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市民環境研究所から

災害は人災以外のなにものでもない


 9月に入ってからも酷暑が続いていたが、半ばを過ぎると少しは楽になった17日に東京に出かけた。行き帰りの新幹線の窓から静岡県の青空や夕焼けを眺め、京都ではずいぶんと見られなかった風景を楽しめた。

 今回の上京は、去年の6月から東京地裁で開廷されている、東電の責任を問う裁判「福島原発刑事訴訟」の第26、27回公判を傍聴するためである。「福島原発告訴団」の全国的な運動が獲得した成果の裁判だ。市民環境研究所にも「告訴団」の関西支部の拠点を置き、5000人以上の告訴人を集めた。

 これまでも何回か傍聴に出かけたが、100席ほどしかない法廷に入れる人数は少なく、早朝の新幹線で出かけ、傍聴券取得を目指して並んでも、くじ運の薄い筆者ははずればかりだった。

 今度こそと前夜は東京の友人宅に宿泊して地裁に出かけたが、初日も二日目もはずれてしまった。しかし、今回は傍聴の権利を譲ってくれる人がおり、2日とも法廷で貴重な証言を聞くことができ、弁護士の後ろに隠れるように座っている被告(東電の元会長や元社長ら3名)も見ることができた。

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 裁判所の関係者たちは法廷の中だけで会話が成立したらよく、裁判長が何を言っているのかが傍聴人に聞こえなくてもよいと思っている。だから、聴力が年々落ちて行く身には腹立たしい限りだが、なんとか2日間を耐え忍んで傍聴した。検事役の弁護士が尋問し、証人が答える場面と、すでに聴取した証人の供述調書が何通か読み上げられた。7年前に福島の各地で発生していた悲惨な出来ごとの一例を当事者の言葉で聞くことができた。

 福島第一原発から4.5キロにある大熊町の双葉病院で、副看護部長を務めていた鴨川一恵さんが証人として登場された。彼女は1988年から働いていたベテランである。

 事故当時、双葉病院には338人が入院、近くにある系列の介護老人保健施設「ドーヴィル双葉」に98人が入所していた。鴨川さんは、3月12日に、比較的症状の軽い209人とともにバスで避難を始め、受け入れ先のいわき市の病院で寝る間もなく看護にあたっていた。

 3月14日夜、後から避難した患者ら約130人が乗ったバスを、いわき市の高校体育館で迎えた。このバスは、病院を出発したものの受け入れ先が見つからず、南相馬市や福島市を転々と彷徨い、11時間以上もかかっていわき市に来たという。継続的な点滴やタンの吸引が必要な寝たきり患者も多く、1時間程度の移送にしか耐えられない病状の人もおり、救急車などで寝かせたまま運ぶ必要があるが、そんな余裕もなく、バスは流浪の行程だったという。

 鴨川さんは、「バスの扉を開けた瞬間に異臭がして衝撃を受けた。座ったまま亡くなっている人もいた」と言葉を詰まらせた。バスの中で3人が亡くなり、体育館に運ばれた後に11人も亡くなったという。この避難行で死亡した患者について、検察官役の弁護士が「地震と津波だけなら助かったか」と尋ねると、「そうですね、病院が壊れて大変な状況でも、助けられた」と断言した。まさに原発崩壊が原因であるとの証言だった。

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 彼女の証言の他に避難移送中に亡くなった人の関係者の供述も報告された。簡単にまとめよう。

 ・「高い線量で連絡や避難を困難に」と患者搬送に関係した自衛官
 ・「流れ込むがれき、よく誰も死ななかった」と水素爆発時に現場に居た東電関係者
 ・「国や東電の責任ある人に、責任を取ってほしい」と父を亡くした遺族
 ・「原発事故さえなければ、もっと生きられたのに」と両親を亡くした遺族
 ・「避難ストレス、栄養不良、脱水、ケア不良で死亡。避難がなければ死ぬことはなかった」と死者を診断した医師
 ・「避難する前には、普段の様子でバスに乗って行ったのに」とケアマネジャー

 今までもこんな事例があることは聞いていたが、福島原発崩壊の悲惨さと対処のしようのなさを関係者の肉声で知ることができ、災害とは人災以外のなにものでもないことを再確認できた。

                        (石田紀郎:市民環境研究所)



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