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石田紀郎さん講演会 報告

市民環境運動のこれまでとこれから
『現場とつながる学者人生』刊行を受けて

 本誌に10数年前からほぼ毎号、「市民環境研究所から」と題する環境時評、エッセイを寄稿していただいている石田紀郎さんが、この5月に『現場とつながる学者人生―市民環境運動と共に半世紀』(藤原書店)を上梓されました。それを受け、さる8月18日、出版記念を兼ねて、石田さんをお招きして、研究者としての公害現地での活動や、京都での市民環境運動の経験について、講演をしていただきました。関西よつ葉連絡会との共催です。以下、石田さんの講演の概要を紹介します。

はじめに

 この5月に『現場とつながる学者人生-市民環境運動と共に半世紀』と題した本を出版しまして、使い捨て時代を考える会の槌田劭さんや縮小社会研究会の松久寛さんが中心になって、1週間前に京都で出版記念会をやっていただきました。今日はそのときの講演を軸にお話ししたいと思います。

 自分はこの40~50年近く、日本の公害問題をある意味で象徴している地域をずっと歩いてきましたので、まずその話をさせてもらいます。関わってきた場所を日本地図に記してありますが、1カ所に短くても3~4年、あるいはもっと長く付き合って、いろんな公害問題に関係してきました。直江津や富士山の麓などの例外を除いて、関ヶ原から東は行かないということを原則にしていました

                          ■公害現場を歩き続けた70年代

 1990年ぐらいから、中央アジアのカザフスタンへ行くようになりました。動機はなんだったかと言うと、雨が降らないところの人たちの生活に興味があったのです。日本は基本的に、雨がよく降ります。年間1500から2000ミリ近くも降ります、そういうところで、実は、私たちは水問題、水質問題で失敗してきた。人と水と農業というのを私は研究テーマの柱にしていましたので、逆に、雨が降らないところで、考えてみたいと思ったのです(アラル海の問題に関しては、本誌第77号[2010.7.30]「20世紀最大の環境破壊から何を学ぶか」に報告があります。ご希望があれば当研究所にお問い合わせ下さい)。

大学から公害の現場へ

石田紀郎さん
  ■石田紀郎さん
 私は1940年生まれです。滋賀県の湖西地域で高校まで過ごしました。琵琶湖は自分の庭のように思っていて、夏は琵琶湖で毎日泳いでいました。55年に初めて大阪へ来て、工場から黒い煙がもくもくあがっているのを見て、先生が「お前ら、これからの日本はこれが力やぞ」と言うので、田舎の風景とは全然違っていてびっくりしました。

 58年に高校を卒業して、1年浪人をして59年に京都大学に入りましたので、60年安保はまるまる1、2回生の時で、勉強はなにもしませんでした。デモとビラまきとカンパ集めと、時として近くの中小企業の労働争議のピケに参加したり、河原町通りでデモをやったりしました。1、2回生はそんな感じで、これではあかんと思って、ちょっとは勉強をしました。

 私は田舎育ちで、兼業農家みたいなものでしたから、親の手伝いで野良仕事をしていましたので、植物病理(植物の病気)を専攻しました。根本的なテーマは『安全な環境で百姓が農業を営んで、安全な農作物が採れる、それを安定的に生産し供給できる』そういう農業をつくらないとあかんという気持ちでした。

 農学部へ入った59年頃というのは、農薬として有機水銀剤を普通に使っていた時代なんです。イネのいもち病を防除するのに使っていました。その結果、いもち病というのはもう終わったと私たちは教えられていました。一方で、59年に国は水俣病の原因が有機水銀だということを認めました。そのふたつをどう結びつけたらいいのかということを疑問に思ったのですが、この植物病理学の卒業生の半分は農薬会社に勤めますので、その中で本当にいろいろなことをきちんと考えられるだろうかと心配になってきました。それでいったんそこから離れて、科学というのはなにをやろうとするのかという根本のところを考え直そうと思って、やり始めたのが69年、70年のあたりからです。

 有機水銀剤は71年には使用禁止になりますが、この長い間に日本中で撒いた有機水銀剤の水銀が、田んぼの土の表面から5センチのところに溜まっているとすると、水銀がだいたい自然状態の5倍以上は蓄積しているだろうと言われています。よく例にあげるのですが、日本が敗戦になったことを知らずにジャングルでがんばっていた横井庄一さんが日本へ帰ってきました。彼の毛髪の中の水銀量を計った医者がいるんです。帰ってきたばかりの頃は水銀濃度は低かったのですが、日本の飯を食いだしてから跳ね上がります。日本人はみんなそうなんです、今は減ってきていると思いますが。

 そんなことで、なにをしたらいいのかを考えながら、公害の現場を歩き始めました。現場でいろんな人に教えてもらって勉強をしなおしたら、自分自身も自分の科学に対する姿勢もしゃきっとするかと思ったのです。百姓とか漁師の間で学んだら、公害問題の全体像が分かってくるんじゃないかというのは今でも思っています。あるシンポジウムで、琵琶湖調査団に参加した教え子の2回生の女子が、「私は、去年の夏、琵琶湖で漁師の舟に乗って、私たちは大学で環境のことを学んで知っているつもりだったけれども、漁師の人はみんな身体でそういうことを全部覚えておられるんだなということがわかりました」と発言したことがあります。本当にその通りだと思います。

村の人たちと共に

 いろんな所へ行きました。写真は滋賀県の米原にある日本でいちばん大きなアンチモン(Sb)工場です、大きな製鉄所に比べたら、中小企業みたいなものですが。アンチモンは自動車のバッテリーの電極などに使います。電極は鉛で、鉛自体は軟らかいので、アンチモンを入れるんです。ヒ素に近い毒性をもっています。1970年代には、廃棄バッテリーを集めて、それをドラム缶で燃やして鉛電極を取り出す荒っぽい仕事が、公害として問題になっていました。それは鉛が足りなかったこともありますが、アンチモンも足りなくて値段が上がっていたからです

アンチモン工場
  ■アンチモン(Sb)精錬工場
 ここはアンチモン専門の工場なのですが、工場の煙突から出てくる煙に触れたりすると、村の人はボロと呼んでいましたが、吹き出物が出て、それが痒くてたまらない。私も何回も通っていましたからボロが出ました。医者にも来てもらい、いろんな人に来てもらって調査し、いろんなことを勉強しました。

 現場へ行って、分析して、データを出すというのが普通の大学の環境研究者ですが、問題を解決しなければ、データを出しても何もならないというのが私の考えです。ここで住民と一緒に座り込みをやったり、工場の中へ突入したり、いろんなことをやって、10年後にはこの会社はここから撤退しました。

 撤退したこと自体は良かったのですが、工場は海外でやっているということですから、そういう意味では解決はできてはいません。ここは100戸ぐらいの村ですが、その後の長期的な影響は誰も研究していませんし、私の友人に来てもらって調査もしましたが、近くの川に背骨の曲がった魚が多発したり、いろんな現象が起こりました。

 公害の研究というのは正義の味方みたいに思われますが、そういうことではありません。ここへ行ったときは、村のお婆ちゃんからよく文句を言われました。「あんたら、ここが汚れてるとかなんとか言うけれども、そんなこと喋らんといて。調査なんか、私らはいらんのや!」とよく言われました。「盆になっても、孫がきてくれへん。あんたらがいらんことを言うから、孫が来てくれへんのや!」と言います。そのお婆ちゃんをきちんと説得した上で、被害者とどう一緒にやっていくかというのが、一番の仕事です。

 公害の調査で、小便や土を取って分析したりするのは、どうということはない。エネルギーの8割ぐらいは、村の人たちと一緒に、この問題を解決する動きをどう作っていくかということです。ここがものすごく勉強させていただいたことです。

 今の環境学者がそういうことをやっているかどうか、それが問題だと思っています。村の中で、村の人たちと一緒になって、いろんな問題、些細な問題から一緒に考えてやっているかというと、なかなかそんな研究者がいないということです。

公害に第三者はない

 この頃は、日本がアルミをものすごく使い始めた頃で、直江津のアルミ精錬工場へ行きました。アルミ精錬工場というのはフッ素が出るんです。フッ化物の影響で、いろんな影響が出ていました。『月刊地域闘争』(現在は『月刊むすぶ』)を出していたロシナンテ社の星野建士さんが、小さな痩せた大根をもってきて、「こんな大根しかできないところをほっておく気か!」と言うので、それに挑発されて7年ぐらい通いました。

 日本海側は防風林で家を囲っていますが、数十万本が枯れたと言われています。100万本にもなるのではないかと、私たちは感じています。この会社は、三菱の系統のアルミ精錬工場ですが、アルミ製錬というのはほとんど電気代みたいなもので、電気代がたくさんかかるということもあって、日本を出て、海外へ行きました。直江津の海岸線から信州の山の所までの範囲を、数年走り回りました。

 ここの村には亀田徳治さんという偉い人がいて、そのころの僕から見ればお爺ちゃんですが、きっちり記録を書いて、闘っていました。そこを支援する形で関わりましたが、その記録が「枯れ死の里より」という本として出版されています。工場のまわりは米をつくっていましたが、米にもいろんな問題がありました。

 よく言われることですが、公害には第三者はないということです。『被害者は、身体の総体で被害を受けている。しかし、加害者はその中から部分化された指標だけしか受け取ることができない。だから被害者の立場から公害問題の総体を把握する努力をせよ。公害には第三者はいない』。だから加害者と被害者とをちゃんとおさえないといけない。それをおさえるだけの仕事をやり、調査をやっていかなければならない。

 途中でギブアップした課題もあります。富士山麓に穴が大小200カ所もあって、製紙のカスが埋められています。海に流していたらヘドロが溜まって、漁師が闘って撤去させました。そのヘドロを埋めて、上から土を被せて置いてあります。PCBをいっぱい含んだものです。富士山の山上の雪がとけて流れてくる地下水を汚染しているでしょう。大日本製紙とか昭和製紙とかに支配されていて、なかなかこの問題は取り上げられない。ここで反対運動をやっていた人は全部、製紙会社の仕事がまわってこなくなって、撤退されました。ここには4年ぐらい通いましたが、たいしたことはできなくて、ギブアップしました。

会場
  ■講演会の模様
猿は人間よりもむずかしい

 淡路島南部に日本でも有名な野猿公園がありますが、そこで集中的に手足のない猿が生まれて、ひどい年には70%がそういう状態でした。園長さんは一生懸命調べて、龍谷大学の猿を研究している人が私のところに手伝えと言ってきて、まあ、人間より猿の方が楽だろうと思って行きましたが、猿の方がよっぽどむずかしかった。猿は喋ってくれないということもありますし、それを取り巻く人間社会がここまでひどいのかというような状態でした。

 阪大の中南元さんと一緒に調べていたのですが、手足のない猿のお母さんの身体には塩素系の殺虫剤(ヘプタクロールエポキシド)の成分がたまっていることがわかりました。それはどこから来ているかというと、大豆と小麦。人間が食えなくなったカビが生えたものとかが、どこかのルートをまわって安く買えた。ほとんどアメリカ産で、そこに殺虫成分がいっぱい入っていたのだろうというところまでは追いつめましたが、それ以上はできませんでした。食べものが問題だということで、改善して奇形の発生は少なくなりましたが、最近また上がってきているのではないかということです。猿屋さんでも奇形の猿は追いかけている人はあまりいない状態です。

 猿だから楽だと思って、10年つきあいましたが、猿の方がよっぽどむずかしかったです。たとえば淡路島はミカンを作っています。だからミカンの農薬ということは絶対言わないようにとクギをさされました。それを言ったら、野猿公園を使わせてもらえないからと。だから隠れてデータは得ていましたが、ミカンではなかったような気がします。

 もうひとつは小豆島ですが、三つの群れがあって、奇形の猿がいっぱい生まれました。生まれたことはわかっているのですが、現地調査に行ってみると、奇形の猿はいないんです。不思議に思って聞き込みなどをやっていると、小豆島の場合は奇形の猿は全部撃ち殺しているということがわかりました、観光客に見せられないからというので。断崖絶壁から捨てられている現場まで行って、骨を集めてもらいました。

 猿だからということで、いろんな情報があって簡単だと思いましたが、全然違いました。人間よりもむつかしい経験でした。私たちの公害問題、環境問題をやるときの姿勢が問われる。園の経営者も私たちも、地域の人もそれが問われる事件でした。

公表できないこと

 高知のハウスには、1983年から87年、5年間行きました。農薬ゼミという自主ゼミの学生と一緒に入りました。受け入れてくれた人は、お父さんは殺虫剤の有機リン剤中毒で、失明寸前でした。20歳ぐらいの息子がいましたが、農薬は扱わせない。なぜかと思ったのですが、結婚前に息子に農薬散布などさせられないということでした。ハウスの中で農薬を撒くというのは、拡散しないので危険なんです。このころハウスでメロンを作るというのは、とても儲かる仕事だったんです。出荷額が3000円しましたから。それが京都へ来ると6000円ぐらいで売れました。立派な自宅はメロン御殿とかスイカ御殿とか言われていましたが、実際はそういう厳しい中でやっておられました。

 そういうことを聞き出すだけでもたいへんな作業でした。農協が心を開いて農薬の統計や出荷高なども見せてくれるようになるのに3年ほどかかりました。3年経ったころに報告書に、ここでの農薬使用について博士課程の学生がまとめてくれました。ところが彼から夜中に電話がかかってきて、えらいこっちゃと言うので聞いてみると、ハウスでは絶対使ってはいけない農薬を農協が百姓に売っているということが分かったのです。それを文章で公表したら産地は壊滅的になるだろう、どうするかということでとても悩みましたが、いろんな人から批判されることを覚悟で、発表を断念しました。

 この仕事をしていますと、こういう問題にいっぱい当たるんです。その時に、研究者としてどうするかが問われます。この時も、もし発表したとして、そのあとどうフォローして、一緒にここの農業を守っていくのかということも含めて考えられるか、できるかどうか分からないということで、発表しませんでした。その代わり、農協と話をして、ハウスで使ってはいけない農薬を使うのは止めてくれという、ある種の条件を出しました。これが本当に良かったのかどうか、みなさんにもぜひ考えていただきたいと思います。私もこの問題はあれで良かったのかどうか、いまだに忸怩たるものを持ちながら、考えています。

 こういうことはしょっちゅう起こるんです。これは発表するのかしないのか。解決するためにどうするのかが問われます。70年代には、そういう問題が噴出しました。公害問題なんて、学問の対象じゃないと思われていました。それは私企業がやったことで、一般的な科学の真理を扱う者がやるような仕事ではないと思われていたから、私たちにはいっぱい仕事の依頼がありました。

琵琶湖は琵琶湖を汚さない

 上流の様々な問題が、流れ流れて行き着く先が琵琶湖とか瀬戸内海です。そういう意味で、下流でなにが起こったかを捉まえて、ずっとさかのぼって問題をちゃんと捉まえない限り、琵琶湖の汚染問題はなくならないだろうと考えるようになったきっかけが、琵琶湖総合開発です。

 大阪に水をたくさん渡さなければならないので、琵琶湖周辺に土手を作って、水面を1.5メートル高く上げたり、1.5メートル下げられるようにして、3メートル幅を上下できるようにするというのが琵琶湖総合開発です。琵琶湖の水位が下がったら船が岸に着けなくなるから、人工島を作ろうという計画も出てきます。土手を作ったから浄化作用が落ちて、琵琶湖が富栄養化した。合成洗剤の問題もありましたし、水道水の中にトリハロメタンという発ガン性物質が、京都を1とすると、大阪は3倍くらい高いトリハロメタンが出るという問題がありました。琵琶湖全体の風景の問題もありました。

 そういうことを調べるために琵琶湖汚染総合調査団というのを3回組みました。75年、85年、2005年と。「フクシマ(東京電力福島第一原発事故)」が起こってからは余力がなくなってしまって、今はちょっとさぼっていますが。下流から上流、湖から陸上を見る視点をちゃんと持たない限り、公害問題というのは見えてこないということです。

 70年代から、琵琶湖がなぜそんなに汚れてきたのかという原因ですが、総合開発で堤防を作ったこともあるんですが、除草剤などの農薬の影響もあります。たとえばイサザという魚に溜まっている除草剤を40年間ぐらい追いかけてきました。除草剤をたくさん使った時期とイサザに蓄積量が多い時期とにズレがあることがわかりました。その理由がなかなかわからなかったのですが、やっと水利用の変化が原因だとわかってきました。1960年代ごろまでは、上の田んぼに水を溜めて田植えが終わると、やっと下の田んぼに水が来る。水が田んぼで濾過されて濾過されて来る。ところが時代が変わり5月の連休にいっせいに田植えをするようになります。なぜそれができるかと言うと、琵琶湖から汲み上げた水を使ってそれぞれの田んぼに入れるからです。そうすると順番に濾過することがなくなるから、農業排水は琵琶湖に直行するようになります。除草剤も琵琶湖に直行しちゃうんです。陸地の変化がもろに魚の汚染につながることがわかります。

 私は滋賀県生まれですので、琵琶湖の水が気になる。いろいろな運動をやっていると、行き着いた言葉は、これだけでした。「琵琶湖は琵琶湖を汚さない」というあたりまえのことがわかるのに長い年月がかかったなと思います。琵琶湖は琵琶湖が汚すんじゃなくて、琵琶湖のまわりの社会、鈴鹿の山から湖岸までのこの社会がどんな社会なのかということが問題になるんであって、汚染物質だけを追いかけていたのでは、なんともならないのだと思うようになりました。

被害者運動から市民運動へ

 それまで、いろんな市民運動から、京都の問題もやれよと言われたんですが、そんなわけのわからない市民社会の問題より、被害者たちの運動の方がわかりやすいと言って、嫌がっていたのですが、なんとなくやってもいいかなという入り口が、私なりに見えだしました。それでやりだしたのが、78年につくった「京都水問題を考える連絡会」です。使い捨て時代を考える会の槌田劭さんや常寂光寺の長尾憲彰さんたちに一緒にやれよと言われて、「琵琶湖は琵琶湖を汚さない」という私なりの言葉も生まれたんで、水問題をやりだしました。

  ■命と健康を守る市民の行進
 77年に琵琶湖に赤潮が出ます。合成洗剤が原因のひとつだということで、京都でも石けん運動というのが盛んになりました。学校給食の食器洗いに合成洗剤を使っているので、止めてくれと請願は出しましたが、それだけではうまくいかないので、教育委員会と交渉して、7校で石けんを使って実験をやってもらいました。それでなんとかうまくいくようになって、そのあと10年かかって、京都の全校が石けん洗浄に変えました。今でもそれは続いています。100万都市では京都が初めてです。今の門川京都市長が教育委員会の係長だったときにやった仕事で、どなりあいをしながらやってきました。

 公害現場から市民社会に出て、どうしたらいいのかわからなかったのですが、槌田さんからの提案で、5月3日に「いのちと環境を守る市民の行進」というのを三条河原から円山公園まで毎年やりました。今は5月3日なんかにやっても人は集まりませんけれども、そのころはたくさん集まりました。これはそのときのデモです。一番先頭にいる女性陣は京都の右京婦人会の人たちです。その後ろに原発反対という幟が見えます。全部で1000人ぐらいの行進でしたが、そうすると課題が出てきます。なにかというと、前を行く婦人団体は合成洗剤に反対しているけれども、「私は原発はいると思う」と言います。「原発の反対の人とデモをするなんて、私はいやや」と言いだしたんです。

 そこで、83年から、「市民講座・かざぐるま」という講座を開いて、原発に反対の人も、合成洗剤に反対の人にも来てもらって、考えてもらうことにしました。126回ぐらい、いろんなテーマを昼夜で10年ぐらいやりました。何年目かにはこの女性陣も「原発はあかんと思うわ」と言って、こういう部隊を組んでもなんとかデモができるようになりました。お互いに思っていることをしゃべりあう、議論をするということが一番大事なことだと知りました。

 そういう経験をもとにして、「きょうと・市民のネットワーク」というのをつくりました。三軒長屋の二軒分を事務所として借りて、異業種交流をするためです。市民社会全体を変えていくには、自分たちの主張だけではダメで、やはり異業種交流が大切だということです。異業種交流というのは、合成洗剤反対の人と、原発反対の人と、農薬反対の人などがテーマを越えて知り合うことです。反天皇制の団体との交流はしんどかったですが。とにかく、お互いに主張していることを交流しあう場所をつくらないとあかんということで結成しました。今の市民環境研究所というのも、その流れだと思っています。

農薬中毒裁判について

 67年に、和歌山でのミカン園で、松本悟くんという高校生が、ニッソールという農薬を撒いていて、亡くなるという事件がありました。農薬中毒は泣き寝入りがほとんどですが、国が認めた農薬を、言われたとおりにマスクをして撒いたのに死ぬなんて、ということで、ご両親の松本さんご夫妻が69年に損害賠償の裁判を起こされました。私も植物病理の人間として、勉強させてもらおうと思って、裁判所通いを始めました。実験で顔にマスクをして、農薬の代わりに色素を撒いてもらって、どこにどのくらい農薬がかかるのかを調べました。東大の高橋晄正さんには、目の回りから身体に入る分だけで200人に1人ぐらいは中毒で死ぬという鑑定書を出していただきました。

 私が裁判に行くようになったのは2年目か3年目からですが、77年に、原告が農薬の使用を間違えたのだから自業自得だという、要するに金儲けのために恐い農薬を撒いて、失敗して息子が死んだのは親の責任だということで、負けました。それで、ご両親は控訴されまして、大阪高裁の裁判長が和解をすすめて、もう長い裁判だったので、1985年に和解されました。日本曹達という会社が遺族に1250万円支払うということでした。勝訴と同じだという新聞記事もありましたが、こんな和解ができるとは思ってもみませんでした。これは日本の農薬問題に大きな影響を与えました。

 裁判の公判では、初めは傍聴人が3人、私が行き始めたときは5人ぐらい、これでは裁判は絶対負けるんです。裁判自体が開かれない。裁判があるたびに弁護士や阪大の中南元さんや植村振作さんと一緒に村で報告集会をやりまして、だんだん村の人に理解していただいて、傍聴人が80人にもなりました。これは画期的なことです。それで大阪高裁では、毎回100人ぐらいになって、社会状況もずいぶん変わってきたと思うんですが、傍聴人がいるというのは裁判にとっては大事なことです。今、京都に来ている福島の避難者の裁判支援をやっていますが、役には立ちませんが、座っているだけでいいと考えています。それにも、ぜひみなさんサポートしてあげて下さい。

 農薬裁判に取り組んでいる中で、農薬はあかんと言いながら、百姓が農薬を撒いてミカンをつくるというのはおかしい、という批判が支援者から出ました。ちょうど開拓したばかりの、松本悟くんの伯父さんにあたる仲田芳樹さんの園がありまして、それならここでやろうということで、省農薬栽培をやり始めました。73年からですから50年近くになります。

「省農薬」ミカンに挑戦

 病気がいっぱい出ます。ミカンのことはわからないので、仲田さんに農作業、栽培のことは全部お任せして、私たちは調査だけします。「省農薬」でいきましょうということで、省く農薬というのを考えました。ミカンにとっての一番の害虫はヤノネカイガラムシです。これにやられると木が枯れるのですが、だんだん枯れそうな木が出てきます。だんだん増えて、もうこれは農薬なしではダメだということになりました。殺虫剤として機械油を使っていたんですが、もうこれでは限界に来たなと。なにか考えないとダメだと思っていたときに、農水省がこの害虫の天敵を紹介していました。この害虫は中国から入ってきたのですが、その時に天敵は一緒に入ってこなかったのです。この天敵は3ミリぐらいの小さな蜂なんですが、それを園に導入することにしました。ところが、260匹しか手に入らなかったので、半分ぐらいの木が枯れそうになって、どうなるかと思いましたが、それから5年ほどすると、天敵が子どもを産んで増えてくれて、農薬を撒かなくてもやっていけるところまでになりました。

 「省農薬」というのを私はこんなふうに考えています。『農薬は可能な限り省くべき存在である。省き方は作目、風土、技術で異なる。農薬だけを省いても、省農薬農業は成り立たない。全国一律の農薬漬けから一律の無農薬など成り立たない。そのための技術開発が必要。また社会総体として取り組むべき課題である』。そういうふうに立てて、「省農薬」という言葉を使ってやりだしました。

 農薬のことに関してですが、日本は農薬大国で、ものすごい量の農薬を、75万トンぐらい使ってたんです。それがだんだん80年代には減ってきています。今は20万トンぐらいです。これは本当にありがたいことかというと、70年代から減反政策が始まって、農業が縮小していくからです。農薬を撒く場所がないだけのことで、本当に農薬を使わない農業が増えたとは思えません。

 環境問題をやっていると言ったら、いいことをやっていると思われがちですが、そんなものではなくて、30年ぐらい前から学生に言ったのは、環境問題には逃げられない関わりかたをしないとあかんということです。調査をしてデータを得るんだったら、その分はミカンを自分たちで売ろうということで、毎年、1300箱、多いときは2000箱、20トンを売っていました。そして、農業を考えてくれということを言い続けてきました。

 私は、「省農薬」、農薬を省くということを、市民講座をやったりしながら社会化して、その考え方を広げたい。でも、それだけではダメだと思っています。作物を売らんとあかん。学生が売っているのはせいぜい20トンですが、「省農薬」という考え方を経済化するということを実現し、そしてそれを政策化する。この社会化、経済化、政策化というのをぐるぐるまわしていかない限り、世の中はきれいにならない。「琵琶湖は琵琶湖を汚さない」と言ったのだから、そういうことを実践しようと思って、仲間とエルコープという生協を立ちあげました。10年間、理事長をやって、2003年に京大を辞めるときに辞めました。

放射能汚染と避難者支援

 東日本大震災と東京電力福島第一原発の崩壊以来、放射能汚染の問題や避難者の支援に関わっています。究極の公害という言葉しか出てきませんが、長い間公害問題をやってきて、なにをしてきたのかと、私自身も問われていると思います。避難者は避難し、棄民、難民となっています。その人たちの支援をどうしていくかというのは大きな問題です。

 400万円ぐらいする放射能の分析機器が研究所にありますので、福島の被災者に利用してもらって、土壌汚染を測定しています。たとえば、いわき市の例ですが、けっこう大きい敷地の家で、屋敷全体が汚染されており、除染前に5500ベクレル(Bq/kg)だったのが3800ベクレルになったが、同じ敷地内で、2万2000ベクレルの土もありました。除染が終わって1年ちょっとたちますが、今はどうなっていますか。この方は京都に家族全員で避難されて、拠点をこちらに移されています。たったひとつでもいいから、うちの子はこんなところに住んでいたというデータをもってほしいと思って測定し、裁判でも使ってもらっています。

 東京の家の中で掃除機をかけて集めたゴミも測定しました(左下)。放射能値は、福島を1000ベクレルとすると、京都は10ベクレルぐらいしかありませんが、東京は800ベクレルとか500ベクレルとかがざらに出てくるんです。東京というのは汚染地です。国は何も言わないけれども。

東京都の放射能測定値
                                                       ■東京都の放射能測定値
 滋賀県の鴨川の河川敷にセシウムを含んだ放射能汚染木材チップを放置した事件もありました。2億円ぐらいの物を動かして、この業者は何千万円かを儲けたんです。分析したら、8000ベクレル以上あり、こんなのは動かしたら絶対ダメです。告訴して、有罪になりましたが、全部撤去して、どこへもっていったかはわからない。富士の河口湖で、牛を飼っているところにも投棄されていました。全国に捨てられていると思います。

 この7年間はほとんどの時間をフクシマのことに割いてやっています。それほど大きい事件であり、課題山積です。いまの安倍内閣はまともな被災者支援政策などなにもやっていないのと同じです。フクシマを忘れるな、そのために働け、と自分に言い聞かせながら、公害時代を思い出し、がんばって行こうと思っています。

市民社会から大学批判を

 
【質問】石田さんの目から見て、研究者が本当に研究をしようとしたら、社会に出ていかなければならないということを話されたと思いますが、今の研究者の状況というのは厳しいものがあると、いつも書かれています。なにかいい展望のようなものが、少しでもあれば紹介していただければと思います。

 
【石田】59年に京大に入って、63歳で大学を辞めるまで、長い間京大で飯を食っていて、もう絶望的ですね、今は。

 今日、出てくる前に、BSのNHKが原爆の開発の特集を2時間番組でやっていました。有名な原子核の研究者が出てきて、広島と長崎に原爆を落とすまでのことをやっていましたが、原爆を作って落として、それで戦争が終わって良かったという総括をしています。

 それを見ていて腹が立つんだけれども、防衛省は今年、大学に105億円もの研究費を出しています。金のない研究者を口説きまわって、研究をやらそうとしています。兵器をつくれとか、そんなことではないということなのですが、なぜ防衛省が研究に金を出してやらせるのか。105億円というすごい金です。1人が500万円として100億円だから2000人。今は、研究者というのは競争的資金をもらえたらいいけれども、研究費が当たらなかったら年間30万円台ですよ。みんな防衛省の金でもええやないかという気分になっているんです。

 和歌山のミカン園を一緒にやっていて、大学教授をやっている者が電話してきて、「もう大変ですわ、防衛省が言ってきて」と言っていました。彼は昆虫学、害虫学をやっているのですが、どんなことを防衛省は言ってくるのかと聞いたんですが、彼もこうだということは言いませんでした。

 僕が当てずっぽうに、イスラム国の兵士にだけ付くダニを開発してくれというような研究かと言うと、まさにそのとおりですという答えでした。そういうところまで食い込んでいます。もちろんそんなイスラム兵を殺すためのダニの開発なんていうテーマじゃなくて、なんとかダニの生態学的研究と言えば、学問に見えますよね。そんな風に口説いているのだと思いますが、それが今、各大学にいっぱい入り込んでいます。

 金が当たらない人は、年間30万円しかない。大学は、金をどうやって集めるかだけになっていて、文科省の言うとおりにやらざるをえない。そんな雰囲気の中に防衛省が入ってきている。原爆を開発したあのアメリカの学者とどう違うのかという事態に今きている。それを批判する力は、大学にあるのか。いちおう学長の山極さんががんばって、軍事技術の研究はしないという声明を出していますが、いろんな研究者と立ち話で聞いてみると、「そんな金でも科学が進歩するんだから、いいじゃないですか」と言う研究者がいっぱいいるんです。ある面では、ちょっと末期症状かなと思います。

 否定的なお答えしかできませんが、この事態を市民社会が批判していく、なにか動きをつくってかないとあかんやろうなと思います。


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