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市民環境研究所から

「省農薬ミカン」追求の40年
     自主ゼミ200人の仲間とともに


 長年取組んでいる和歌山の省農薬ミカン園でも収穫が始まったが、雨天が多く、作業は遅れ気味である。毎年のように、この季節には本欄にミカンの話を書かせてもらっているので、またミカン話かと叱られそうであるが、今年も書かせていただきます。

 我が国での農薬使用量は戦後一貫して増加し、1975年にピークとなり、その後は減少している。日本の農業が農薬を使わなくなったのではなく、栽培面積が少なくなっただけである。水稲の減反政策がその代表で、ミカンにも減反政策が適用され、1本の木を伐採すれば3000円が供された。農薬による環境汚染や健康被害の問題も一時よりは緩和されたかもしれないが、本質的には農薬を省く農業を追い求めねばならない状況は変わりがない。

 1967年に、和歌山のミカン農家の高校生が農薬中毒死した事件の民事裁判に関係し、その裁判支援の中で、農薬を可能な限り省くことを目ざして「省農薬ミカン園」が誕生した。1ヘクタール・1000本のミカン園の栽培は仲田芳樹さんというミカン農家の仕事で、病害虫発生や収量などの調査は筆者らが立ち上げた京大自主ゼミの「農薬ゼミ」の仕事として、省農薬栽培法を模索してきた。

 活動開始は1978年で、今年の春頃にミカン山調査を40年も続けて来たと気づいた。農薬中毒で亡くなった松本悟さんを偲んで名付けた「悟の家」で40周年記念同窓会をやろうと思い立ち、土日連休に収穫をかねての来園を農薬ゼミOBに呼びかけた。

 40年とはこれほど長い年月なのかと気が付いたのは、ゼミ立ち上げメンバーのひとりが公務員になり、すでに定年となっていたことからである。もちろん筆者はとっくに定年になり、安倍首相がいう国難を引き起こしている高齢者である。そんな長い年月の間、学生メンバーが途切れることなくつながり、金曜日の夜にはゼミを開催してきた。基本テーマを「農薬は可能な限り省くべき存在であり、省き方は作目、風土、農業技術によって異なる」と考え、省農薬栽培と名付けての実践と研究活動であった。

 今年もたわわに実ったミカンは7月の少雨が影響して小ぶりであるが、文句無しに美味い。学者は科学的調査をすればよいのであって、栽培が成り立つかどうかは農家の仕事だとするのが普通の研究者だが、それでは農薬を省くことは実現しない。農家とともに苦難を共有し、科学の在り様を考え、販売までも関与しなければと、調査・販売までを農薬ゼミの活動と決めてきた。

 販売することで、消費者が求めるミカンの品質品性についても考えられる。春は剪定作業の手伝いから5月のミカン花見、7月と10月の病害虫調査、11月の収穫と12月の販売で1年が終わる。多くの人材も育ち、研究成果も充実している。ミカンの大害虫であるヤノネカイガラムシの大発生を天敵蜂の導入定着でほぼ鎮圧できた。

 筆者が京大を定年退職したのは2003年で、普通なら京大生とは縁が切れるのだが、このゼミの学生とともに、雑魚寝をしながらミカン山と付き合っているのだから、教師冥利に尽きる。この10年は数ミリのカイガラムシを見つけるのは老眼には苦しいので、調査には参加せず、後方支援だけである。メンバーの中には、筆者が調査する姿を見たことがない者も多く、もしかすると“石田は省農薬園の病害虫のことを知っているのだろうか”と訝しく思われているかも知れない。

 今の大学では、欠席することなく教室に座り、先生の言うことをノートに書き写し、その単語を一生懸命に覚えるのが良い子とされる教育体制で育ち、質問され、答えが見つからないと、「習ってません、教えてもらってません」と返事することを恥ずかしいとも思っていないようである。そんな中で、省農薬栽培という、分からない地平を一緒に追い求めてきたゼミの仲間は200人を越えている。彼らはこの園での経験を生かし、安全な環境を確保し、安全な作物を育て、安定的に供給ができる農業を求め続けているだろう。ミカンを収穫しながらの同窓会に今夜から出かける。

                                                 (石田紀郎:市民環境研究所)



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