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アソシ研リレーエッセイ

ヘイトスピーチに第三者はない


 先日、「国体論からみた安倍政権」と題した講演会で、白井聡さん(京都精華大学)の話を聞く機会があった。日本が先の戦争で負けていないのだという「敗戦の否認」が、戦後レジームの出発点であり、現在の安倍政権に至る政治状況を生み出す核心でもあるのだという説だ。

 この「敗戦の否認」はなにも大日本帝国から新生日本国へといたる支配層によるものばかりではなく、あまねく日本国全体を覆う態度であって、「敗戦」を「終戦」と言い換えて、なんら疑うことのない政治家、マスコミ、世論のすべてが、「敗戦の否認」を、その強度の差はあれ共有し、反復し、信仰している。主として在日朝鮮人に対するヘイトスピーチは、朝鮮を植民地として支配する大日本帝国を、いまここに出現させるものであり、薄く広く国民の中に拡散している「敗戦の否認」が局所的に噴出したものであるとも言える。

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 つまり私たちは、ヘイトスピーチを共有しているということだ。あるいは薄く広く加担しているとも言える。なるほど、私たちは在日の人たちの住む街に出かけて絶叫したり、あるいは朝鮮学校を襲撃したりすることはないかもしれない。

 しかし、ヘイトスピーチには眉をひそめつつも、朝鮮学校を無償化から除外し、また卒業生の北朝鮮土産を没収したりする政治や行政に見て見ぬふりをし、あるいは酒場で「金正恩がどうとか、核ミサイルがどうとか、朝鮮総連がどうとか」知ったかぶりをしたりする。あるいは、ワールドカップやオリンピック、アジア大会では、いつのまにか日の丸、君が代に感動し、あるいは無感覚に受け入れている。そういったことのすべてが「敗戦の否認」を薄く広く拡散している。

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 私たちは社会意識の海を漂っている。社会意識というのは政治であり、マスコミであり、世論であり、経済活動であり、日々のなんということもない会話であり、職場会議であり、集会決議であり、事後の乾杯である。さまざまな個的、集団的な意識が、渾然として反響し合って、膨大な社会意識の海を形づくり、そこに私たちは浮かんでいる。

 社会意識は実体であり、私たちの意見や個性といったものは、深く社会意識に支えられ、社会意識からそのエネルギーを備給されている。そして社会意識の海に、「敗戦の否認が」核として食い入り、拡散しているのかもしれない。

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 本号で、市民環境研究所の石田紀郎さんが「公害に第三者はない」ということを主張しておられる。その言葉を敷衍して「ヘイトスピーチに第三者はない」と言いたいと思う。ヘイトスピーチには加害者と被害者があって、私たちはどちらでもないという考え方は、端的に言って虚であって、ありえないのだ。無辜なる市民としての、中立的な立場から発せられる言葉は、ほとんど意味がないままに、社会意識の海に回収されていく。

 私たちにできることは、無責任な意見を言うことではない。被害者の近くにいること、被害者の現実を知ろうとすること。社会意識の雑音をかき分けて、被害者の声に耳を傾けること。歴史から学び、歴史の真実を手探りすること。沈黙のなかからやがて語られる言葉の絶対的な価値を信じることだ。それから、できうればそれぞれの意見を。

                        (下前幸一:当研究所事務局)




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