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市民環境研究所から

「琵琶湖は琵琶湖を汚さない」


「市民運動」参加から40年



 これほど暑い夏もめずらしい。せめて湿度が下がってくれと、日没を待ち、深夜を待ち、朝を待つ日々である。年寄りは無理をしてはいけないよ、熱中症にならないように、とテレビも知人も気にしてくれる。それでも我が家では一日もエアコンを稼働させていない。決して自慢しているのではなく、エアコンが好きではないからである。あと数日で9月になるから、それまでの我慢だと思うことにしている。もうひとつ心配なのが、東北地方の低温と曇天である。イネの生育は大丈夫だろうか。イネの大敵である「いもち病」の大発生はないのだろうかと気になる。自然を相手の人間社会であるから、心配も苦労も仕方ないが、自然の許容範囲を読み取る人間社会であれ、と勉強してきたはずである。

 1970年代初頭から、公害現場に通い、研究者として何ができるかを試される日々を過ごしていた。ちょうど琵琶湖総合開発計画が始まり、琵琶湖の貯水能力を高めて、年間を通じて工業都市大阪へ安定的に水を供給する諸工事が始められた時代である。そのひとつに琵琶湖南湖の大津に人工島を建設する計画が持ち上がった。南湖の水質や生態系に及ぼす影響調査を大津市から依頼され、琵琶湖総合汚染調査団を結成し、1年余の調査報告書を発表したのが1975年であった。

 そして1977年5月、琵琶湖に予想もしなかった赤潮が発生した。我々の報告書にも、悲しいかな、赤潮発生の予想すらなかった。琵琶湖の周囲に生活し、朝に夕に四季を通じて湖面を眺めている滋賀の人々も、この大きな湖は清濁合わせて受け入れ、何とかしてくれる存在だと信じて疑わなかったのである。それだからこそ、赤潮大発生は住民を驚愕させた。「富栄養化」なんていう聞き慣れない言葉が日常会話の中に入り込み、湖水の富栄養化を高めるリンを含む合成洗剤を追放しようという運動が婦人層を中心に始まり、「合成洗剤から石けんへ」の大きなうねりは琵琶湖富栄養化防止条例を制定させた。

 今年は、それから40年目になる。記念行事「琵琶湖発、未来のセンタク」が浜大津で開催され、参加した。40年も経ったのかと感慨ぶかく、琵琶湖周辺の公害現場を歩き、石けん運動にも参加し、そこで知り合った仲間にも再会できた。筆者にとって、赤潮と合成洗剤追放運動は、それまで加わっていなかった市民運動への参加の契機となった。公害の被害者運動は理解できたが、市民運動とは何をするものかが分からず、参加を躊躇していた。滋賀の動きに触発されて、琵琶湖の水で生きている京都でも「合成洗剤追放・いのちの水を守る運動」が活発化し、いろんな経緯のあと、筆者も「市民運動」なるものの一員となって行った。

 それは、琵琶湖調査の中で、赤潮を予見できなかったが、琵琶湖の環境悪化の現実と対策を考える中で、研究者と生活者としてどのような動きをしたらよいのかと悩んでいた時に、こんな言葉がでてきたからだ。「琵琶湖は琵琶湖を汚さない」。実に当たり前のことで、琵琶湖周辺の社会が汚染の源であり、鈴鹿の山から湖岸までの人間活動総体を点検修正しなければ、琵琶湖の汚れは治らないと納得した。そこで、社会全体の在り様を考える市民運動に参加できそうだと思い、活動してきた。それが40年も前のことだったのかと、思い出させてくれた。
                                                    (石田紀郎:市民環境研究所)



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