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アソシ研リレーエッセイ

ヘイトスピーチについて考える


 「金をもらって座っているプロ市民」「中国の手先」「違法な座り込みで地元の人に迷惑をかけている」…。これらは、沖縄反基地運動に対するヘイトスピーチだ。「ヤマトの人間ばっかし」で「地元の人間はいない」の他にも、東京では、翁長知事らによるオスプレイ配備反対デモに対し「沖縄に帰れ!」という悪罵もあったという。

 東京MXテレビの「ニュース女子」で放映された「沖縄・高江のヘリパッド建設工事反対デモ」についての報道は、上記主張に基づく番組だったが、これに対し、BPO(放送倫理・番組向上機構)は昨年12月、「重大な放送倫理違反があった」と批判した。

 反知性主義は、ヘイトスピーチという大衆行動としてのみならず、公共放送にも侵出し、今や移民排斥、難民忌避の運動としても世界中で普通に見られる光景となった。これほどの憎悪感情が公共の場で垂れ流される事態は、30年前には想像できなかった。沖縄反基地運動の話題を引き継ぎ、反知性主義のひとつの現れであるヘイトスピーチについて考えてみたい。

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 反知性主義に対し知性主義を対置しても克服には至らない。所詮、個人の世界認識など、コップの底から天井を見ているに過ぎない。むしろ、自らの認識には限界があることを知り、自らを疑うことを忘れないことと、それを補うための想像力を養うことこそが大切だと思っている。

 想像力といっても、「自分が相手の立場だったら」という想像をめぐらすことだから、それほど難しいことではないだろう。自分を疑い、相手の立場を想像する努力があれば、かなりの程度ヘイトはなくなるのではないか。

 しかし、現代のヘイトスピーチの拡散は、そんな個人の変化で克服できるものではないことも明らかだ。社会的・経済的要因こそ今日のヘイトスピーチを生み出す要因だろう。好きではないが、「金持ち喧嘩せず」という格言がある。「有利な立場にある者は、その立場を失わないために、人とは争わないようにする」という程度の意味だろうが、不安定労働で貧困を強いられ、尊厳・自信の喪失などで生活から余裕が奪われていくと、考えることや相手の立場を想像することなど、面倒くさくてできなくなる。余裕がなくなると、直感的でわかりやすい答えに飛びついてしまう自分もいる。

 貧困の広がりを象徴するのが、子供の貧困率で、先進国の中でも最悪レベルだ。平均所得の半分を下回る世帯で暮らす18歳未満の子供の割合は、6人に1人まで増加している。他にも、親の介護のために離職し退職金を使い果たしてしまった中年男性、長時間労働が原因でメンタルを病んだのに会社から一切の補償がなかった非正規雇用の女性など、貧困は全世代に広がっている。

 NPO法人ほっとプラス代表理事の藤田孝典氏はこれについて「生活困窮者を監視し、障害者やホームレスを差別する人間の多くは、他者を攻撃することで『自分はまだ下流ではない』と確かめているのだ」と指摘しているが、ヘイトスピーチの広がりと貧困の広がりはパラレルであることに異論はないだろう。

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 オウム幹部の死刑執行が行われた。20日間で13人という大量殺人だ。再審中の者も多数含まれており、異例中の異例。しかも、これを実況中継し、執行された死刑囚の名前に印を付けていくテレビ局まで現れた。公開処刑だ。「強い政府」をアピールする手段として「公開処刑」が使われたとしたら、政府自身がヘイトを煽っていると断じて差し支えない。

 競争・市場化=小さな政府をスローガンとする新自由主義は、貧困を拡大し、人間から寛容さまで奪い取ろうとしている。協同・連帯に基づく新たな社会イメージが求められている。

                                            (山田洋一:『人民新聞』編集長)




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