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宮古島、石垣島訪問 報告

遠い島々でいま起きていること(その2)
石垣島の現在と自衛隊配備の状況

 先島(宮古島、石垣島)を訪問した報告の2回目。陸上自衛隊ミサイル部隊の配備が計画され、今年度中の着工が報じられている石垣島の状況をお伝えする。


 宮古島空港を機が離陸したのは午後5時25分。日が落ちるにはまだ早い時刻で、急速に遠ざかる宮古の島影と海岸を望むことができた。滞在中はあいにくの天候で、島を案内してくれた清水さんはいくども「晴れていたら宮古ブルーの海は本当に美しいのですが……」と残念がっていたけれども、曇り空の島影も波が打ち寄せる海岸も、後ろ髪を引かれるほど美しいのだった。

 宮古島から石垣島まではプロペラ機で飛行は35分。上昇し、水平飛行の高度に達したと思う間もなく、すぐに直陸態勢のアナウンスだ。どこまでも続く海原の視界に島影が飛び込んでくると、懐かしさに似た奇妙な感情がわき上がってくる。山も川もなく平坦で、さとうきび畑の整然と区画された宮古島とは違う、鬱蒼とした緑に覆われた山や丘が続く石垣島の風景。

 石垣空港から市街地までは30分ほど。レンタカーを走らせているあいだに、日は暮れてしまった。宿に入り、アーケードの商店街で石垣そばの夕食をとった。突然の雨に、しばらく雨宿りをし、小走りで宿へ。

 次の日も、雨。


嵩田の川満さん

 石垣島の市街地は島の南西端にあり、石垣市登野城という地名なのだが、実は登野城は南北に細長く、市街地から北方、石垣島の人びとにとっての聖山で、沖縄県一の於茂登岳(標高526m)の南麓までを占めている。川満哲生さんの自宅は登野城の嵩田集落にあり、市街地からは20分ほどだが、市街地をぬけるとすぐに山あいの風景が続く。

 陸上自衛隊のミサイル基地が計画されているのは於茂登岳南麓の平得大俣地区で嵩田集落からは距離にして東方1km以内にある。基地予定地の東側には北から於茂登、開南、川原集落があり、これら4つの公民館(住民の自治組織)はすべて基地配備に反対を決議している。

 石垣島は曇天、昨夜からの雨は朝になっても降り止まず、降ったりやんだりを繰り返していた。嵩田集落に入るとすぐに川満さんが目印にと言ってくれたアセロラ工場が見つかった。川満さんの自宅はその隣にあり、すぐそばにマンゴーやアセロラを育てているハウスが目に入ってくる。きれいに整えられた庭に面した自宅テラスで、川満さんの話を伺った。

川満さん
  ■川満哲生さん
 畑がハウス栽培なのはもともと熱帯植物であるマンゴーやアセロラを、亜熱帯で気候の違う石垣島で育てるために必要であること、特に台風や雨対策が欠かせないためだということだ。また、マンゴーは巨木で樹勢が強いので、ハウス内での栽培のために、整枝剪定が必要であり、その作業が大変だと川満さんは言う。

 主力のマンゴーは86年頃から本格的に栽培を始めた。追塾型の外国産マンゴーとは異なり、樹上で完熟落下まで待って収穫するため「ポトリ果マンゴー」という商品名で商標登録している。中間組織を通さないで、産地直送で消費者に届けている。お中元など、贈答品向けがほとんどだということだ。

 アセロラは隣のアセロラ工場と提携して出荷している。水溶性のビタミンの分解を防ぐため、100%の冷凍飲料として販売している。ニチレイが果汁10%未満のものを着色して、アセロラ飲料として売っていて、川満さんにも出荷を求めてきたことがあるが、断った。自分たちで納得のいくものをつくるのだという判断だ。

 嵩田集落をはじめ、このあたりは移民が多い。昔はマラリアの有病地だったので人は住めず、戦後に開発された歴史の浅い集落だということだ。川満さんの父も1955年(昭和30年)頃に宮古島から移住し、苦労して新たに農地を開墾し、さとうきびやパイナップルの生産に携わった。

 パイナップルはその頃、石垣島の主力産業だった。7社の加工工場が稼働し、トラックに満載されたパイナップルが続々と運ばれ、パイナップル缶に加工され、本土へ出荷された。しかしパイナップル産業の繁栄はいつまでも続かず、ウルグアイラウンドによる輸入自由化で加工工場が撤退し、石垣島のパイナップル産業はあっという間に壊滅した。最近は新たに品種改良された生食用のパイナップルが栽培されるようになっているが、もうあんな時代は二度とこないでしょう、と川満さんは言う。

 もうひとつの主力産業であるさとうきびについては、宮古島で耳にしたとおり、川満さんも政府による補助を指摘した。さとうきびに関しては栽培農家だけではなく関連する工場や農協の職員など雇用が多いので守らなくてはならないが、補助に頼っていたらダメだと言う。川満さんの話を聞いていると、移民として農地を開拓し、政治状況や農政に翻弄されつつも農家としての道を切り開いてきた者としての確信のようなものを感じた。

 川満さんは言う。観光業も年に10万人を超える観光客があり、繁栄しているけれども、島の人たちにはほとんど関係がない。外の資本が島を利用して金儲けをしているということだ。島の経済を本当の意味で良くするためには、物を生産しないといけない、農業をしっかりとがんばらないとダメだと。

 川満さんに農業の話を伺っているときに、宮古島で遭遇した野鼠剤のことを思い出し、石垣島でもやっているのかと聞いたが、川満さんは一笑に付し、野鼠剤をヘリコプターで散布するなど考えられない、「あれはウリミバエだよ」と言う。熱帯に繁殖する害虫で、コバルトを照射して不妊化したウリミバエを撒き、結果的に根絶するのだという。ヘリコプターで野鼠剤を撒くなんて「ありえない!」と断言した。宮古島での野鼠剤散布については、後日新聞などで確認したので間違いはないが、宮古島と石垣島あるいは川満さんとの環境に対する認識の違いのようなものが表れているように思った。

 陸上自衛隊配備については、紆余曲折の後、今年の7月に中山義隆市長が正式に受け入れを表明した。警備部隊、地対艦・地対空ミサイル部隊が駐屯し、隊員規模は500~600人となる予定で、現在、沖縄防衛局が建設予定地となる平得大俣地区で測量調査などを進めている。

 基地配備について、川満さんが特に強調したのは環境に対する影響についてだ。農業に携わっていると環境問題がやはり一番の関心事だと言う。ミサイル基地は於茂登岳南の森林をひらいて46ヘクタールの敷地を整備し、弾薬庫、隊庁舎、車輌整備場、グラウンドなどを建設するのだが、予定地の調査はされていても、周囲の環境に与える影響がほとんど評価されていない。

 石垣島民の上水道水源であり農業用水を取水する宮良川の上流にあたる森林を切り開くので、基地からの化学物質による水質汚染の心配はもちろんだけれども、上流を大規模に開発することによる地下水も含めた水流の変化が問題だ。予定地の南には22ヘクタールの湿地帯が広がっているが、それがどれだけの影響を受けるのか。雨水は石灰岩の層に染み込むが、46ヘクタールの敷地をコンクリートで固めると、100mmの雨で4万6000トンの雨水がそのまま流れることになる。台風の時には200~300mmの雨は普通に降るので、どれだけの影響が出るのか分からない。防衛や抑止力を口実にして、環境問題を軽んじる防衛省のいいかげんな姿勢に川満さんは怒りを通り越して、苦笑いをするばかりだった。

 ミサイルは使えないし、使ってはいけない武器だと、川満さんは言う。大規模な戦争は起こらないだろうが、国境に近い島なのでいざこざは起こりうる。そのとき真っ先に狙われるのは、武器だ。武力に頼りすぎないで、もっと政治を大事にしないといけない。中国脅威論などと言っているが、国を守るためだと言って戦争をした歴史を忘れてはならない。

 戦時中も石垣島には日本軍の基地はなかった。アメリカ軍が一時駐屯していたけれども、長く非武装でやってきた島だ。その歴史を大事にしないといけない。沖縄は古くから中国とも仲良くやってきた。沖縄を中心にしてコンパスで円を描くと、中国やアジアはとても近い。国境ということはあるけれども、もっと自由に関係をつくれればと、川満さんは言う。

 話し込んでいるあいだに、いつのまにか雨は上がってしまった。雨上がりの庭の樹木もふとため息をついているような時間。どこからともなく、名前の分からない虫や鳥の鳴き声が聞こえてきた。


自衛隊配備をめぐる状況

 嵩田集落の川満さん宅を辞し、市街地にある「石垣島に軍事基地をつくらせない市民連絡会」の事務所へ。事務局の藤井幸子さんから、この間の自衛隊配備をめぐる経緯と住民や市民の運動、今後の方針などについて、話を伺った。

 冒頭、藤井さんは、南西諸島における自衛隊配備について、大きなメディアではほとんど取り上げられないけれども、与那国島では既に自衛隊が配備され、奄美大島や宮古島では自衛隊基地の造成が進んでいることを指摘し、しかし私たちはあくまでも地元住民の意思を尊重すべきであるという思いで運動を進めているのだと語った。

 「市民連絡会」の前身は「石垣島への自衛隊配備を止める住民の会」で、2015年5月に防衛副大臣が石垣市に対し、自衛隊配備についての調査協力への要請を行ったことから始まった。配備撤回の署名や講演会、街頭アピールなど、さまざまな活動を行い、特に、配備撤回を求める署名は累計で46093筆(2018年5月)になったということだ。

 2015年11月、防衛省が候補地として「平得大俣の東側にある市有地及びその周辺」と市に正式要請し、曲折の後、2016年9月の市議会で「自衛隊配備を求める決議」が可決された。それに対して、「止める会」と、候補地周辺の嵩田、開南、於茂登の3公民館(12月に川原公民館も加入)、労組、平和団体・市民団体、野党市議、個人で「石垣島に軍事基地をつくらせない市民連絡会」が結成された。
反対の意思表明
  ■基地予定地近くで反対の意思表明

 「市民連絡会」はその共同代表に医師会の会長で本人も保守だと自認する上原秀政さんが就いているように、保守革新を問わず、さまざまな考え方をもった人や団体が参加している。自衛隊についても、その存在自体が違憲であるという人もいれば、自衛隊は認めるけれども石垣(平得大俣)への配備には反対という人もいる。垣根を越えて、石垣島への基地配備に反対するという点でともに闘っているということだ。

 市長はなにかにつけ「市民の理解と協力の下に……」とか「ていねいな説明をします」とか言うけれども、実際には市民・住民の声を聞くこともないままに、2016年12月に「配備手続きを了承する」と表明、それを受けて防衛省は2016年4月、6月に続いて2017年6月に住民説明会を開催、既成事実を重ねてきた。

 防衛省の説明会では、中国の脅威論、防災上の必要、経済効果の三点で、自衛隊配備の必要性が語られているが、どれも説得力には乏しい。中国とは経済的な結びつきが強くなっているし、民間交流も盛んだ。軋轢があったとしても外交的に解決すべきだ。防災にはミサイルは必要ではない。経済的効果は経済的に活性化しつつある石垣にはあてはまらない。

 また、「自衛隊配備は国の専権事項」だと市長はよく言うがそんなことはない。政府も一切そんなことは言っていない。外交や防衛について政策を立案するのは政府だけれども、具体的な政策の実行については住民の意思が尊重されなければならない。それは憲法が求めるところでもある。

 防衛省や市長による既成事実の積み重ねに対して、「市民連絡会」は2017年6月議会で、自衛隊配備の賛否を問う住民投票条例を野党提案したが、残念ながら否決。そこで「島のどこにもミサイル基地いらない、平得大俣の市有地をミサイル基地に提供しないことを求める」署名を提起した。自らの立場を明確にすることをためらう人が多い島社会だが、島の未来は市民が決めるという思いが共有され、わずか1カ月強で14022筆を集め、市長に民意を突きつけた(石垣島の住民は約47000人)。

 一方で、政府は2018年度の予算で、石垣市への整備関連費用として、用地取得、敷地造成など136億円を計上。一方的な予算執行を行った。

 2018年3月の市長選挙では中山義隆市長が再選されたが、「島のどこにも基地をつくらせない」を訴えた候補と「平得大俣白紙撤回」を訴えた2人の候補の合計得票は中山候補の得票を上回った。にもかかわらず、7月には中山市長は陸上自衛隊の受け入れを表明。9月の市議会選挙は、野党が9人に対して、公明2人、与党11人という結果で、予断を許せない。

 選挙ではさまざまな問題が絡むので、自衛隊配備に関する民意を直接明らかにしようと、藤井さんたちは現在、「石垣市住民投票を求める会」を結成し、「石垣市平得大俣地域への陸上自衛隊配備計画の賛否を問う住民投票条例請求」署名の受任者を集めている。保革を問わず、できるだけ幅広い人たちに代表請求者になってもらったという。地方自治法によれば、住民の50分の1以上の連署で条例の制定を請求できるということだが、石垣市には住民投票を実施する手続きの定めがない。そのため石垣市自治基本条例に定める4分の1以上の署名、10000筆を目標にしているとのことだ。

 おおまかに現在までの自衛隊配備をめぐる流れを振り返ったあと、藤井さんは、「川満さんから聞かれたと思いますが」と前置きをして、基地配備をめぐる環境の問題について指摘した。

 すでに宮古島編で報告したが、宮古島では大福牧場が弾薬庫などの候補地とされたが、地下水源の真上に当たるということで問題になり撤回された経緯がある。石垣の場合、平得大俣地区は宮良川流域の表流水、地下水の上流に当たる。大福牧場と同様に問題だ。環境問題に関しては、琉球大学と沖縄大学の名誉教授による現場視察をふまえた所見と提言が発表されている(この調査も石垣市や防衛局によるものではなく、住民たちの自主的な取り組みだ。石垣市も防衛局もサボタージュを決め込んでいる)。結論として環境アセスメントの実施が必要であるとの見解が、石垣市に対して提言された。

 環境アセスメントについては、条例が10月1日に施行され、20ヘクタール以上の造成について対象となるが、経過措置として今年度(2019年3月31日)までの着工分にはその必要がない。市有地に関しては、売却・着工は市議会の承認が必要なのでむつかしいが、予定地のかなりの部分を占めるゴルフ場の所有者は幸福実現党の人で、経営が行き詰まっているゴルフ場を売りたがっている。部分的に先行して着工ということもありうる。油断はできない(その後、10月29日、年度内の着工が報じられた。環境アセスメントを回避し、基地造成、自衛隊配備を急ぐ防衛省の姿勢があからさまに表れている)。

 このような厳しい状況だけれども、藤井さんたちは決して悲観してはいない。むしろ住民投票に向けて、あわただしく、元気に走り回っているという印象だ。その背後、というかその土台には予定地周辺の4つの公民館の人たちの闘いがある。

 予定地周辺の地域は沖縄本島で米軍に土地を取りあげられた人たちや、宮古島、与那国島からの移民の人たちが多い集落だ。苦労して土地を開墾し、ようやく花卉栽培や果樹栽培などで暮らしが軌道に乗ってきて、子どもたちも後を継ごうかというところだ。特に嵩田地区は行政から農地改良(土地改良事業)を提案されたときに、自然を破壊する開発計画だとして、それを断った。そのようにして自分たちの農業をまもり、育ててきた。

 しかし、豊かな自然の中で育った農作物であるという価値を、自衛隊基地は壊してしまうだろう。それに対して、4地区の人たちは農業という自らの生産基盤のうえに立って、だれに気遣うこともなく反対を貫いている。それは私たちにとって大きな励みになっているのだと、藤井さんは言う。

 藤井さんの話を聞いている間にも、「住民投票条例」請求の受任者署名のために住民の方が訪れたり、問い合わせの電話が鳴ったりした。石垣島の自衛隊配備反対運動は今がその佳境だ。あまり時間がとれなくて申し訳ないと言いながら、受任者の署名を書いてもらうために、藤井さんはあわただしく事務所を後にしたのだった。


川原の上原さんと具志堅さん

 「市民連絡会」の藤井さんの紹介で自衛隊基地予定地の東側に位置する川原集落の具志堅正さんを訪ねた。このためにわざわざ川原公民館を開けてもらって、同席していただいた上原重次郎さんとお二人の話を伺った。上原重次郎さんは終戦を8歳で迎えたというから、80歳ぐらい。川原集落が開墾された頃からの話が聞けるからということで、具志堅さんが声をかけてくださった。

 具志堅さんはパイナップルとさとうきび農家、上原さんは元教員で、今はさとうきび栽培を専門に行っている。他にこの地域の作物としてはかぼちゃ、マンゴー、紅芋、葉たばこなどがあり、また畜産も盛んだ。土地は肥沃で、農業としては一等地だと言う。

 川原というのは開拓民たちが入植時につけた集落名で、行政区分としては大浜というのが正式な地名になる。上原さんの父がこの地に入植したのは1941年(昭和16年)、沖縄島の豊見城から。その頃このあたりはマラリアの有病地で、牧場として一部利用されていたということだが、入植者はいなかった。上原さんの父は、その前に入植したフィリピンでマラリアを経験し、栄養さえ十分に摂っていれば大丈夫だと確信して、家族連れで入植したのだそうだ。しかし、戦況が悪化するにつれて食糧の供出なども強いられて、栄養不足のため弟は43年にマラリアで亡くなり、母もマラリアに感染したことを発端とした腎臓病で46年に亡くなった。

上原さんと具志堅さん
  ■上原さん(左)と具志堅さん
 実は、川原地区を訪れる前に、市街地のはずれにある八重山平和祈念館を訪問した。戦争マラリアに関する資料が展示され、解説のビデオの視聴もできる。子どもたちの平和学習の場としても活用されている。祈念館の資料によると、戦争マラリアとは、戦争末期の1945年に、八重山(石垣、西表、竹富、波照間など)諸島の住民が日本軍の命令によってマラリア有病地へ強制移動させられ、多くの人びとがマラリアに罹り、3647名が亡くなったという苛酷な戦争体験をいう。罹患者は全人口の54%、死亡者は全人口の10.4%。

 当時の退去先としては、石垣島民は於茂登岳周辺の中北部地域、その他の島々の島民は西表島へ。西表島は全土が有病地だった。特に波照間島では、軍の特務機関からスパイとして学校に派遣されていた山下(偽名)という軍曹によって強制疎開が命じられた(このあたりのことについては映画『沖縄スパイ戦史』に詳しい)。日本軍は住民を疎開させる一方で、住民たちの家畜を徴発し、自軍の食糧として確保した。強制疎開とは、日本軍のさしせまった食糧問題を解決するための作戦だったと言われている。日本軍の作戦のために島民たちは飢えとマラリアのために極限的な苦しみを味わった。上原さんの家族も、45年の8月に於茂登岳の方に、2週間ほど移動させられたという。

 川原村でさとうきび栽培が始まったのは戦後1948年頃から。またパイナップルの生産も始まったが、石垣島でのパイナップル生産は川原村が最初で、ハワイ移民が戻ってきて始めたのだそうだ。川満さんのお話にもあったように、石垣島にはそれから空前のパインブームがやってきた。川原村ではパインの実よりも苗を売っていたということだ。

 バイナップルは、払い下げられた山の木を伐採し、その傾斜地に植えた。現在のパイナップル栽培は平地が主だが、当時は傾斜地に植えることが何故か常識になっていた。山を裸にしたことで赤土汚染が広がった。宮良川が赤土で真っ赤になり、海ではサンゴがダメになり、シャコ貝が全滅した。土地改良事業の失敗がもたらした弊害だと上原さんは言う。

 赤土汚染の問題は今でも続いていて、環境問題に市民は敏感になっている。今、白保では、リゾートホテル建設の計画が市民の反対でストップしている。一方で、島の北部、川平湾では海岸近くの一等地を本土資本が買い占め、土地ブームとなって、住民たちの公民館活動ができなくなったということもある。

 陸上自衛隊配備については、上原さんも具志堅さんも口を揃えて防衛省からはなんの説明もなくて、計画の存在を知ったのは「新聞で」だと言う。予定地には防衛局が直接来るのではなく、一般業者に調査をやらせている。市長は「何の計画もない」と言い、また予算が下りようという段になっても「内容は分からない」とはぐらかすばかりだ。市民説明会でも、市からも防衛局からも図面は出てこなくて、後から新聞報道で知った。

 来年3月には着工ということが言われているが、業者による測量はすでに終わっている。川原と嵩田、於茂登と開南の2カ所で市による説明会があったが、対話をしたというアリバイつくりのためのもので、地区の公民館はボイコットした(上原さんはひとり参加し、反対の声をあげてきたということだ)。

 平得大俣で計画されている陸上自衛隊基地は500~600名規模。4カ所の弾薬庫と移動式のミサイルが配備される。平得大俣は石垣島の中心に位置し、そこからはどこへでも行ける。移動式のミサイルは島中を走り回るだろうし、空港や港を使って物資が輸送されるだろう。オスプレイも手配済みだと言われている。けっして地元だけの問題ではない、と二人は言う。

 3月の市長選挙では中山義隆市長が再選されたが、沖縄島での名護市長選や知事選のように、大物の自民党議員が来島し、会社ぐるみで不在者投票に行かせるなど、徹底的な組織選挙が行われた。観光業、建設業の業界は賛成しているが、実は工事を請け負うのは本土資本や本島の資本で、地元の建設会社などはおこぼれにあずかるだけで、それも一時だけのことだ。

 自衛隊は国を守る、基地を守る、しかし住民を守る義務はない。そのことは前の戦争で身にしみて経験したことだ。今、石垣島では若い人がUターンして親の畑を継ぐということが増えている。農業の主力は移民世代の2代目から3代目に移りつつある。畜産を継いだ若者たちはエサの牧草を植える場所を探している。平得大俣は島の中心で肥沃ないいところだ。そんな場所を何も生み出さないミサイル部隊が占領することに怒りを感じている。

 窓の外、具志堅さんが指さす方向には鬱蒼とした緑の丘と森、その先には小高い於茂登岳。そこに陸上自衛隊のミサイル部隊がやってくるというのはどういうことか。森をひらいて造成するというだけではない。それは戦時の記憶を伐採し、入植開拓の苦労を伐採し、農業に立脚した暮らしを伐採し、将来の夢を伐採し、平滑化し、塗り固め、その上に基地を造成するということではないのかと、ふと思った。


嵩田の高宮さん

 川原集落から基地予定地をはさんで西側、再び嵩田集落へ。嵩田公民館長の高宮耕さん宅へ。午前中に訪問した川満さん宅からは北へ数百メートルのところ。

 嵩田は30戸ほどの集落で、公民館長は2年任期だということだが、今年に入って自衛隊基地の配備についてはすでに報告したように大きな動きがあり、また自衛隊配備計画の賛否を問う住民投票条例を請求する署名が動き始めるなど、まさに正念場と言ってもいい時期における就任だ。防衛大臣、沖縄防衛局長に対する諸手続の中止を求める要請書や住民投票条例制定の代表請求者に名を連ねるなど、若手のメンバーとして活躍している。

高宮さん
  ■高宮耕さん
 嵩田地区は行政区画としてはすでに述べたように登野城で、登野城は南の市街地から山間の嵩田まで南北に細長い地区割りになっているが、そのことを話題にすると、高宮さんはすかさず「尖閣諸島も登野城なんですよ」との答え。虚をつかれた思いがした。

 高宮さんは父の代に沖縄本島から移住してきたと言う。父親は最初、野菜を育てたりしていたが、それだけでは食べていけないので、花を扱うようになった。高宮さんは花屋の二代目だ。自宅には大きなハウスが1棟あり、ランを育てているが、花屋の仕事としては主に本島の仲卸から仕入れた花を市街地の大きなスーパーや商店に花のコーナーをつくらせてもらって委託販売しているとのこと。お正月やお盆、母の日など、行事には大きく花が動くのでなんとかやっていると言う。仏壇の花がメインだということだ。

 沖縄(八重山)のお墓は、昔は亀甲墓という亀の甲羅のような墓で、最近はひさしの付いた家のような形のものも多くなっている。16日祭という先祖を偲ぶ行事があり、あの世のお正月ということで、旧暦の1月16日に一族が墓前に集い、ご馳走を持ち寄り語り過ごし、墓前で昼食をとるということだ。家には仏壇があるが、お寺というのはないので、本土のような檀家や宗派というのは特にない。

 そんな世間話をしていると、窓の外からピッピーという鳥の鳴き声が聞こえてきた。「さしばですよ」と高宮さんが言う。今の季節に北からやってきて、しばらく滞在した後、南へ渡るのだという。南西諸島から東南アジアで越冬し、再び北へ渡り、本土や朝鮮、中国東北部で繁殖するワシ科の渡り鳥だ。森の方から聞こえてくるさしばの鳴き声にしばらく耳を澄ませた。ほかにカンムリワシも住処にしているとのこと。地図では嵩田山となっているが於茂登岳に続いている山だ。

 基地の配備については石垣市や防衛局からはなんの説明もなく、予定地がここになったことは新聞で初めて知ったと言う。それまでは一切何の接触もなく、その後も説明会をしますよということだけで、向こうからこちらに足を運ぶということはない。住民のことはなにも考えていないのだと思う。

 戦争が始まったら、ここは終わりだと、高宮さんは言う。基地を置きたい側は防衛力だ何だと言うが、地元にとってはただ的にされるだけだ。地元の人を本当に守るなら、自衛隊基地はなにもないところにつくるべきだろう。自衛隊には地元の人を守るという発想はない。中国を琉球弧から外に出さないということが目的だから。もしも自分が軍人でも、やはり住民のことなんかかまっていられないだろうと言う。

 市街地の人はあまり関心を持っていないが、中山市長は市民が関心を持たないあいだにやってしまおうとしている。あえて市民に知らせないようにして、3月末までの着工を急ごうとしている。宮古島や奄美大島のように着工されてしまったら、それを止めたり元に戻すことは難しい。だからここで踏ん張って、後から後悔しないようにやれることはやっていこうと、今は住民投票に向けてがんばっているところだと言う。

 花の納品の時間があるから、あまり長くお話ができなくて申し訳ないと言いながら、高宮さんは在来種の島バナナを出してくれた。一度に黄色くなって、食べきれないからと言いながら。ちょっと酸味のある、ちいさなバナナだ。

 かわいらしい島バナナを食べながら、街の花屋さんに咲き誇る花々や、親戚一同がご先祖様と集う16日祭のかたわらを闊歩する軍用車輌の姿を想像する。戦争がなくても日常の訓練は島中で行われることになるだろう。さしばやカンムリワシは山の風景のあまりの変わりように戸惑い、行き場を見失うかもしれない。あまり饒舌ではない高宮さんの基地配備反対の思いの背景をふと見るような気がした。


「ダハズ農園」にて

 石垣市平得大俣。午後5時20分、開南十字路に面したパイナップルクラブにクルマを停めて、木方基成さんと待ち合わせ。パイナップルや島フルーツ、島野菜を販売している店だが、この時刻はすでに閉店。木方さんがこの地に入植するにあたって、世話になったということだ。相変わらずの曇天。

 しばらくして、年代物の軽四輪を走らせて、木方さんがやってくる。同乗させてもらって木方さんの農園へ。舗装道路を少し走って、サイドミラーを両脇の木の枝や葉っぱに擦るようにして、細い森の道を入っていく。基地予定地で、所有者が手入れを放棄しているのだと言う。ほんの数分で「ダハズ農園」到着。

 「ダハズ」というのは村の人たちの口癖で「○○だはずよ」というのから名付けたということだ。たとえば「あしたはいい天気だはずよ」とか。「たぶん○○だ」ぐらいの意味。自分の農園は畑っぽくないので、「農園かな?」という意味を込めた。また農業自体が自然に左右されて不安定なものだから「だはず」的だという意味もある。

ダハズ農園
  ■「ダハズ農園」の看板
 ダハズ農園の敷地は約5反。農地面積としては不足しているので、農地法の関係で、仮登記の状態だと言う。地権者ではあるが農地として所有はしていないという状態。長くバックパッカーとして旅を続けて、7年ぐらい前につれあいとともにこの地に落ち着いた。元は岡山から来たじいさんが観葉植物などを植えていたということだが、しばらく放置されていたのでジャングルのような状態になっていた。牧場などで働きながら、仕事の合間に、ツルハシとのこぎりで農園としてひらいたと言う。

 平得大俣地区にあるダハズ農園は基地予定地としては微妙な位置にある。去年5月に八重山毎日新聞の紙上で基地予定地の配置図面が明らかにされたとき、そこで初めて自分の農園が基地の敷地に組み入れられていることを知った。後日、防衛局があいさつに来たが、自分はアンチ・ミリタリズムで、自衛隊自体に反対だ、協力はできないと断ったのだが、持ち帰りますという答えで、その後はなんの返事ももらっていない。

 それなのに、今年の9月頃になって、農園のあちこちに樹木を伐採した跡があったり、知らない杭が打ってあったり、目印のようなピンクのリボンが枝に結ばれていたりした。明らかに測量のためだと思われるが、防衛局に問い合わせても、業者に問い合わせ中だということで返事をもらっていない。不法侵入、器物破損だと思う。この農園の行く末がとても心配だ。

 現在、植えているのは生姜やパイナップル、マンゴー、インド藍など。他に前の持ち主が残したと思われる観葉植物など。鬱蒼とした森がところどころ切り開かれて、そこに小さな畑が点在しているという印象だ。まだまだ農園としては自立できなくて、県の農業試験場に勤めながら、農園での作業をしている。特にインド藍には力を入れていて、自分で育てた藍を使って紅型、藍型を染めている。自分はもう50歳前だけれども、染織家を目指しているのだと、少し照れたように口にした。先日、石垣市の図書館で共同展を行い、作品を出品した。「フィールド オブ フラワー フォーエバー」と題した紅型。ネット・ウヨクに「あまえは、頭がお花畑だ」と攻撃されていたので、それに反論して「一度、あなたもお花畑に来てみれば」という意味で名付けた。

 農園を奥に入っていったところに、一本のインド菩提樹が立っている。7年前に長女が生まれるときに記念に植樹した。インド菩提樹は、その下でお釈迦様が悟りをひらいた樹だ。当時50センチほどの苗木だった菩提樹は、今は10メートルを超える高さになった。木方さんの家族にとって、この菩提樹は特別な意味をもっていて、季節の折々に、娘の成長と家族の肖像をたくさんの写真に記録したということだ。

 自分にとって、この菩提樹が伐採される、この農園が盗られるということを考えただけでも、身を切られるような思いがする。なんとしても守り抜くために、法律的なことも相談しているところだ。万が一自衛隊基地ができたとしても、ここを基地に反対する農園として守って、みんなが集えるような場所にしたいのだと言う。

 また、雨が降り始めた。帰り際、軽四輪の運転席で、自分にも言い聞かせるように、菩提樹と農園の行く末について、木方さんは何度も呟くのだった。厳しい状況の中で、今はまだ実現できるかどうかは分からない希望だけれども、ほのかな希望を見たような気がしてうれしかった。

 後日、11月9日、沖縄防衛局の職員が木方さん方を訪れて、業者が無断で立ち入って、樹木の伐採や木杭の設置を行ったことについて謝罪をし、発注者としての責任を認める謝罪文を提出した。農園の土地に関しても、今年に入ってからの測量業務の発注段階で除外していたにも関わらず、「説明をしていなかったことは、貴殿に対する配慮が足りず、深くお詫び申しあげます」と陳謝した。


ポスター
■住民投票へ署名を呼びかけるポスター

 「石垣市平得大俣地域への陸上自衛隊配備計画の賛否を問う住民投票条例請求」の署名活動は、10月31日に「市民大署名運動会開幕式」と題して、「選手宣誓」や、「選手」=「受任者」への署名簿の手渡しなど、賑やかに行われた(署名収集は11月末まで)。1月16日頃には市長が議会に付議し、議会での採決という段取りだ。

 沖縄本島での辺野古新基地建設に向けての政府、防衛省の強硬な姿勢を見ても、石垣島への自衛隊ミサイル基地建設反対運動の前途は厳しい。しかし市民・住民たちの「大署名運動会」という発想はしなやかで、たくましい。

 石垣島の人びととともに、農園のマンゴーやアセロラやパイナップル、さとうきび、ラン、さしば、そしてインド藍や菩提樹が健やかでありますようにと切に願う。

                                       (下前幸一:研究所事務局)


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