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福島現地訪問・交流 報告(中)

避難指示解除を迎えた飯舘村



 前回に引き続き、去る7月29日と30日の二日間にわたり、北摂反戦民主政治連盟(北民連)の福島訪問ツアーに便乗して、飯舘村、浪江町などを訪れた際の模様について紹介したい。紙幅の都合から、今回は飯舘村を中心とする。



飯舘村、悲劇の6年


 飯舘村を訪れたのは今回で2回目。前回は4年前の2013年で、隣接する伊達市の仮設住宅に避難中の元酪農家・長谷川健一さんに案内していただいた(本誌114号、2013年8月)。同じく今回も長谷川さんにお骨折りいただき、訪問4ヶ月前の3月31日、6年にわたる村民への避難指示が解除されたことを中心にお話をうかがった。

避難区域
 ■飯舘村の位置

 長谷川さんのお話の前に、飯舘村の状況について簡単に触れておこう。飯舘村は福島県の東北部、阿武隈高原の一角に位置する。全体が標高500mほどの高原で、面積のおよそ75%が森林地帯だ。農業や畜産など第一次産業を軸に、農山村の伝統的な暮らしを積極的に打ち出す村づくりを推進してきた。「心をこめて」「つつましく」などを意味する地元の言葉「までい」は、そうした村づくりの姿勢をを示すキャッチフレーズだ。

 東京電力福島第1原発からの距離は30~45km。そのため、2011年3月の原発事故当初、村人の誰もが、自分たちの身に放射能汚染が降りかかるとは思いもしなかった。しかし、3月14日~15日にかけて吹き荒れた北西の風が大量の放射性物質を村へ運び、しかも折からの降雪が村全域に放射能汚染を定着させてしまった。当時、村役場近くでの空間線量は毎時44.7μSv(公称)にまで達したという。

 にもかかわらず、飯舘村が「計画的避難区域」(※)に指定されるのは、およそ一ヶ月後、全村の避難が完了したのは6月下旬のことだった。その背景には、放射性物質の放出量や方向を掴んでいたにもかかわらず、政府が自治体に公表しなかったこと、また村当局が住民の避難を回避すべく、高線量を把握しながら公表を渋ったことなどがあるという。

 さらに、村当局はその間、いわゆる御用学者を招いて放射能汚染の危険性を否定する講演会を催す一方、危険性を訴える学者・ジャーナリストの調査結果には一切耳を貸さなかった。

 こうした村長や村当局の姿勢について、長谷川さんは、村の形式的な存続にこだわり、住民の健康を犠牲にしてしまった、と批判する。長谷川さんは、こうした事態の異常さを明らかにし、飯舘村住民の健康と人権が守られるよう、国の内外を問わず、自らの経験を訴えてきた。

 (※)放射線量が年間積算20mSvに達するおそれがあり、一ヶ月以内を目安として住民全員の避難が指示される区域。


帰ってきた村人は6%

 福島空港に到着した後、レンタカーで飯舘村を目指す。西隣の川俣町まで、車窓から見える光景は青々とした稲穂が目に爽やかな水田が続く。しかし、県道12号線で峠を越え、飯舘村に入ったとたん、水田は耕作放棄地(とはいえ、草刈りはされている)へと変わり、さらに高さ4~5メートルほどの人工的な小山が目に飛び込んでくる。「除染」で出た残土や草木などを詰めた「フレコンバッグ」を積み重ねたものだ。ところどころ人家は見えるが、人の気配はない。

道の駅
 ■新設される道の駅
 そんな風景の中、突然ひまわり畑が現れる。道を挟んで向いには施設が建設中だ。看板には「いいたて村の道の駅までい館」と記され、「8月12日オープン」とある。一般に道の駅と言えば、農産物など地域の特産品が品揃えの主軸となるはずだ。オープンしたとして、いったい何を並べるのだろうか。その後も県道沿いには真新しい公共施設がいくつか現れたが、一方で民家や商店は打ち捨てられた状態のものも多い。開店していたのはコンビニ一軒のみ。ただ、除染関連の車両でにぎわっていた前回に比べても、交通量は多いように感じる。

 長谷川さんのお宅は飯舘村20行政区の一つ「前田区」にある。原発事故前、長谷川さんは自宅に隣接する畜舎で乳牛を飼い、酪農を主な生業としていたが、避難指示とともに家畜の処分を強いられ、泣く泣く手放さざるを得なくなった。前回訪れたときには空になった牛舎が索漠とした雰囲気を漂わせていたが、今回すでに牛舎は解体され、更地となっていた。避難指示の解除に合わせたもので、解体費は行政が負担するという。

 いかにも農家らしい重厚な母屋で、この間の状況についてお聞きした。

 長谷川さんによれば、避難指示が解除されて以降、帰ってきた村人は人口の約6%にあたる340人、世帯数では150世帯ほど。ただし、ほとんどは高齢者だ。長谷川さん自身、未だ住所は仮設に置き、週のうち半分ほど自宅に戻る状態だという。国・県・村は“除染によって帰還可能になった”と言うものの、子どもを抱える村民からすれば、安心して帰ることのできる状況ではないのだ。

 「現在のところ村民の動きは落ち着いている。もともと早く戻りたい人もいたし、そういう人たちが避難指示の解除とともに戻って、後は様子見という状況だろう。一方で、仮設住宅からはポツポツ人がいなくなっている。福島市や伊達市に家を買って住むからだ。そちらの方が数は多い。

 現状で戻っても生活が成り立たないことは誰もが分かっている。戻ってきてどうやって収入を得るのか。どうしようもない。こういう現状を分かってもらう必要がある。原発事故が起きるとどうなるのかってことを。」


“箱モノ”づくりばかりが進んでいく

 ところが、そんな中、村では“建設ラッシュ”が進んでいるという。

 「事故前の村の予算は一般会計で45億ほどだった。それが今年度の当初予算は202億。ほとんどが国からのお金。それでえらいことになっている。これで道の駅なんかを作っている。これからどうなるか。高齢者しか戻らない。子どもは戻らない。そういう中で箱モノができていく。そのあとどうするのか、オレは“第二の夕張になるぞ”と言っているんだ。」

 われわれが道中で見た道の駅や公共施設のほか、箱モノの一つは学校である。村は、現存する飯舘中学校を改築し、幼稚園から中学校までの一貫校にするとブチ上げ、すでに工事が始まっているという。費用は20数億かかる見通しらしい。

 だが、今年4月の小学校の新入生は村全体で2人にすぎない。全学年の生徒数を見ても、今年3月当初の段階では村全体で105人(事故前に比べて6分の1ほど)だったのが、4月に入ると51人に減少した。というのも、避難指示の解除によって、村民でありながら避難を継続する選択肢が困難になったからである。実際、長谷川さんの子どもたちは伊達市や福島市に住民票を移し、孫たちも居住地の学校へと転校した。来年度になれば、避難先の仮設で運営されている村の学校は閉鎖され、新たな一貫校へと集約される。おそらく、さらに人数は減るだろう。
長谷川健一さん
 ■長谷川健一さん

 また、新設一貫校の周辺には野球場や陸上競技場などの運動公園があるが、村では予算およそ40億円をかけて、それらを改築したり、新たに全天候型のテニスコートを設置する予定だという。現状ではどう考えても十分な利用者が見込めないにもかかわらず、そうした箱モノを誘因として村民の帰還を促す戦略なのだろう。

 しかし、いまなら国の復興予算を建設費用に充当できるとはいえ、それも無限ではない。通常の財政規模から見て、作ってしまった多くの箱モノを維持していけるのか、大いに疑問である。まして、税収を見込める働き盛りの年齢層ほど帰還を見合わせ、村の主軸の一つである第一次産業の復興が見通しにくい中では、なおさらだろう。

 「すべての面で国の言いなりになって予算を獲得し、箱モノを作って『復興してます』っていうわけだ。でも、『復興してます』とアピールすればするほど、国からの予算も絞られていく。結局、子どもたちも帰れない状態のまま、『終わったよ』と蓋をされるんだろう。見え見えだ。」


村民の中でも分断が進む

 とにかく住民の帰還を急ぐ村当局の姿勢には、批判も少なくない。昨年10月に行われた村長選挙では、これまで無投票で5選を重ねてきた現職に初めて対抗馬が現れた。結果的には現職が当選したものの、現職2123票に対して対立候補は1542票まで追い上げた。長谷川さんによれば、対立候補は共産党の元村議で、共産党アレルギーの強い地元では異例の事態だという。言い換えれば、それだけ現職への批判が渦巻いていたのである。

 「対立候補は『避難指示解除の白紙撤回』を全面に出しちゃった。出すべきじゃなかった。もう6年も避難してるんだから、いい加減戻りたいのが人情。みんなもう疲れ切っている。この上さらに避難を長引かせてはダメだ。だから白紙撤回より、解除後の対応を明確に出した方がよかったんだけどなぁ。時期的にどこかで線を引かなくちゃならないわけだから、線を引いた上で、後はそれぞれの判断で行動する。それについて村がきちんと対応すべきなんだ。」

 かつては同じ酪農家の先輩として、村民参加型の村づくりを推進する村長を尊敬もし、ともに歩んできた長谷川さんだが、原発事故以降はまったく正反対の関係になってしまった。

 「村に対して何言ってもダメだ。なにしろ他人の話を聞かない。去年、『女性自身』が村長に取材したとき、村長はこう言ったんだ。『村民よりも村が大事なんだろうと言われるが、村のことも村民のことも考えるのがリーダーの役目。村民の言うことだけを聞いていたら、前に進まないし、村は寂れていくばかりです』。これじゃあダメだ。国の考える復興に異議を唱え、実態を暴露しているから、オレも徐々に非国民、国賊扱いになりつつある。みんな周囲に配慮して、自分の考えを率直に話すのが難しくなっている。村民の中でも分断が進んでいるな。」


「営農再開」は見通し立たず

 そんな中でも、長谷川さんは模索を続けている。避難指示の解除を前に区長として前田区(戸数56戸)住民にアンケートを採ったところ、「もう農地を管理できない」との回答が6割、「自分のところは自分で管理する」との回答が4割に上ったという。前者は高齢化および村に帰還を予定していないということだろう。いずれにせよ、6割の農地をどうするかという問題が浮上した。

 そこで、長谷川さんは「自分で管理する」と答えた4割の中から5人を募り、6割の農地を管理するグループを作った。車窓から見た“草刈り済みの耕作放棄地”は、そうした維持管理作業の成果である。ただ、いまのところ県から10アールあたり上限3万5000円の補助金は出るものの、それも来年で打ち切られ、それ以降は「営農再開」という段階に切り替わってしまうという。

 「じゃあ、それで何をつくるんだ。ここに。それに、自分の以外の農地まで維持管理しようとする人も間違いなくいなくなるだろう。」

 それを見越して、長谷川さんは蕎麦を作る予定だ。

 「なぜ蕎麦かと言えば、とにかく面積をこなさなくちゃなんないから。だから1から10まで機械化体系の取れるものでなければダメだ。前から栽培していたから、ノウハウも分かっているつもりだ。」

フレコンバッグ
 ■フレコンバッグの山。上からシートがかけてある
 すでに昨年、種取りを兼ねておよそ80アールで蕎麦栽培の実証実験をした。農地を除染するためにプラウで鋤き返したり、放射性物質を吸着させるためにゼオライトや塩化カリウムを入れたりした。しかし、現れたのは厳しい結果だった。

 「収穫して測定したら、1キロあたり26ベクレル検出された。国の基準はキロ100ベクレルだから、ずっと低い数値だけれども、でも北海道産の0ベクレルとオレの26ベクレル、どちらを買うかと言えば、誰でも北海道産を買うのは当たり前。だから、これは風評被害じゃない。オレのが0ベクレルにもかかわらず買ってもらえないなら、それは風評被害。でもそうじゃない。実害だ。」

 そのため、現状では収穫・販売を目的とした営農再開は考えていないとのことだが、それでも20町歩から30町歩ほどの面積で蕎麦を栽培し、撤去した牛舎の後に蕎麦の乾燥調整施設を作ろうと計画しているという。

 「それでメシが食えるとは思っていない。それはオレも分かっている。ただ、このまま農地が荒れていくのを口をくわえて見ているわけには行かねえんだ。村やJAでもいろいろ売り先を探し、業者も来ているが、業者は『福島産は(買い取り価格が)安いから』とはっきり言っている。オレとしては、そん時はそん時。だったら、適正価格との差額を東電に賠償させようと思っている。」


放射能汚染は厳然とある

 いずれにしても、やはり問題は放射能汚染である。

 「役場には職員が戻っているが、みんな避難所から通っている。ウチの娘も役場に勤めているが、いまは伊達市民だ。避難指示の解除で住民票を移した。当たり前だ。これだけ放射能が蔓延しているところで子どもは暮らすべきじゃない。たしかに線量は下がったけど、それは前に比べての話。事故前の線量に戻ったわけじゃない。庭先とか土をどけたところは下がっている。でも、ちょっと離れたのり面に行けば、2~3μSv/時くらいある。だいたい山の除染なんかしないんだから。」

 飯舘村の面積の7割は山林だが、除染されないまま放置される。風雨によって放射性物質が移動する可能性も十分ある。そもそも、国が避難指示を解除する根拠は「年間の追加被曝線量20mSv以下」という基準にある。だが、よく知られているように、福島以外では一般人の被曝限度は年間1mSvとされている。実に約20倍の数値であり、ダブルスタンダードと言うほかない。

 一応、村では独自の限度基準を設け、それに近づけるよう国に要請しているという。しかし、その基準値は「年間追加被曝線量5mSv」。1時間あたりの空間線量率に換算すると0.99μSvだが、病院のレントゲン室など一般公衆の立ち入りや未成年の労働が禁止される放射線管理区域の限度基準は年間5.2mSvである。とても目標にするような基準とは言えない。まして20mSvを帰還の基準にするなど、差別と言う以外の言葉はない。

 「いまオレの周りでガン患者が多い。50代以上が多い。ガンと分かってからはドンドン悪くなっていく。もちろん因果関係は分からない。関係ないのかもしれない。ただ、そうした事態はほとんど表に出されない。むしろ隠されている。

 子どもたちの甲状腺ガンも190人出ている。県や国は因果関係は認められないと言う。でも、予備検査の段階で経過観察が必要と言われるのが2500人もいるわけだから、どうなんだって。

 自分で受けに行けば、村で放射線量の検査はやってくれる。行政の方からはやろうとしない。子どもの場合でも同じ。要するに、そういうものを排除したいんだ。強制的にやって何か数値が出れば、発表しなくちゃならない。それがイヤだから、なるべくやらないようにしている。県の健康管理の検討委員会の中でも、子どもの甲状腺の検査について強制は止めようと言っているくらいだ。」

 先に触れたように、村中には除染の廃棄物を入れたフレコンバックの山が点在している。長谷川さんのお宅の向かいにもある。放射能そのものは目に見えないが、飯舘村では日々の暮らしの中で嫌でも放射能汚染の存在を意識せざるを得ない状況にある。
 「環境省は昨年12月、『除染は全部終わった』と言った
。ところが、ウチの前ではまだフレコンバッグを重ね続けている。国のやることなんて適当だ。信用できない。村中にあるのは『仮仮置き場』という建前になっている。『仮置き場』や中間貯蔵施設を作るには時間がかかるんで『しばらく置かせて下さい』ということで場所を提供した。ところが、そのとたん仮置き場の確保を止めてしまった。それで結局『仮仮置き場』から中間貯蔵施設に運び込むわけだから『仮置き場』と同じことになった。」

 「環境省は、いま汚染土のフレコンバッグが飯舘村に約235万個あると言っている。福島県全体では約2200万個。1割強が飯舘村だ。なぜ飯舘村が多いかというと、農地の剥ぎ取りを表面から5cmやったから。それに対して、今年度に中間貯蔵施設に運び込む予定の数は、福島県全体で50万個という話だ。2200万に対して50万だぞ、終わるまで何年かかるんだ。」


元には戻らない

 避難指示の解除が行われ、村への帰還が迫られる中、未だ踏ん切りのつかない村民がほとんどである。ただし、これまで「精神的賠償」という名目で東電から支払われていた、1人月10万円は来年3月で打ち切りとなる。仮設住宅や借上げ住宅の供与期間も同じ。賠償請求の裁判などがなければ、基本的に一切が終わることになる。それによって、今後の生活に不安を抱えながらも飯舘村に戻らざるを得ない人も出てくるだろう。もちろん、戻ったからといって元の生活が営めるわけではない。

 「オレらは土地とともに山とともに生きてきて、ここに四世代同居していたわけだ。それが全部バラバラなんだからな。元には戻らねえんだから。それをどうしてくれんだ。農地も山も100%元には戻らない。家族もバラバラ。この地区だってバラバラ。放射能はすべてをバラバラにしていく。それが普通の災害と違う恐いところだ。」

 「いま畑でトラクターに乗ってても、何にも考えることがねえ。まず、張りあいがねえな。まったく張りあいがねえ。先が見通せねえんだもん。意欲が湧かねえんだな。だから物事を先送りしちまうんだ。今日これ無理してやんなくても明日あんな。明日になれば、今日はもうやめっかなって。事故前だったら毎日予定を立てて無我夢中でやってたけど、いまはダメ。とにかく気力が湧かない。」
モニタリングポスト
■長谷川さん宅の近くにあるモニタリンングポスト

 当たり前の話だが、同じ村に暮らしていた村民だといっても、家族構成や職業、考え方など千差万別である。避難指示の解除はあくまで形式的な区切りに過ぎず、それによって誰もが同じような選択ができるわけではない。いずれにせよ、何をしても元には戻りようがないのだ。

 しかし、当事者以外からすれば、避難指示の解除は、あたかも誰もが同じように帰還が可能になった、言い換えれば、元の生活に戻ることができるようになった、との錯覚を抱いてしまう。

 おそらく、これこそが国や県の狙いだったのだろう。そう思わざるを得ない、飯舘村の現実だった。

                       (山口 協:当研究所代表)



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