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アソシ研リレーエッセイ

原発事故に第三者はいないのか?


 「いわゆる〈当事者〉であればあるほど、自らの〈当事者-ではない-性〉に打ちのめされつづける、ということがあり得るだろう。このような素朴に逆説的な図式化が、さらに〈当事者〉を苦しめる。」(斉藤斎藤『人の道 死ぬと町』)

 苦しみや悲しみはもちろん他人と比較するものではない。しかしながらある程度の当事者であり、またより深い悲しみをもった当事者に寄り添おうとするとき、自らの〈当事者-ではない-性〉に打ちのめされつづける。逆にいえば、わたしたちは常に当事者であり、同時に第三者でもある。そのように自分の位置というものを選択してわたしたちは悲しむひとから距離を取りながら自分を守ってきた。とも言えるのかもしれない。

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 先日、『Fukushimaを聞いてみる1/10』というドキュメンタリー映画の上映会を近所で主催した。チラシには「〈福島はいまどうなっているのか?〉今年もきいてみようと思います。福島に生きる人達が、何を考え、どんな事を話しているか。私たちが、直接聞いてきたものを伝える。これはただそれだけに徹した、ストレートこの上ない記録映画です」とある。いわゆる商業映画も撮っている監督が福島県出身で東京在住の女優・佐藤みゆきに「福島っていまどうなってんの?」「知りません」「じゃあ、インタビューしてみたら」というところから始まったらしい。東日本大震災があった翌年、2013年から10年間毎年撮ろうということで5回目になる。今回は初回の2013年版と最新作2017年版を観た。

 特徴的なのは上映会に監督、ときにはその女優もやってきて上映前と後にトークをすることだ。

 ドキュメンタリーといえども作品である以上は本質的に多少なりとも監督の思惑が入る。

 主人公や対象をどのように撮ったらより力のある作品になるか、と監督が考えた途端、それは厳密な意味でドキュメント(ただの記録)ではなくなる。また監督がひとつの方向性へ観客を動員しようとすれば、また監督自体がある感情に動かされて撮影するとしたら、それは本当の意味でドキュメンタリーと言えるのだろうか。ドキュメンタリーを観るときにそのような疑問はかねてより抱いていてはいた。

 『Fukushimaを聞いてみる1/10』のこの監督のトークは、意識的に作品には反映しなかった監督のスタンスというものを語る。嬉しいことに監督もドキュメンタリーというものに対しては同じ懐疑を抱いて、3・11だけはある特定の方向性をもってはいけない。と思ったのだそうだ。「ひとつの方向に集約されずにどうぞもやもやして帰ってほしい」。そんな言葉が印象に残った。

 聞き手の佐藤も意識的に放射能の被害などの勉強をせずに素の状態でインタビューを行っている。それぞれのインタビューの後に佐藤の感想のようなものが映されるのだが、それがこの映画の特徴を端的に物語っているように思われた。佐藤が語るのはインタビューをした〈ひと〉についてである。その強さはどこにあったのか。その選択の根っこはどこにあったのか。どのようにして希望を立ちあげたのか。

 そして観客は〈ひと〉がもつ本質的な魅力ともやもやを引き受ける。『Fukushimaを聞いてみる1/10』のこのもやもやのかたちは第三者を動員する。たとえば佐藤がある母親にインタビューする。実際、佐藤は上映会当日、会場に生後三か月の赤ちゃんを連れてきたのだが、インタビューのとき佐藤のなかには自身の未来が少なからず重なったのではないかと想像する。そのようにして自分の未来や過去と重なった瞬間、観るものはすでにもう第三者ではなくなっていると言えるのかもしれない。

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 家に帰ってそれぞれがそのもやもやを解消すべくなにか考えるかもしれない、なにも考えないかもしれない。またなにか具体的な行動に移すかもしれない。そのような余白が心地よくもあった。映画だけでなく、芸術全般にもやもやが減っているのではないかと思う。鑑賞者も「だからどないやねん」という風にひとつの答えを求めがちで、もやもやを受けいれる余地がなくなっている。それぞれのもやもやを受けいれる余地が多様性をつくる。この映画を拡げるのはもちろんのこと、監督にはぜひもやもや文化を広めていってほしいとエールを送った。

                                       (矢板進:㈱よつ葉ホームデリバリー京滋)




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