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アソシ研リレーエッセイ

「反知性」主義を超えて


 ポピュリズムと親和性が高いか、またはそれを支えるものとして「反知性主義」が挙げられる。本来的には積極的な意味を持ちながら、逆の状況に自分たちを導きがちな現状がみられる点も同じである。

 積極的な意味としては、大衆を軽視する知的権威・エリート層による権力の独占・乱用を防ぐ力を民主主義に与えるものとして。ただ、元来は反「知性主義」であるはずが、現状としては「反知性」主義の様相が強いように思う。

 日常の様々な現場で、自分の知らないことは「知らなくても良いこと」、自分ができないことは「できなくても良いこと」、やりたくないことは「しなくても良いこと」という雰囲気が色濃く漂っているように感じる。

 自らが持つ知識や技術を絶対視または過大評価すると同時に、他者の“それ”を認めない、または過小評価する(ほぼワンセットだ)。これは「反知性」主義に他ならない。自分の知っていることや感じること、信じること全てを俯瞰して客観的に考察する姿勢に欠けている。

 ネットでの無責任な誹謗中傷などはそのようなマインドから産出されているし、安倍晋三や橋下徹などの言動にもそれは顕著にみられる。もともと親和性があるから、彼らが放つ、言葉の背景をすっ飛ばしたようなワンフレーズに踊らされるのだろう。ポピュリズムの否定的な面を浮かび上がらせる源泉だ。

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 哲学の祖ソクラテスは、人間が持ち得るのは所詮自らの職業や経験を通じて得た限定的な知であり、全体性を持った「真の知」は神のみが知るもので、人間にはそれがあるかどうかさえ知る術がない、という文脈で「無知の知」を唱え、政治家や知識人、技術者を論破していった。

 たしかに、その行為に対しては、「真の知」を大上段に置くあまり人々が持つ日常知や技術知の有効性をきちんと評価できていないという批判もできるだろう(本誌前号の研究会短信を参照)。

 しかし、日常は誰しもが否応なく向き合わざるを得ず、そこに流されそこに規定されてしまいがちなものだとすれば、その限界性を自覚させるソクラテスの問い掛けは、今なお普遍性を有しているといえる。

 人間は、どこまでも突き抜けていく「真の知」を持たない。あるかどうかもわかりようのない存在なのだから、どのような思想も知見も必ずどこかで限界を迎える。人間にできるのはそれを求め、問い続けることだけ……。

 とても虚しいことのように思えるが、その過程の中にだけ“より善い生き方”や“本当の幸い”は見出せるような気もする。日々の暮らし、そして運動の中にもその思想を織り込んでいかなければならない。

                  (松原竜生:㈱大阪産地直送センター) 



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