネパール・タライ平原の村から(87)

グルカ兵の歴史から見るネパール

ネパールの農村で暮らす、元よつば農産職員の藤井牧人君の定期報告。その87回目。

 退役グルカ兵の妻であるトゥロマイジュは73歳。「トゥロマイジュ」は義母の姉の呼称ですが、正確には妻の祖母の姉の娘(従伯母)にあたります。遠すぎる親戚ですが、妻らプンマガルの親族の範囲からすると、近い親戚という認識です。そのトゥロマイジュが移住先の英国から、夫婦で一時帰国されたので、英国暮らし7年目の見聞を尋ねてみました。

 ちなみに退役グルカ兵のグルカとは、ネパールを統一したゴルカ王朝の地名から来ており、忠実・勇敢と評されたネパール人兵士を指します。2009年から、1997年香港返還以前に英国の軍務(4年以上)に就いた退役グルカ兵と配偶者と18歳未満の子どもに英国定住権が与えられ、移住者には年金や手当が支給されています。 

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 トゥロマイジュの夫は駐屯地でアルファベットを教わったそうですが、学校がない時代を生きた本人は、ネパール語の読書きもできません。同じ退役グルカ兵で移住した高齢の8家族と1つのアパートで暮らしているそうですが、英語が話せるのは1~2人。遠方へ出かける際にも、道路・地名の標示、バスチケットの買い方、病院の手続きも何もわからないので、同行してくれる人が必要とのこと。

 どこも同じように見える都市景観の中、いつも同じ顔ぶれで話し相手が少ないこともあり、寒冷の屋外に出るのが億劫になるとのことです。高齢のため引き返す人、亡くなった人もいるとの話。それでも、かつてプンマガルのほぼ全ての雇用先がインド軍か英国軍に入隊することであったため、同世代の退役グルカ兵の親戚、山岳部にいた子どもの頃からの知人らが何人かいるそうです。

 16歳の時(1961年)、インド国境沿いの町ブトワルへ行き、8パティ(約20キロ)の米を担いで裸足で家族と山岳部まで歩いて帰る道中。水を含んだゴム草履を履くと水が湧き出るように、裸足の水膨れした足裏の傷から水が噴き出たことを懐かしく語る、穏やかな人柄のトゥロマイジュ。訪問時は日向に腰かけ、鍬で牛糞をかきだしたり、走り回る鶏にエサをやったりしていました。

 帰国中は、4人娘の四女の結婚式をはじめ、子どもらの儀礼に招かれたりと、親族の中で暮らしています。そうやってトゥロマイジュを子どもらが支えています。一方で山岳部から平地タライへ移住し、60代後半になってタライから英国へと、家族を経済的に支えるための二度目の移住であったことがわかります。

ブンマガルの寺院
■元グルカ兵らが設立に寄与した山岳部のブンマガルの寺院
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 英国が関わった数々の戦争に派兵されたグルカ兵。英国植民地下の外地、二つの世界大戦、フォークランド紛争、湾岸戦争、コソボ、イラク、アフガニスタン紛争。そして1989年の東西冷戦終結と1997年香港返還による大幅な兵員削減。2000年代の西欧の移民政策……。

 200年前、東インド会社に雇われて以来、ネパールの外貨獲得手段の先導役となり、経済的に成功した人たちとされるグルカ兵。彼らはネパール経済、そしてプンマガルの生活・社会に今も大きな、あるいは“重たい”影響を与えています。

【文献】上杉妙子「移民の軍務と市民権―1997年以前グルカ兵の英国定住権獲得をめぐる電子版新聞紙上の論争と対立」『国立民族学博物館研究報告』38巻4号(2014年)

                                                                 (藤井牧人)


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