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市民環境研究所から

年若い友人を送りつつ考える



 極寒が続く年明けとなり、日本海側は大雪に見舞われている。千数百台の車両が2、3日も立ち往生している。雪国育ちの筆者にとっては、2尺や3尺の雪は何度も経験した風景であり、1尺くらいの積雪の方が心を落ち着かせてくれる。こんなことを独り言のように口ずさんだら、隣にいた人から、何が落ち着くのか、と叱られた。それもそのはず、彼は福井県大野市の出身で、滋賀県の積雪量の比ではない地域である。ごめんと言って笑い合った記憶が甦ってきた。

 そんな雪の話題が全国ニュースで流れた日に、悲しい知らせが送られてきた。この半年は知り合いの訃報が続き、いずれもが筆者よりも若い人たちであるのが心を萎ませる。最初は、「戦争をさせない左京1000人委員会」の主要なメンバーで、「左京フォーラム」講演会を17回も開催した仲間の一人の星野建士さんの訃報である。

 1970年代から反公害住民闘争を支援する雑誌「月刊地域闘争」の発行に尽力されたロシナンテ社の代表だった。フクシマの被災者、避難者支援も続けてこられ、また、彼が東京の知人に依頼して集めてくれる家庭内ホコリの放射能を私が測定していた。京都の我が家のホコリの百倍も高い放射能が計測され、フクシマ原発崩壊の影響は東北から関東一円であることを証明できた。こんな地道な活動を生涯を通して続けてきた星野さんは筆者より少し若いだけで、同世代であるから、自分の身にも人生の終わりが迫っていることを実感し、お別れをした。

 その1ケ月ほど後に、「農を変えたい!全国運動関西地域ネットワーク」や「有機農業の日運動」の事務局長をされ、原発崩壊後の福島を筆者と一緒に自動車で廻ったこともある本野一郎さんが9月に黄泉の国へと旅立たれた。享年70才。その直後に、京大で学生生活を過ごし、東京で働いていた女性から「父が他界しました」との一報が送られてきた。1970年代に琵琶湖総合開発計画を批判する琵琶湖汚染総合調査団のメンバーだった友澤さんの悲報である。享年68歳であった。筆者よりも頑丈な身体だった彼がと絶句して黙とうした。

 それからも悲報がいくつかあったが、みんな年下の人たちである。つらい師走だと思いながらも、省農薬ミカンの収穫販売に精を出し、あとは年明けの数十箱の出荷だけになったと安堵していた12月29日に信じられない電話がかかってきた。故仲田芳樹さんの息子で、会社を定年前に退職して、省農薬ミカン栽培に情熱を燃やし、この5年間をがんばって来られた仲田尚志さん(2017年11月発行の本欄に登場)が亡くなった、と。12月27日に今年度の収穫と出荷作業を終えた翌日の深夜のできごとであり、61才の悲しい別れであった。

 この他にも年下の人の死に遭遇してきた身には、なぜこんなことが起こるのだろうと考えずにはいられない。長らく農薬による環境汚染や中毒問題などに関わってきた身には、そんな側面から考えてみたくなる。わが国の農薬使用量を見ると、1960年までは20万トン以下であったが、その後は急増し、1975年に72万トンにもなった。それ以降は減少し、現在は18万トンほどである。反農薬運動が盛んになったから、このように激減したのならうれしいが、そうではない。1980年代以降は、水稲栽培の減反政策が進み、農業、農村の崩壊が始まり、農薬を使う対象が少なくなったからである。60年代、70年代は毒性の強い農薬が中心だったが、80年代になると急性毒性の強いものは減少した。

 こんな農薬散布と農薬毒性の中でわれわれは生きてきたのである。1940年生まれの筆者は、農薬の少ない時代に成長期を終えていたが、その次の世代の成長期は農薬多用期のまっただ中で、多くの悪影響を受けて育ち、その悪影響が死を早めているのではないかと思っている。

 極めて非科学的な推測だと批判や非難が投げつけられることは致し方ないが、そんな視点からの調査考察が必要だと思えるほどの年下の死である。わが国では、農薬による健康被害に関する大規模調査はまったく実施されてこなかった。国が厳密な登録制度の下で許可したものだけが使われているのだから、被害がでることはないという暴論で押さえ込まれてきた。それを思えば筆者の推測も許されるのではないだろうか、と思いを巡らす冬の夜である。

                       (石田紀郎:市民環境研究所)



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