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講演学習会 報告

「民主主義の危機」にどう立ち向かうか

ラディカル民主主義という試み



 米国トランプ政権の誕生、欧州における排外主義の台頭など、世界では「民主主義の危機」と言うべき動きが拡大している。だが、それは一方で、既存の政治エリートに対する民衆の抵抗という側面も含んでいる。「代表する者=政治家」と「代表される者=民衆」との間に亀裂を生みやすい議会制民主主義。「自分たちの意思が蔑ないがしろにされている」と感じる時、民衆は「オレに任せておけ!」と言う指導者に惹かれがちだが、同時に、既存の政治に対する批判にとどまらず、主体的な政治参加によって議会制民主主義の欠陥を乗り越え、自らの手で新たな政治を創造しようとする動きも生まれている。こうした「ラディカル民主主義」と言われる動きがどんなものか、その背景にはどんな考え方があるのか、日本の現状にどんな示唆を与えているのか、若手政治学者・塩田潤さんにお話をうかがった。



「ラディカル民主主義」とは何か


 まず、ラディカル民主主義とは何かということですが、政治学者の山本圭さん(立命館大学)は次のように述べています。

 「ラディカル・デモクラシーとは何か。この最も単純な問いかけが、ある意味では最も答え難いということ、このことがラディカル・デモクラシー論のひとつの特徴であることは間違いない。」(『不審者のデモクラシー』岩波書店、2016年)

 つまり、ラディカル民主主義は非常に幅広い、言い換えれば曖昧な概念ということです。というのも、ラディカル民主主義にはさまざまな歴史的文脈、考え方、そして実践の仕方があるからです。たとえば、この間よく話題にされた「ポピュリズム」もラディカル民主主義の範疇に含まれます。

 それ以外にも「熟議民主主義」、つまり人々の熟議を通じて政治的な決定を行おうとする考え方もあります。日本でも2012 年、当時の民主党政権が原発・エネルギー政策をテーマに「ミニ・パブリックス(mini-publics)」という手法を導入した事例があります。「ミニ・パブリックス」とは、無作為抽出によって募った一般市民が特定のテーマ、たとえば日本の政治をどうするか、これからの原発政策をどうするか――などについて議論し、政策形成に活用していく市民参加の手法です。これもラディカル民主主義の範疇に入ります。

 このように非常に幅広い射程を持ち、多様な解釈を許容する民主主義の概念と言えます。

塩田潤さん
  ■塩田潤さん:神戸大学大学院国際協力研究科在籍
 とはいえ、そうした多様性を持ったラディカル民主主義にも、やはり一定の共通性、最低限押さえるべき点があると思います。いわば「エートス(本質的な特徴)」ですね。大きく分けて二つあります。

 一つは「ラディカル=根源的」ということです。「ラディカル」という言葉には「急進的な」という意味があり、そこから「過激」という印象を与える場合もありますが、「ラディカル」にはもう一つ「根源的な」という意味もあります。ラディカル民主主義の「ラディカル=根源的」というのは、「民衆の生活の中から生まれる発意に根差した民主主義の視点」(千葉眞『ラディカル・デモクラシーの地平』新評論、1995年)ということです。

 さらに言うと、ラディカル民主主義は「絶対的な権力は絶対的に腐敗する」というテーゼを立てるわけです。つまり、どんなにいい人であっても、どんなイデオロギーを持っていても、権力を持っている限り、その権力は腐敗する。そうした前提に立つがゆえに、「民衆(demos)」の「統治(kratos)」を追及し続ける。そうした立場です。

 逆に言えば、ラディカル民主主義には完成はなく、むしろ民主主義を不断に追い求めることになります。終わりのない「未完のプロジェクト」としての民主主義であり、それを可能にするのが民衆の統治。だから、具体的には可能な限り直接的な民衆の政治参加を志向することになります。先ほど触れた「ミニ・パブリックス」も、ある種の直接的な政治参加です。以上が一点です。

 もう一点は、「複数性、非絶対化/偶発性」です。簡単に言うと、複数性とは複数の多様な価値観や視点が交差する政治の世界として民主主義を捉えることです。世の中にはさまざまなイデオロギーがありますが、ラディカル民主主義は一つのイデオロギーに立脚することはしません。先ほど触れたように、どんなに正しいイデオロギーに基づく権力も必ず腐敗するがゆえに、特定のイデオロギーに依拠することはできないのです。

 それから「非絶対化/偶発性」。これも先ほど触れたように、何か「真なるデモクラシー」とか「民主主義の到達点」といった絶対的な状態は存在しないという考え方です。つまり、民主主義は常に不完全であり、どんなイデオロギーや制度であっても社会の問題をすべて解決するようなものはないというのがラディカル民主主義の立場です。

 言い換えれば、いかなる秩序や権力も何時かは覆される可能性を持つというのが、ラディカル民主主義の基本的な考え方です。もちろん、それが何時なのか、どんな経路をたどるかは分からないという意味で「偶発性」なんですが、可能性は常にある。つまり、現在の権力や秩序は変わる可能性があるし、変えることができるという、非常にポジティブな、未来に開かれた民主主義の考え方だと言えるでしょう。

「ラディカル民主主義」登場の背景

 では、ラディカル民主主義がなぜ登場してきたのか、その前提を見ておきたいと思います。

 まず指摘できるのは、「リベラル・デモクラシー(自由民主主義)」の機能不全です。この間の歴史を振り返れば分かるように、とりわけ20世紀後半以降、政党や議会、選挙といったリベラル・デモクラシーのさまざまな機能は国家官僚制や後期資本主義(≒新自由主義)、テクノクラシー(専門技術家[テクノクラート]による支配)などによって実質的に機能不全に陥っています。

 例えば、アメリカ大統領選挙の選挙キャンペーン合戦などは象徴的です。カネが政治を支配するというか、経済力が実質的に選挙の帰趨を決めている。経済力が容易に政治力に転化する。また、多かれ少なかれ政財の癒着はどの国にもあります。またテクノクラシーで言えば、たとえば原発問題に絡む御用学者の存在、それによって政策がねじ曲げられてきたことなどが指摘できると思います。

 つまり、政党を通じて民意が集約され、そうして選ばれた議員によって議会で政策が決定されるというのがリベラル・デモクラシーの理念だとすれば、現実にはそれが機能不全に陥っている。本来は政治・議会に反映されるべき民衆の意思が、官僚主義、政財癒着、専門家支配によって蔑ろにされている。代表する者が代表される者の意思をうまく反映できていない状態にある、ということです。こうしたリベラル・デモクラシーの機能不全こそが、ラディカル民主主義の登場を促したと言えるでしょう。

 イタリアの政治社会学者ドナテッラ・デッラ・ポルタは、次の3点においてリベラル・デモクラシーの機能不全を指摘しています。

 第一に「政党民主主義」の機能不全。そもそも政党は選挙を通じて票(民意)を集約し、それに責任を持って応えるという「選挙アカウンタビリティ」を実行する機構として存在するわけですが、そうした政党の力が低下している。その一方で、カネがすべてを支配する市場原理主義が政治への介入を深めている、というわけです。

 第二に「国民国家」の機能不全。これまでは「国民/外国人」という線引き(「民衆の境界線」)を定めた上で、国民=主権者の多数決原理によって民主主義が成立してきたわけですが、グローバル化の影響によって「民衆の境界線」が薄まってきている。その結果、「国民国家」の民主主義がうまく機能しなくなっているということです。

 第三に「社会的平等(福祉国家)」の機能不全。新自由主義の台頭に伴って社会的な格差が広がっているわけですが、そうした格差は政治的権利への自由なアクセスを可能にする社会的平等を掘り崩してしまう。

 つまり、グローバル化、新自由主義が深化していくと社会的不平等が拡大し、市場原理主義の介入によって政党が掲げる政策に幅がなくなり、政党の凝集力が低下していく。その結果、それまで政党が反映していた民衆の意思は徐々に反映されなくなっていく。

 ラディカル民主主義の実践とは、こうしたリベラル・デモクラシーの機能不全という現実を直視しつつ、市民社会の側から、つまり民衆の発意に根ざす形で政治的な公的空間を再構築する試みだと言えます。

 ただし注意すべきなのは、ラディカル民主主義はたしかにリベラル・デモクラシーの機能不全を告発しますが、だからといって“政党や選挙など不要、直接民主主義でいい”というように、リベラル・デモクラシーの破棄を訴えるものではないということです。もちろんラディカル民主主義の中に選択肢とて直接民主主義は含まれますが、だからといって

現在のリベラル・デモクラシーのシステムを一挙に取っ払うことには与しません。その点では非常に現実主義、あるいはプラグマティックな側面を持っていると言えるかもしれません。

 リベラル・デモクラシーの機能不全に加えて、もう一つの前提としてイデオロギーの多様化と階級的集合の減退を挙げることができます。これは、ある程度の年代の方なら体験的に分かると思います。たとえば60 年代までなら、民衆の中に「労働者階級」という意識が存在していた。個々人がすべてそう自覚していたというより、社会全体にそうした「階級」というアイデンティティが存在していた。ところが、70年代以降、階級アイデンティティは完全消滅したわけではないにせよ、かなり溶解していったことは間違いありません。

 いま街頭で「あなたは自分を労働者階級と思いますか?」と訊けば、「何ですかそれは?」という反応が大半でしょう。つまり、自分はいま社会の中でどんな位置にあるのか不明確な(「個人化」とも言われる)時代に突入し、アイデンティティが多様化、流動化しているということです。

 こうなると、これまでは可能だった、「階級」としての政治的アイデンティティの共有やそれに基づいて行われる社会運動(階級闘争)も困難になります。階級アイデンティティがなくなってしまった時代に、われわれはいかに連帯して社会の変革に向かうことができるのか。これもまたラディカル民主主義の課題なのです。

ラディカル民主主義とポピュリズム

 では次に、ラディカル民主主義とポピュリズムの関係について考えたいと思います。冒頭で触れたように、僕はラディカル民主主義のなかにポピュリズムが含まれると捉えています。ラディカル民主主義=ポピュリズムではなく、ラディカル民主主義の一つの実践としてポピュリズムがあるということです。

 この間、世の中ではポピュリズムという言葉が流行しており、それゆえにさまざまな定義が用いられるわけですが、私が一番まとまっていると思うのは、次のようなものです。

 すなわち、ポピュリズムとは「経済構造の大きな転換に伴う急速な社会変動から生起する政治的不満が、既存の政党システム等の制度的チャンネルを通じて反映されないため、アウトサイダー的なカリスマ的指導者に集約する形で表出される反エスタブリッシュメント志向の階級横断的な政治現象」(土佐弘之「システム危機の表象としてのスペクター(右翼ポピュリズム)」『現代思想』2017年1月号)である、と。

 では、こうしたポピュリズムとラディカル民主主義はどのように接近するのか。この点では、「民衆の直接的な政治参加」と「リベラル・デモクラシーの機能不全の告発」という二つがキーワードになると思います。

 ポピュリズムが政治的な力として台頭してくる背景には、やはり“自分は代表されていない”という民衆の政治的な不満があります。そのため、民衆の直接的な参加、民衆の意思を酌むことがなければポピュリズムは成り立ちません。実際に、また十全に酌んでいるかはともかく、少なくとも意思を酌むポーズを取らなくてはならない。それは同時に、リベラル・デモクラシーの機能不全を告発することにもなります。

 世の中では、マスコミをはじめポピュリズムに基本的に否定的な評価が下されることが多いですね。「大衆迎合主義」とか「民主主義の敵」とさえ言われることもあります。しかし、ラディカル民主主義の視点からポピュリズムを見てみると、必ずしも否定すべきものでもない、というのが率直な評価になります。その前提となるのは、リベラル・デモクラシーの機能不全を何とかすべきだけれども、イデオロギーが多様化して階級的集合が難しく、昔のように階級闘争が困難になっている社会のありようです。その際、ラディカル民主主義の側からの政治戦略として、ポピュリズムを使うことができるのではないか、というわけです。

 こう指摘したのは、アルゼンチン出身の政治学者エルネスト・ラクラウです。彼はいままで否定的に捉えられていたポピュリズムをラディカル民主主義の視点から捉え直すことによって、左派の民主主義的な戦略として活用可能だと主張しました。

 その際の論点として注目すべきは、次の3点です。一つは「敵対性とラディカル民主主義の諸要素」で、これは「闘技的民主主義」という考え方からの議論です。代表的な論者としては、ベルギー出身の政治学者シャンタル・ムフがいます。ちなみに、ムフとラクラウはパートナー関係にあり、共同で著作を発表しています。

 ムフの考えを簡単に紹介すると、こうなります。すなわち、政治的なものとは本質的に敵対的で複数的なものであり、「かれら」がいるからこそ「われわれ」がいるのであり、完全な合意などありえない、と(もとになっているのはカール・シュミットが『政治的なものの概念』で展開した議論です)。

 要するに、政治というのは本質的に、常に敵対的なものである、ということですね。むしろ、敵対性と複数性が本質的だからこそ、完全なる絶対権力を阻止することができる。つまり、「かれら」がいるからこそ「われわれ」がいるということは、絶対権力によって「かれら」がいなくなれば、同時に「われわれ」もいなくなってしまうからです。それにもかかわらず、リベラル・デモクラシーは、完全な合意が可能だという前提で、それに向けた協議や妥協を繰り返しますから、その結果として民衆の間に政治的な倦怠や幻滅を生んでしまうことになります。

 とはいえ、こうした政治的敵対関係、つまり「かれら/われわれ」の関係は最初から与えられているものではなく、その都度のヘゲモニー闘争を通じて「偶発的」かつ「戦略的」に構成されると言っています。これはポピュリズムの特徴ですが、ポピュリズムは常に敵を作ることによって求心力を発揮します。「かれら」を敵と見なすことで、同時に「われわれ」つまり味方の存在が浮上してくる。そのように「かれら=敵/われわれ=味方」を区分して考えること、すなわち「敵対性」が政治の本質だというのがシャンタル・ムフ、さかのぼればカール・シュミットの考え方です。

 もう一つは「連帯を生み出す『空虚なシニフィアン』」です。先ほど、イデオロギーの多様化によって階級を軸としたまとまりが困難になっていくなかで、どのように連帯しうるのか、という話をしました。異なる多様なイデオロギーを持つ異質な人々をどのように一つの政治勢力にまとめ上げていくのか。この点で、ラクラウは、まとめ上げる機能を「節合(ariticulation)」と概念化し、そこでの「空虚なシニフィアン」の重要性を指摘しています。「空虚なシニフィアン」とは、「それ自身では特定の意味内容を持たない記号」を意味しますが、そうであるがゆえに多様なイデオロギーを節合させ、一つの政治勢力をつくりだしうる、というわけです。

 一例として、2014年にイギリスで製作された『パレードへようこそ』という映画を挙げましょう。この映画は1980年代、サッチャー時代のイギリスが舞台で、LGBT(性的少数者)が一方の主役、もう一方の主役は炭鉱労働者です。この時代、炭坑の閉鎖が相次ぎ、閉鎖に抵抗する炭坑労働者の組合は新自由主義のサッチャー政権から徹底的な弾圧を受けます。そうした中で炭坑労働者たちとLGBTの共闘がどのように実現し得たのか、というのが映画のテーマです。そして、この映画の中で両者を一つにまとめる「空虚なシニフィアン」の役割を果たしているのが、「サッチャーを追い出せ!」という合い言葉です。

 炭鉱労働者からすれば、サッチャーは自分たちを弾圧して失業に追い込もうとする元凶であり、LGBTからすれば、もちろん以前から社会的に差別されてきたけれども、強権的なサッチャー政権下でさらに抑圧を感じている。

 映画の中で非常に印象的な言葉として、あるゲイの人が「自分たちはサッチャーにいじめられている。いま炭坑労働者はサッチャーにいじめられている。一緒じゃないか」と言います。もちろん、いじめられている原因は、LGBTと炭鉱労働者それぞれで違います。だから、それを軸にする限り両者の連携は容易ではありません。しかし、「サッチャーを追い出せ!」ならば、その言葉を発する人がそれぞれ自分なりの意味を投影でき、かつ一つにまとまることができるわけです。

 考えてみれば、「自由」や「民主主義」といった言葉も極めて多様な意味を含んでいます。僕の思っている意味内容と皆さん一人一人が思っているものは、おそらく同じではないでしょう。それは、一人一人生きてきた経験が違うからです。そうした一人一人異なる経験やイデオロギーを一つにまとめ上げる合い言葉が「空虚なシニフィアン」であり、それを使って幅広いイデオロギーの人たち、通常なら共闘できないような人々を共闘させるのがポピュリズムの本質だ、というわけです。

 とはいえ当然ですが、ポピュリズムは常に革命的な、社会変革を目指すようなものであるわけではありません。むしろ、支配階級内部の闘争に利用される場合があります。この点で記憶に新しいのが、昨年の東京都議選における小池新党の動きです。ご存じのように、小池さんは少し前には自民党に所属していました。都議選で自民党を批判して躍進し、その後に希望の党をつくったとはいえ、結局は支配階級内の権力闘争に過ぎず、革命的でも何でもなかったことは明らかです。

 だから、ポピュリズムには現在の支配秩序を覆すような「被支配階級のポピュリズム」と現在の支配秩序を前提に機能する「支配階級のポピュリズム」の二つの側面があるということを押さえておく必要があります。
 以上が、ラディカル民主主義の視点から見たポピュリズムの位置づけになります。

欧州政治に見る「解放のポピュリズム」

 では、ラディカル民主主義とポピュリズムは実際の政治の中でどのように実践されているのか、欧州を例に見ていきたいと思います。

ポデモス
  ■ポデモス、左から3人目が党首パブロ・イグレシアス
 欧州のポピュリズムは、排外主義的な右派と革新勢力とがいずれも台頭している状況と捉えることができます。一般的には右派ポピュリズムの方が注目を集めがちですが、もう少し現地の状況に分け入ってみると、革新勢力もポピュリズムを使って勢力を拡大していることが分かります。

 この点に関連して、水島治郎さん(千葉大学)は「解放」のポピュリズムと「排除」のポピュリズムという区分をしています。前者、つまり「解放志向」のポピュリズムは社会改革や経済的な分配を求めるものであり、ラテンアメリカに特徴的だと指摘されています。一方でヨーロッパの場合は、移民や難民の排除を柱としてポピュリズムが機能している「排除志向」のポピュリズムだと評価されています。

 「ヨーロッパのポピュリズム政党は、ラテンアメリカにおけるように富裕層を批判して「分配」を求めるのではなく、むしろ既存の制度による「再分配」によって保護された層を「特権層」と見なし、その「特権層」を引きずり下ろすことを訴えるのである(いわゆる引き下げデモクラシー)。」(『ポピュリズムとは何か』中公新書、2016年)

 指摘のとおり、ヨーロッパのポピュリズムにそうした傾向があることはたしかですが、ただし、それだけではありません。「解放のポピュリズム」も存在するというのが、僕の見方です。

 たとえば、スペインのポデモス(Podemos)、ギリシャのシリザ(SYRIZA)については、皆さんも耳にされたことがあるかもしれません。僕が研究しているアイスランドにも海賊党(Piratar)があります。シリザの場合はギリシャの政権を担うまでになっています(政権運営はあまりうまくいっていないようですが)。こうした革新勢力も実践的にポピュリズムを使っています。

 背景として、そこに至る経緯を簡単に紹介しましょう。スペインもギリシャもアイスランドも、ヨーロッパの中心ではなく周辺部にある国です。こうした周辺国はドイツやフランスなどの中心部と違って、もともと経済が不安定な傾向がありました。そこに2008年の世界金融危機が追い打ちをかける形で経済破綻に追い込まれます。その結果、既存の支配的な政治秩序、エスタブリッシュメント(既存の支配勢力)による支配ヘゲモニーが危機に陥りました。これを受け、ポデモスやシリザ、アイスランド海賊党はエスタブリッシュメントと徹底して敵対する言葉を使いながら台頭していきました(各国内のエスタブリッシュメントは現在のEU[欧州連合]体制を支えているので、エスタブリッシュメントへの敵対はEU体制への敵対とも重なります。)
シリザ
  ■シリザの党首アレクシス・チプラス

 ただし、敵対する言葉だけではなく、同時に「人民(人々:people)」という合い言葉、つまりラクラウの言う「空虚なシニフィアン」を用いて「われわれ」という政治的アイデンティティを形成したことも見ておかなくてはなりません。

 つまり、「あいつら(=エスタブリッシュメント)こそ、これまでさんざんいい思いをしてきたあげく金融危機を引き起こした特権層であり、あいつらのおかげでわれわれ人民は深刻な苦境に追い込まれている。だから、あいつらを打倒しよう!」という形で呼びかけが行われました。ポデモスやシリザ、アイスランド海賊党いずれも共通して「人民」という言葉を使っています。

 こうして、「かれら=エスタブリッシュメント」を批判するなかで「かれら」に虐げられる「われわれ=人民」という敵対関係を構築し、「われわれ=人民」が「かれら」の支配を覆すのだという形で「解放」を志向するポピュリズムを実践したわけです。

 以上のような経緯を踏まえた上で、とくに注目すべきは「市民参加の模索と実践」が非常に重視されている点だと思います。

 たとえばシリザの場合、党首のチプラスのインタビューを掲載した雑誌の表紙には“HE WON'TSAVE YOU. What are you going to do?” という言葉が並びました。日本語で言えば「彼(チプラス)はあなたを救わない。あなたは何をしますか」ですが、内容から見れば、シリザと人民との関係は「救う/救われる=代表する/される」というような一方的なものではない、との表明です。つまり、シリザや党首のチプラスは、「あなたもシリザが実効しようとしている民主改革のための共通プロジェクトに参加して下さい」と呼びかけている。このように、現在の欧州における革新勢力のポピュリズムでは、市民参加が重要なキーワードになっているわけです。

 もう一つ、アイスランド海賊党の場合は、党員であるか否かを問わず一般市民の参加の下で党の政策の基盤にもなる方針をつくっていくことを徹底しようとしています。広く市民に呼びかけ、議論を組織した上で政策に吸い上げていくわけですね。

海賊党
  ■海賊党、前列左が党首ビルギッタ・ヨンスドッティル
 これは、インターネットの普及率が9割以上で、SNSを通じた議論や意思形成がしやすいというアイスランドの特性もありますが、それ以上に、政党の構造や綱領として市民参加を重視している点が大きいと思います。

 もちろん、ポデモスやシリザにしろ、アイスランド海賊党にしろ、そうした理念が完全に達成されてうまくいっているかといえば、そうではありません。たとえばポデモスの場合は最近、リーダーのパブロ・イグレシアスに権力が集中しすぎているのではないか、という話があちこちで浮上してきました。シリザの場合も、それこそ「権力は絶対的に腐敗するという」テーゼから自由ではありません。

 だから、現実には市民参加の理念どおりになっていないことも多く、未完といえば未完ですが、そもそも完成や到達はあり得ないというラディカル民主主義の前提からいえば、民主主義の徹底化を目指す試みとしてラディカル民主主義の実践だと捉えることができるでしょう。

日本におけるポピュリズム
大阪維新と立憲民主党


 次に日本における事例として、大阪維新と立憲民主党を取り上げたいと思います。僕としては、大阪維新・橋下を右派ポピュリズム、立憲民主党・枝野を左派ポピュリズムと分けていますが、それは「緊縮財政か、再分配重視か」という経済の軸、「権威主義的か、寛容・リベラルか」という政治の軸、その二つの軸で区分しています。リベラルで再分配重視であればあるほど左派、そうでなければないほど右派になるという、いわば便宜的な区分です。

 橋下ポピュリズムの背景には、小泉改革と政権交代があります。小泉改革は剥き出しの新自由主義改革。そこから民主党に政権交代し、民主党は「国民の生活が第一」を掲げましたが、事業仕分けなどに見られるように、実はこれも新自由主義のバリエーションに過ぎませんでした。実際、経済面ではどんどん疲弊していきました。そうした中で、政治的不満や閉塞感を利用し、橋下ポピュリズムが台頭してきたという構図です。その際、橋下ポピュリズムが「敵」と規定したのは、組合、公務員、マスコミ、記者、研究者などです。次々と敵を作りだして攻撃し、敵対性を常に持続させる。と同時に、大阪の没落を誇張しながら「解決策」として大阪都構想という「夢」をふりまく。そこに内実はありませんが、それこそ「空虚なシニフィアン」として機能したと思います。

 とはいえ、あくまで「改革」を前面に出していたがゆえに、「右派」としての色彩は弱まったことはたしかです。いまから見れば右派ポピュリズムと言えますが、当時の報道などでは、そうした評価はほとんどありませんでした。とくに若い世代は、政党を保守と革新に振り分けた場合、維新を最も革新に位置づけたりしていました。

 しかし、政治的な実質を見るならば、大阪維新は橋下さんを頂点とする権威主義的な構造で成り立っており、その意味で橋下さん以外は主体性もなにもなかったことは明らかです。

 以上が大阪維新のポピュリズムだとすれば、一方で立憲民主のポピュリズムはどういうものか。

 経緯としては、先ほども触れた東京都議選での小池新党の大勝、それを受けた民進党の自己解体という状況があります。民進党の解体によって、それまで共闘を続けてきた「左派リベラルブロック」が危機に陥ります。それを受け、ツイッターなどで「#枝野立て」という声が湧き起こります。そうした民衆の声に押される形で、枝野さんは路上で街宣をはじめます。その際の合い言葉は「立憲民主党はあなたです」というものです。先に挙げた、シリザのチプラスの言葉とそっくりですね。「立憲民主党はよちよち歩きです。だから、あなたの力が必要です」といった呼びかけもありました。つまり、参加を重視したポピュリズムになっていきました。

 一方、敵対する対象は何かといえば、「永田町の論理」とか「しがらみ」といった表現がなされていましたが、要するに既存政治の枠組みへの敵対というものを前面に出したわけです。

 このように、立憲民主党や枝野さんは明らかにポピュリズム戦略というものを意識していたと思われます。選挙の結果を見れば、そうした戦略がある程度功を奏したと言えるでしょう。

 とはいえ、ここで忘れてはならないのは、選挙の結果には、やはり共産党や社民党、自由党の判断と現場の支援が大きく影響していたことです。つまり、民進党の解体という危機的状況に際し、混乱のなかから現れた立憲民主党を支えることで「左派リベラルブロック」を維持していこうということですね。

 さらにいえば、諸野党がそうした判断をするに至った背景には、間違いなく2015年の安保法制反対運動を契機とする市民運動の力が存在していたと思います。遡れば、それ以前にも沖縄では「オール沖縄」、大阪では都構想に反対する「オール大阪」などの経験がありました。そうした経験を踏まえ、安保法制反対運動の中でシールズやママの会などをはじめとする市民の運動が立ち上がってくるわけですね。

 先ほど、イデオロギーの多様化の中で人々をどうまとめ上げるかという話をしましたが、シールズは、まさにいろいろな考えを持つ人々が集える空間を作るために行われた取り組みです。価値観や関心は違っていても、何かしら「安保法制はおかしい」とか「安倍政権まずいよね」と思っている人たちが集まれる場を意識的に作ろうとした。

 立憲民主党のポピュリズム戦略を最も根底で支えた、あるいは生み出したのは、こうした市民の声であり運動だったと思います。この点は、一番強調したいところです。

 言い換えれば、大阪維新のポピュリズムは、橋下さんが個人で打ち出して「この指とまれ」でやってきたこと、つまり上からのポピュリズムであるのに対して、立憲民主党のポピュリズムは民衆によって作られた下からのポピュリズムと言えるでしょう。

 ただし、立憲民主党の今後の課題となるのは、「立憲民主党はあなたです」という言葉をどれだけ実現し、継続できるかという非常に難しい問題です。先ほどアイスランド海賊党の例を出しましたが、一般市民の参加の下で党の政策をつくっていくという目標は、実際のところ必ずしもうまくいているわけではありません。むしろ参加率がどんどん減っていくなど困難を抱えています。

 そうした困難を立憲民主党はどう乗り越えていくのか。いま新たな試みをいくつかやっているようですが、試行錯誤を繰り返していくしかないのかもしれません。

 いずれにせよ、ラディカル民主主義の観点から言えば、どれだけ市民の参加を実現できるのか、民衆の発意に根ざした政治をどれだけ実現できるのかが重要なポイントだと思います。

ポピュリズムの壁を乗り越える
ラディカル民主主義


 はじめに、ラディカル民主主義は非常に幅広い概念であり、その一つの実践としてポピュリズムがあると言いました。さらに、ポピュリズムはリベラル・デモクラシーの機能不全を告発したり、人民のより直接的な政治参加を目指す点でラディカル民主主義に接近することにも触れました。

 ただし、それは非常に刹那的、つまり一時的・瞬間的なものであり、立憲民主党の今後の課題で触れたように、人々の直接的な政治参加をどれだけ実現できるか、持続できるかがカギとなります。

 たとえば、ある時に引かれた「かれら/われわれ」という敵対性の境界線は、またある時には別の形で引き直されるかもしれません。つまり、敵対性の境界線はその都度、不断に引き直される可能性があります。その意味で、長い政治の過程から見れば、ポピュリズムは刹那的で不完全なものなんです。

 立憲民主党は当初はポピュリズムだったと言えますが、いまは必ずしもそう言えないでしょう。それに比べて、大阪維新はずっとポピュリズムでした。というのも、橋下さんが敵対性の境界線を常に更新し、絶えず敵を設定し続けることでポピュリズム状態を継続させたからです。しかし、それは危うい戦略であり、いつか終わりがきます。

 冒頭で触れた山本圭さんはポピュリズムについて、こう指摘しています。

 ポピュリズムは異質な政治的アイデンティティを持つ者のみならず、これまで政治的なアイデンティティをもたず、政治闘争の外にあった異質な者たち、いわゆる「不審者」に対して「揺さぶり」をかけることで、支配的なヘゲモニーに抗する民主主義的連帯の可能性を生み出しうる、と。

 「不審者」とは、大ざっぱに言うと「無関心層」です。とくに政治に興味を持っているわけではないが、「何かおかしい」と漠然とした不満を持っているような人々です。通常の政治言語で呼びかけても届かない、そうした人たちに対して揺さぶりをかけるのがポピュリズムだというわけです。たとえば「安保法制っておかしいよね」「いまの自民党ってやばいよね」といった形で、「かれら/われわれ」という敵対性の境界線を投げかけることで、これまで政治の枠外にいた人たちが政治の枠内に入ってくる。山本さんは、そうした「動員戦略」としてポピュリズムは有効なのではないかと指摘しています。

 たしかに、それはポピュリズムの可能性かもしれません。ラクラウやムフが、それまで否定的に捉えられていたポピュリズムを左派の戦略として捉え直したのも、ポピュリズムには多様なイデオロギーや考え方を持った人たちに揺さぶりをかけて政治的な構想の場に引き出す力があると考えたからです。

 それはその通りだと思います。しかし、では動員された後はどうなるのか、という問題が残ります。この点でも、ポピュリズムの刹那性に関わる問題と同じように、人々の直接的な政治参加がどこまで実現されるか、その参加状態がどれだけ持続されるか、という問いを免れることはできません。

 以上を踏まえて、「民主主義の危機」にどう立ち向かうか、考えてみたいと思います。ポピュリズムが刹那性を免れないという限界をどう超えるのか。ポピュリズムの「その後」を考える上でも、やはりラディカル民主主義は有効性を持つと思います。

 ポピュリズムはラディカル民主主義の射程の範囲内であっても、すべてではありません。ラディカル民主主義は、「人びとの生活に根差した」政治のなかで「デモクラシーをより徹底化」する実践的な理論へといまだ発展しつづける途上にあります。この「人びとの生活に根差した」ところで、「デモクラシーをより徹底化」するという点が重要だと思います。その実践は多様であり、今後もさまざまな試みが生まれてくるでしょう。

 つまり、ラディカル民主主義は常に民衆の中から生起してきます。それは試行錯誤の過程であり、必ずしもうまくいくわけではありません。しかし、それでも一人ひとりがデモクラシーを真摯に求め続ける必要があるのではないか。そう強調するのがラディカル民主主義です。ラディカル民主主義は、社会や政治を変えていく力は常に民衆の側にあるとする民主主義理論です。つまり、誰かが変えてくれるわけではない、社会や政治をより民主的なものにしていくのは民衆一人一人の不断の努力である、ということです。その意味で、「民主主義の危機」に立ち向かう際に有力な立脚点になるのではないかと思います。

議会と社会運動

 
【質問】ポデモス、シリザ、アイスランド海賊党、いずれも政党として活動していますが、もともとは社会運動だったと記憶しています。ただ、政党と社会運動は活動スタイルや考え方、目標などの点で必ずしも一致しない部分もあると思います。政党と社会運動との関係について、どうお考えですか。

会場
  ■当日の模様
 【塩田】政党はリベラル・デモクラシーの制度内(議会内)の政治であり、社会運動は制度外(議会外)の政治です。社会運動にとって、リベラル・デモクラシーの制度は必ずしも必要ではありません。むしろ熟議や直接行動を重視するなど、政党や議会の枠に収まりきらない政治手法を持っています。そのため、制度内の政治と制度外の政治は時に対立し、制度内政治の論理をどこまで許容するのか、あくまで制度外政治の論理にこだわるのか、といった点で分裂する可能性もあります。実際、ポデモスもシリザも内部分裂を経験し、アイスランド海賊党も初期のメンバーが離脱しています。

 ドイツの緑の党も社会運動から政党に移行する過程で、議会外に軸足を置くのか、議会内の議員が中心になるのかという点で完全に二つに分かれました。こうした例でも分かるように、政党と社会運動との対立は常に発生するし、それを乗り越える必要性もありますが、とはいえ解決の手がかりとなる理論的な処方箋があるわけではありません。実践の中で経験を積み重ね、折り合いをつけていくしかないと思います。

 
【質問】リベラル・デモクラシーが最近になって限界を露呈したというより、そもそも限界を含んでいたと思います。議会内に影響力を与えるための戦略としてポピュリズムを位置づけ直す意味は小さくないでしょうが、それ以上に議会外での動きを拡大していくことが重要だと思います。

 
【塩田】議会内の政治が成立するためにも、議会外の運動は絶対に必要だと思います。もちろん、制度を司っているのは議会内の政治なので、社会を具体的に変えようとする際に議会外の政治だけで十分だとは言えません。ただし、議会内の政治が現実に持つ規定力を重視しながらも、実は議会内の政治を動かす原動力は議会外にある点を強調したい、というのが僕の立場です。

 たとえば、2011 年秋にアメリカで「ウォール街を占拠せよ(Occupy Wall Street)」という運動がありました。これも議会外に政治の空間を作り出そうとする取り組みでしたが、そうした運動に支えられてバーニー・サンダースが出てきたわけです。立憲民主党の場合も、よく似た構図があったと思います。つまり、常に議会外から政治が始まっている点は重要なところで、議会内の政治のあり方について問い直すことができるのも議会外の視点があればこそでしょう。

 
【質問】私は市議会議員として議会内にいますが、社会運動に軸足を置いて議員活動をしているつもりです。生活の現場や労働の現場が立脚点で、そこでの声を議会に届けるのが自分の役割だと考えています。

 その上で、先ほど「空虚なシニフィアン」ということで『パレードへようこそ』の「サッチャーを追い出せ!」という合い言葉を紹介されました。日本の場合、「アベ政治を許さない!」というスローガンで幅広い勢力の共闘が可能になり、一定の成果を上げましたが、アベ政治を倒すまでには至っていません。

 そう考えると、そこから先の言葉を持たなければならないと思っています。とくに、格差や貧困が拡大する社会情勢の中で、なかなか政治に関心を持つ余裕もない人たちに届く言葉を獲得しないといけないと思っています。

 
【塩田】2015 年に安保法制に対する反対運動があれだけ広がりを持ち、盛り上がったのはなぜかと考えると、やはり多くの人々の中に安保法制は「おかしい」「危ない」という感覚が浸透したからだと思います。そして、それだけ浸透したのは、安保法制の問題が「戦争はいけない」とか「平和が大切」といった常識レベル(コモンセンス)のところで論議になったからではないでしょうか。

 僕も「アベ政治を許さない!」には共感しますが、一方で、知り合いに「いまの首相は誰だと思う?」と訊いてみると「小泉?」と返ってきたりします。でも、その同じ人が「戦争はいけない」と言う。常識レベル(コモンセンス)に落とし込めるかどうか、運動としては重要なところだと思います。

ポピュリズムの意義と限界

 
【質問】紹介された欧州のポピュリズムの例では、民衆の熱狂的な政治参加が生まれて選挙の投票率も高かった印象があります。しかし、日本では、そうした熱狂はないように思います。この前、豊中市でトリプル選挙があり、大阪維新が強さを見せましたが、投票率そのものは30%台に過ぎない。同じポピュリズムといっても、そうした違いはどこからくるんでしょうか。

 
【塩田】たしかに、欧州諸国の選挙は日本に比べて投票率が高い傾向があると思います。しかし、投票率が高い結果としてポピュリズムが生まれるわけではありません。動員戦略としてのポピュリズムの有効性について紹介しましたが、むしろポピュリズムの結果として投票率が上がるのだと思います。だから、いま投票率が低いというのは、大阪維新がポピュリズム政治をできていないことの証左であると同時に、だからといって将来的にポピュリズムが生まれないとは限りません。

 もちろん、投票率が低いこと自体は、それとして考えるべき問題だと思いますが。

 
【質問】同じ維新でも、橋下が代表だった時代と現在では質的に別物ではないでしょうか。いまの維新は自民党の二番煎じのような状況です。大阪を中心に地盤は築いているので、地方議会ではある程度の議席はとれますが、かつてのように維新の看板を掛ければ誰でも通る時代ではなくなっています。その意味で、ポピュリズムが「刹那的」だというのはその通りだと思います。

 政治をする側からすれば、いままで関係のない人まで含めて一挙に巻き込んでいくセンスは必要なことで、その点は学んでいくべきでしょうが、一方で、私たちの日常と政治との関わりが見えにくくなり、政治の必要性が感じられなくなっている面も強いと思います。その意味では、政治そのものの機能不全という気もします。

 
【塩田】たとえば欧州の場合、金融危機という大きなショックがあり、既存の政治勢力がそれに有効に対処できないという支配秩序の危機があったように、ポピュリズムが生まれるには、それなりの条件必要です。もちろん、ポピュリズムを象徴する人物や基盤となる社会運動が存在するか否かもあります。常に起こるわけでも、起こそうと思ってできるものでもない。その意味でもポピュリズムには限界があると思います。

 そうなると、基本的には日常的に下から積み上げていくしかないということでしょう。僕も選挙運動に関わった経験がありますが、やはり日常的に地域に密着できている人は、ポピュリズムがなくても残りますね。

「オレに任せておけ!」ではなく

 
【質問】リベラル・デモクラシーの機能不全の背景として、新自由主義の台頭に伴う格差の拡大によって政治的権利への自由なアクセスを可能にする社会的平等が掘り崩されたり、市場原理主義の介入によって政党の凝集力が低下していったりした状況があるとのことでした。しかし、単純に考えて、格差が拡大し貧富の分岐が明確になれば、連帯を可能にするアイデンティティも明確にし易くなるし、双方の利害に立脚する政党の凝集力も、むしろ高まると思うんですが。

 
【塩田】重要なのはアイデンティティの中身だと思います。僕たちが生きていく上で何からの集団への所属は不可欠ですが、そうした所属と政治的アイデンティティが重なるとは限りません。高校時代の友人と話すと、給料が低いと嘆きつつ、原因は「会社が悪いからだ」と言います。政治の問題にならず、身近な所属先である会社の問題になってしまう。つまり、所属に基づくアイデンティティによっては政治的なアイデンティティが生み出されなくなっている状態です。だからこそ、政治的なアイデンティティをどう生み出していくのか、非常に重要な問題になるんですね。

 先ほど「動員戦略としてのポピュリズム」といいましたが、それは政治的アイデンティティを与えるという意味です。ゲイの人が抑圧され、炭鉱労働者が弾圧されている。それ自体は個別的なものですが、そこに「サッチャーが悪いんだ」と挟むことで政治的アイデンティティが生まれます。例に挙げた友人との話でも、労働法制とか雇用政策などを媒介に「会社だけでなく政治が悪いんだ」ということになれば、政治的アイデンティティが芽生えるわけですね。本来は政党がそうした役割をすべきなのに役割を果たしていない、民衆の方向を向いていないということだと思います。かなり単純化しましたが、基本的にはそういうことだと思います。

 
【質問】ポピュリズムの中にも「大阪維新・橋下:右派ポピュリズム」と「立憲民主党・枝野:左派ポピュリズム」があるというお話でしたが、前者が「オレに任せておけ」という形で人々を巻き込むとすれば、後者は「あなたは何をしますか」という形で人々を巻き込むものですね。ラディカル民主主義の観点からすれば、後者こそ望ましいものだと思いますが、しかし一般的には「オレに任せておけ」と言われて従う方がハードルも低いし、あえて自分の言葉を探すよりカリスマ的なデマゴーグに求心力を強く感じてしまいがちなのも理解できる面があります。だとすれば、いかにして前者の方向に行かず、後者の方向で人々を組織するかという点が重要だと思います。

 
【塩田】やはり「オレに任せておけ」と言われると期待してしまう面は否めないと思います。それ自体はやはり閉塞感や政治的な失望の反映でしょうから、否定すべきものでもないと思います。ただ、そこからどう主体化させていくか、一緒にやりましょうというふうになるかどうか。これは、やはり呼びかけを続けるしかないんじゃないかと思います。実践としてさまざまな形で呼びかけ続けるということでしょう。

 橋下さんと枝野さんは、人々に呼びかけるという点でやっていることは同じです。ただ、その内容や呼びかけ方が違います。一般にポピュリズムというと強いリーダーがイメージされますが、それだけではラディカル民主主義になりません。民衆の発意つまり下から生まれたものではないからです。民衆の主体性を重視するラディカル民主主義からすれば、一緒にやろうと呼びかけ続けるしかありません。デモにはいけなくてもビラ配りならできる、マイクで話すのは難しくてもスタンディングならできるとか、多様な参加の形態を用意することも重要です。

 いずれにせよ、先ほどのように、政治的アイデンティティが見出しにくいなかで、「これも実は政治の問題なんだ」という働きかけを行うこと、常識レベル(コモンセンス)に落とし込んで伝えることが重要ではないでしょうか。試行錯誤しながらあきらめずに継続していく、ラディカル民主主義にはそうしたポジティブさが備わっていると思います。



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