HOME過去号>155号  

福島現地訪問・交流 報告(下)

絶望の中から「希望」へ
      ― 浪江町・希望の牧場

 かなり間があいてしまったが、去る7月29日と30日の二日間にわたり、北摂反戦民主政治連盟(北民連)の福島訪問ツアーに参加した際の模様について紹介する。今回は浪江町の模様である。


希望の牧場・ふくしま

 飯舘村から県道12号線で東へ進んで南相馬市へ、さらに震災後につくられた常磐自動車道で南へ15分ほど走ると双葉郡浪江町に至る。飯舘村と同じく、浪江町も今年3月31日に避難指示が解除された。とはいえ、解除された面積は町の約2割に過ぎない(人口では約8割を占める)。原発事故で発生した放射性物質が町の大半を覆うように飛散したためだ。

 福島第一原発事故の発生当時、およそ2万1000人だった浪江町の人口は、6年を超える全町避難を経て1万8000人ほどへ減少、うち避難指示解除で7月末までに帰還したのは、わずか286人だという。

 そんな浪江町の一角、避難指示の解除された区域の北西端、帰還困難区域との境界上に「希望の農場・ふくしま」はある。福島第一原発からは直線距離で14キロ。かろうじて帰還困難区域を免れた格好だ。代表の吉沢正巳さんは国による避難勧告と家畜全頭殺処分に抗い、これまで農場で牛を飼い続けてきた。

浪江町
 ■浪江町と希望の牧場の位置関係
 希望の牧場は、かつて和牛の繁殖肥育を行うエム牧場の浪江農場として和牛を飼育しており、吉沢さんは農場長として働いていた。2011年3月11日、ホームセンターで買い物中に大地震に遭遇する。戻った農場も被災しており、自家発電装置で牛の世話に追われた。そんな中、カーナビのテレビで福島第一原発の異常を知り、12日に起きた4号機の水素爆発も肉眼で目撃したという。

 もともと浪江町は畜産が盛んな土地柄で、福島第一原発から20キロ圏内には、事故前に約300軒の和牛農家があり、3500頭の牛が飼われていたという。吉沢さん自身300頭以上の牛を飼育していた。

 ところが、原発事故から一ヶ月以上経った4月22日、唐突に警戒区域に指定される。住民は緊急避難を命じられ、多くの農家が牛を残したまま避難を余儀なくされた結果、1500頭が餓死したという。

 しかし、吉沢さんは本社の社長とも相談の上、殺処分に同意せず、牛舎から放して放牧し、餌を運んで飼い続けた。後にはエム牧場から独立し、現在は吉沢さんとボランティア、さらに全国からのカンパによって運営する「希望の牧場・ふくしま」となった。

 行政からは殺処分を迫られ、苦渋の思いで殺処分を受け入れた農家からは非難を受ける。それに抗して飼い続けても生計は立たない。

 「この牛たちは育てても出荷できません。それなのに飼い続けるのは馬鹿げたことかもしれない。でも、この牛たちは原発事故の生き証人なんです。」

 吉沢さんは、そう語る。たしかに牛は家畜・経済動物であり、人間による飼育や消費が前提とされている。しかし、生き物である限り、本来は自然の寿命に即して生きるべきでもあろう。そうした命が、別の命を生かす役割すら発揮することなく、無為に途絶されていいものなのか。

 一方、記憶の忘却は抗いがたく、また日増しに速くなる。人間の都合で放射能被曝を強いられた牛たちの記憶も、その姿がなくってしまえば、想起するのは容易ではない。まして、当事者でなければ、簡単に「なかったこと」にしてしまいかねない。

 現に「除染完了」を理由にした帰還の促進や自主避難者に対する無視という形で、人間に対してすら、強いられた被害の記憶を消し去ろうとする圧力が強まっている。吉沢さんの言う「原発事故の生き証人」という言葉の意味も、こうした文脈で受け取る必要があるように思う。

 実際、吉沢さんは牛を飼い続ける一方、これまで何度となく経産省や国会、首相官邸や東電本社などを訪れては、原発事故による被害の実態や原発反対の意思を伝え、全国の原発立地をめぐって再稼働反対を訴えてもきた。こうした行動が求心力となって、全国から見学者やボランティアが訪れ、寄付金や飼料など現物カンパが寄せられており、それによって希望の牧場は辛くも運営を継続しているという。

 「街頭でのマイク演説は、いつも真剣勝負です。“ここで事故が起きれば福島のようになるんだ。わかってくれ”って念じながらしゃべってます。オレの言葉で通行人の首根っこをひっつかまえる、そんな気持ちです。“マイク一本で闘うんだ”ってね。」

 実は、福島には吉沢さんのほかにも、殺処分に反対して家畜の飼育を続ける農家が存在する。この10月末に公開された映画『被ばく牛と生きる』(松原保監督)には、吉沢さんをはじめとする複数の農家の姿が描かれている。


絶望の中の「希望」

 さて、避難指示が解除されて4ヶ月、浪江町はどう変わったか。また今後どうなっていくのか。吉沢さんの見方は厳しい。
牛たち
 ■のびのびと餌を食べる牛たち

 「避難指示が解除されて、役場の前に『おかえりなさい浪江町』と書いた看板が立ってます。でも、もとの町には戻れません。だからオレは牧場の入り口に『除染・解除してもサヨナラ浪江町』と書いたんです。姉からは怒られました。でも現実なんです。」

 吉沢さんによれば、避難指示が解除されて以降、戻ってきた住民はもとの人口の2%ほどだという。もちろん高齢者ばかりで、若者や子供はいない。昨年9月に行われた町民へのアンケートでも、「将来の意向」として「戻らないと決めている」との回答が52.6%、「まだ判断がつかない」28.2%、「すぐに・いずれ戻りたいと考えている」17.5%となっており、「戻る意向」を詳しく見ると「家族全体で」が3割、「家族の一部」が4割に上った。

 放射能汚染に対する懸念はもちろんだが、仕事や商店、病院、学校などを含め生活環境に関する不安が大きいという。

 「農業も米、野菜、果物みんな無理。林業も山に入ること自体できない。唯一できるのは花卉栽培。でもそれだけでは食えない。畜産もダメ。浪江には請戸という大きな漁港があった。津波被害からの復旧工事が進んで船も1/4くらい戻ったけれども、請戸で揚がった魚を誰が買いますか。

 震災前には日立化成、日本ブレーキ、エスエス製薬の大きな工場があったけれども、戻ってくる見通しはないようです。

 結局、“働く場所はない、人口は減る”となれば財政も成り立たなくなる。双葉郡全体が同じようなもんです。このままでは浪江町は双葉町や大熊町と合併することになると思ってます。」

 吉沢さんにとって、こうした浪江町は絶望の町にほかならない。しかし、絶望を直視しない限り、希望も生まれないという。

 「福島は東京のために電気を送った“電力供給植民地”でした。その結果がこれだ。除染したって帰れない。それこそ棄民です。でもオレは『原発をやめる時代』に向かって、牛飼いとして、牛たちの寿命が尽きるまで世話を続けます。」

 生き続ける牛たち、それを支える吉沢さん、その姿に共感する全国の人々。希望はここにあるのだ。

吉沢正巳さん
 ■吉沢正巳さん

「復興」の陰で気づかないこと

 その後、吉沢さんを囲んで懇親会をするため、牧場から南相馬市に向かった。浪江町には未だ飲み食いできる店がないという。

 車窓から見える光景は、飯舘村と同じくフレコンバッグの小山と耕作放棄地の連続。時おり目にする人家は雑草で覆われ、空き巣を防ぐためか、入り口は金属柵で封鎖されている。雑草がなくなったかと思うと、撤去の跡も生々しい更地が現れる。

 6年以上放置した家屋は傷みや野生動物による被害が激しく、解体が必要なものも多い。また避難指示の解除によって、戻るか否かにかかわらず固定資産税の問題が発生する。現在は公費で解体できるため、解体申込は2000件を超えるという。

 行き交う車もまばらで、人の姿を見ることはない。しみじみと寂しく、地域が失われたことを実感した。

 ところが、そんな浪江町から車で30分弱。到着した南相馬市は伝統の夏祭り「相馬野馬追」の真っ最中、街中が老若男女で賑わいを見せていた。

 この違いは何なのか。ここだけ訪れた場合、浪江町や飯舘村のような状況を想像することなど不可能だろう。そう思うと戦慄すら覚える。

 懇親会が終わり、南相馬市から宿泊先の三春町へ向かうべく、レンタカーのカーナビを設定した。ところが、何度やってもいわき市経由の大回りな高速ルートしか出ない。後に判明したが、実は事故を起こした第一原発を中心に、海沿いの「浜通り」から阿武隈山地を越えた「中通り」への一般道は、放射能汚染のため、どこかしら寸断されていたのだった(ちなみに、通過した高速道路上に設置された線量計を見ると、第一原発付近で最高2.9μsv/hもあった)。

 巷では「復興」と言いつつ、自分としては疑いのまなざしを向けてきたつもりだった。しかし、原発事故から6年以上が過ぎたにも関わらず、これほどの広範囲で通行できないなどとは思ってもみなかった。まさに不明を恥じるとともに、改めて原発事故の影響の深刻さを思い知らされた。

 マスメディアでは伝えられないような現実の姿を含め、今後も福島を注視していきたいと思う。

                                                 (山口 協:研究所代表)

 ※なお、9月20日になって浪江町と川俣町をつなぐ国道114号線の通行が再開された。




©2002-2017 地域・アソシエーション研究所 All rights reserved.