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講演学習会 南部アフリカ・ジンバブエの農と社会



   ジンバブエで農民の協同組織を創りたい
       ランガリライ・ムチェトゥさんの話


 この春、アフリカ・ジンバブエからの留学生ランガリライ・ムチェトゥさんが能勢農場で2週間ほど研修された。農場のメンバーともうち解けて交流したものの、まとまって話を聞く機会は持てなかった。日本で「ジンバブエ」と聞いても、なかなかイメージが湧かないことも事実だ。そこで去る7月8日(土)、指導教員である峯陽一さん(同志社大学大学院教授)とともにお越しいただき、ジンバブエの社会と農業についてお話をうかがう催しを実施した。以下は、その紹介である。


はじめに

 1987年、ジンバブエのマショナランド・ウェストのチノイに生まれたランガリライ・ムチェトゥさん(以下、ランガさん)は、現在、同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科博士課程に在学中。日本に留学したのは去年の4月、師匠にあたる故サム・モヨさん(ジンバブエ、アフリカ農業研究所所長)からの影響だという。モヨさんは数年前、京都大学の松田素二さん(アフリカ地域研究)とともに能勢農場を訪れ、好印象を持ったらしい。そんなこともあって、今回ランガさんも能勢農場を訪れ、さらに研修をすることになった。


ジンバブエという国

 ランガさんのお話は、ジンバブエの国旗に関する説明から始まった。

 「ジンバブエの国旗には四つの色が使われており、それぞれの色には意味が込められています。緑は環境と農業を、黄色は産出する鉱物資源を、赤は植民地からの解放闘争で流れた黒人たちの血を、そして黒は人口の多数を占める黒人を示しています。また、左にある白い三角形は平和を、中に書かれた鳥はジンバブエの歴史を、赤い星はジンバブエの基本方針である社会主義を、それぞれ表したものです。」

 ジンバブエは13世紀~14世紀に「グレート・ジンバブエ」と呼ばれる王国が繁栄するなど、古くから独自の文化が形成されていた。しかし、19世紀以降、ヨーロッパ諸国による植民地争奪の標的とされ、19世紀後半にはイギリス南アフリカ会社の管理下に置かれてしまう。第一次世界大戦後にはイギリスの植民地「南ローデシア」とされた。

 1960年代以降、アフリカ各地で民族解放を求める闘争が湧き起こり、ジンバブエでも黒人のゲリラ闘争が行われる。これを受け、宗主国イギリスからも、限定的に黒人の権利に配慮した形での独立が提案された。ところが、白人の農園主を中心とした植民地政府はこれを拒否。1965年にイギリスからの独立を宣言し、人種差別支配を強化した。

 しかし、黒人の抵抗闘争はさらに激化、周辺諸国の独立や国際的な経済制裁などの圧力も加わり、最終的には1979年、ゲリラとの間で協定締結に至る。結局、いったんイギリス領に戻った上で1980年、ジンバブエ共和国として完全独立を果たした。

ジンバブエの位置
■ジンバブエの位置

 「“ジンバブエ”という言葉はショナ語で“石の家”を意味します。石造建築遺跡で有名なグレート・ジンバブエに由来する名称です。南部アフリカに位置する内陸国で、面積は約39万平方キロで、日本とほぼ同じ広さがあります。一方、人口はおよそ1450万人なので、日本の10分の1くらい。民族構成としては、ショナ人が8割くらい、ンデベレ人が2割くらい、さらに白人が少々となっています。主要な言葉はショナ語、ンデベレ語、英語。イギリスの植民地から独立したのは1980年で、アフリカの国々の中では比較的新しい方です。大統領はロバート・ムガベという人ですが、“93歳の現役大統領”ということで世界的にも有名です。」

 続いてランガさんは、首都ハラレの情景、日本の桜に相当する国民的な花「ジャカランダ」、世界遺産にもなっている「グレート・ジンバブエ遺跡」、ナイアガラ、イグアスと並ぶ世界三大瀑布の一つビクトリア滝、また外国人の思い描く「アフリカ」のイメージどおりのライオン、アフリカ象、バッファロー、チーター、サイといった野生動物、さらに白トウモロコシの粉を湯で練り上げた主食「サザ」をはじめとする食べ物などを紹介した。


ジンバブエの経済

 「残念ながら、この20年、ジンバブエ経済はあまり思わしくありません。ここ数年の経済成長率は2014年が3.8%、2015年が1.5%、2016年が0.6%となっています(世界銀行、2017年のデータ)。以前はマイナス成長の時もありました。

 理由はいろいろありますが、一つには国内での経済需要つまり内需の弱さが挙げられます。また、巨額の政府債務も政策の足を縛っています。さらに流動性危機、つまり国内でお金の流通がうまくいっておらず、お金が不足しています。

 加えて、ジンバブエでは農業が主要産業ですが、ここ数年、干ばつが発生するなど、天候不順で打撃を受けています。インフラが整備されていないことも農産物流通に影響を及ぼしています。

 ところで、世界の多くの国では農村から都会に人が流出し、農村が過疎化する現象が生じています。しかし、最近のジンバブエでは逆に、経済全般がうまくいっていないため、都会で食えなくなった人たちが、農村に行って土地がもらえれば何とか食っていけるということで、都市から農村への人口流出が起こっています。

 実際、産業別人口で見ると、国民全体のうち農業で雇用されている人の割合は65.8%、工業が9.1%、サービス業が25%となっています。つまり、3分の2が農業人口なんです。

 一方で、GDPに占める産業別の割合はと言えば、農業は12.5%、工業28.5%、サービス59.8%と、非常に低いです(※)。ただし、ジンバブエの農業は自家消費、自給的な部分がかなり多く、市場化されていないため、統計の数字には表れないという点も見ておく必要があります。」

 ※ちなみに日本では、GDPに占める農業の割合は1%~1.5%とされる。



土地所有の歴史

 ここから、ランガさんは農業について話を進める。農業と言えば第一に重要なのは土地である。ジンバブエの土地問題は歴史的に見れば、ジンバブエ人の土地がイギリス人に奪われ、それを再びジンバブエ人が取り戻すという歴史だという。

 「19世紀後半、ジンバブエ南西部にあったンデベレ王国のローベングラという王様が、同地域への進出を企てていた諸外国との間で、金銭や武器と引き換えに一部の地域の鉱山採掘権を与える条約を結びます。これがすべての始まりです。
ランガさん(左)と峯さん(右)
  ■ランガさん(左)と峯さん(右)

 実際には詐欺のような取り引きでしたが、これを契機に一部の土地はイギリスに売られたり、さらにオランダなどに転売されたりしました。外国同士がジンバブエの土地をめぐって紛争することもあったそうです(後の1891年に結ばれた「リッパート協定(Lippert Treaty)」では、オランダの移民に鉱業資源採掘用地が、イギリスの移民に農業用地が割り当てられることになります)。

 こうした外国人による土地収奪の元締めに当たるのが、イギリスの政治家・植民地主義者セシル・ローズ(1853年~1902年)です。最終的に、ジンバブエの土地は丸ごとローズの手に渡ってしまい、1890年には中心都市のソールズベリー(現在の首都ハラレ)にイギリス国旗ユニオンジャックが翻りました。」

 ジンバブエの植民地時代の呼称「ローデシア」とは、なんと「ローズの家」を意味する。もちろん、ジンバブエの人々は唯々諾々と植民地支配を受け入れたわけではない。

 「その後、1893年~1897年にイギリスの植民地支配に反旗を翻す、ショナ人とンデベレ人による武装蜂起が発生します。これは「第一次チムレンガ(Chimurenga)」と呼ばれます。しかし、これらのジンバブエ人が用いる槍や弓といった武器では銃器を用いるイギリス勢にはかなわず、蜂起は鎮圧されてしまいます。

 セシル・ローズはジンバブエを支配するため、イギリス南アフリカ会社を設立しました。その下でさまざまな法律が作られました。たとえば1898年のThe Native Reserves Order in Council Actは、ジンバブエ人の土地を収奪した結果として、新たにジンバブエ人の居住区域(Native Reserve)を104カ所設定し、そこへ移住させるという内容でした。

 つまり、農業に適した肥沃な土地はイギリス人が独占し、もともとそこに暮らしていた人々を、農地としては条件の不利な土地に強制移住させたわけです。その後、1930年には「土地配分法(Land Apportionment Act)」ができますが、これは、それまでの人種による居住区域の隔離をさらに徹底したものでした。

 あるいは、もともとジンバブエは牧畜が盛んで、牛の頭数が富の象徴とされていましたが、飼養頭数を制限し、一定頭数以上は没収するというような法律も作られました。

 こうした法律が作られるたびに、ショナ人もンデベレ人も抵抗闘争に立ち上がりました。そうした抵抗闘争は最終的に、1980年まで続く「第二次チムレンガ」に至ります。その結果、ジンバブエは1980年に独立を勝ち取りました。」

 吉國恒雄『燃えるジンバブウェ』(晃洋書房、2008年)によると、南ローデシアは同じ白人支配の南アフリカと比べても、白人の人口比率がきわめて低かったという。1960年代、白人は総人口の6%(22万人)しかおらず、それが400万人近い黒人を支配していた。

 しかし、そんな一握りの白人入植者が約6000カ所の大農場を通じて国土の40%に相当する1550万ヘクタールを保有し、圧倒的多数のジンバブエの人たちは農業に適さない土地に押し込まれていたわけだ。



土地を取り戻す闘い

 こうした植民地支配に基づく歪んだ構造は後々まで影響し、2000年になっても人口の1%もない白人が国土の4割もの土地を保有していたという。土地改革が焦点化せざるを得ない所以だろう。

 「1980年、独立にあたってジンバブエとイギリスは「ランカスターハウス制憲協定(The Lancaster House Agreement)」を結びます。その中では土地問題が大きな位置を占めていました。ただし、その内容を大まかに言えば、イギリスはジンバブエに無条件で土地を返還するのではなく、ジンバブエ人が買い戻すという形で返還するものでした。

 それを受けてジンバブエ政府がどうしたかと言うと、財政的に厳しいため、まずはアメリカやイギリス、西ドイツから援助を引き出し、それを財源にしてイギリス人から土地を買い戻すという手法を採ったのです。そのため、土地の取り戻しは緩慢かつ段階的にしか進みませんでした。

 あまりに緩慢なので、政府は1992年、イギリス人の土地を強制的に接収が可能な土地収用法(The Land Acquisition Act)を制定しました。しかし、土地の所有権そのものは法律で認められているので白人側が裁判に訴え、裁判が長引いたり、土地の取り戻しができない場合も少なくありませんでした。

 こうした中、1980年の独立まで「第二次チムレンガ」を闘った元ゲリラ戦士を中心に、土地の返還があまりに遅いことに痺れを切らした人々が1998年から、立ち退かないイギリス人の土地を占拠し奪還する闘争を始めました。

 この闘いについて、諸外国では日本を含めて、ムガベ政権が上から始めたものとする見方が主流ですが、事実はそうではありません。この闘いは、田舎へ帰って農業に従事していた元ゲリラ戦士たちによる下からの立ち上がりによるものです。むしろ政府は、こうした闘いを追認した、あるいはそれに乗っかったというのが実態です。

 ともあれ、その結果として2000年、土地改革「ファスト・トラック」政策(The Fast Tract Land Reform Program)が施行されました。



表1 土地再配分(1980~2010年):獲得と割り当て
段階 時期 獲得した農地 受益者
農地数 総面積 (ha) 割合(%) 人数 割合(%) 平均面積(ha)
段階 1 1980-1997 1,651 3,498,444 22.9 71,000 28.7 49.3
初期段階 1990-1997 (-) 168,264 1.1 4,697 1.9 35.8
土地改革 ファスト・トラック 1999-2009
A1(※) 2,564 5,759,153 37.7 145,775 59.1 39.5
A2(※) 2,295 3,509,437 23 228,962 9.3 153.3
未割当・非公示 517 757,578 5
私的な譲渡 1980-2009 1,069 676,325 4.4 1,069 0.4 632.7
非公示計 (-) 1,409 912,147 6 (-) 0.6 647.4
土地総計 15,281,348 100 245,347 100

(※)ファスト・トラックで新たに生まれた農家のうち、およそ6ha以下の小規模農家はA1、それ以上の大規模農家はA2と呼ばれる。出典:ランガさんの資料を訳したもの


 上の表1は、1980年から現在まで、どのようにして土地がジンバブエ人の元に戻ってきたのか示したものです。結論だけ言えば、15万ヘクタールの土地がジンバブエ人の元に戻り、24万5000人の農民が土地を手にすることができたわけです。

 さらに言えば、取り戻した土地の60%は1998年からの土地占拠闘争を経て、「ファスト・トラック」で確定した土地であることが分かります。」

 たしかに、当時は日本でも「ムガベ独裁政権による血も涙もない所業」といった報道を少なからず目にした記憶がある。実態を聞くことで、そうした報道の一面性を思い知らされた。また、改めて歴史を振り返ってみると、もちろん戦後の農地改革もそうだが、北海道の歴史など、実は日本にとってまったく他人事ではないと気がつく。



ジンバブエ農業の現状

 ランガさんは続いて、現在のジンバブエの農業について話を進めた。

 「現在のジンバブエの農民については、大きくは四つの種類に分けられます。一番多いのは自給的で小規模な家族農業。それから、家族農業ですが、自家消費だけでなく、栽培した作物を市場で販売もする農家。さらに、家族農業とは異なる中規模の商業的農業。そして大規模なプランテーションおよび産業的な農業。次頁の表2と表3に詳しく記していますのでご覧下さい。



表2 場所、産出と生産の構造
営農類型別の 生産と土地使用 家族農業 商業的農業 プランテーション および産業的農業
臨時 自給に近い 市場出荷
場所 都市周辺および旧黒人居住区 旧黒人居住区、A1および小規模なA2 旧黒人居住区、A1および小規模なA2 中規模および大規模なA2、その他の大規模農場 南西部、西部高原、飛び地
作物構成 園芸作物、家禽、トウモロコシ・豆類、タバコも少々 雑穀、落花生、乾燥豆類、トウモロコシ、綿花、タバコ、家畜や家禽も少々 雑穀、落花生、乾燥豆類、トウモロコシ、綿花、タバコ、家畜や家禽も少々 トウモロコシ、タバコ、サトウキビ、契約栽培の茶、特殊な家畜、牛乳、家禽、種子生産、園芸作物 牛肉、サトウキビ、茶、種子、 産業的な特産品
土地利用 旧黒人居住区でなく都市周辺で農家軒数と面積が拡大 旧黒人居住区や分配された土地で自らの土地を利用するために闘争 農家軒数と土地利用いずれも拡大 土地利用を拡大するために闘争 拡大
出典:ランガさんの資料を訳したもの


表3 新たな農業構造と生産物の関係
営農類型 雇用労働への依存 収入源 資金源 販売
自給に近い小規模農家(150万世帯) 臨時雇用 農業収入、送金、労賃 自己資金、小口金融 自分で販売、契約販売も
市場出荷する小規模農家(40万世帯) 2人以上の常時雇用と臨時雇用 農業収入、労賃 自己資金、商業金融 自分で販売、契約販売、農民団体による販売
小・中規模の商業作物生産農家(3万社) 2人以上の常時雇用と多数の臨時雇用、管理人 農業収入、商売、 就業 商業金融、自己資金 自分で販売(都市で)、契約による輸出
私有・公有プランテーション(50 社) 50人以上の常時雇用と多数の臨時雇用、管理人 農業収入、農業関連産業 株式資本、利潤、借り入れ 垂直統合 (都市および輸出市場)
出典:ランガさんの資料を訳したもの



 いずれにしても、一言で「ジンバブエの農民」と言うことはできません。資本金がどれくらいあるのか、商品作物を作っているか、農業労働者をどれくらい雇っているか、家族だけで営農しているか、等々に応じて多様な形態があることをご理解下さい。

 その上で言うとすれば、ジンバブエでは、一方には圧倒的多数の自給的な農業を行う小規模の家族農家が存在しています。その多くは、植民地時代に黒人居住地として割り当てられた地域(Communal Area)に、伝統的な社会関係の中で暮らしています。主要な作物は、トウモロコシをはじめ日常の食料となるようなものです。

 そして、もう一方では、かつてのイギリス人の大農場があった地帯で営まれる商業作物の巨大なプランテーション農業が存在します。主にタバコやサトウ、小麦など輸出向けの作物を大規模に栽培しています。

 こうした両極に分解する傾向が見てとれると思います。」



研究領域と日本の印象

 では、そうしたジンバブエの状況を踏まえ、ランガさんはどんな領域を研究しようとしているのか。

 「もともと興味を持っていたのは、農業のマーケティングです。農産物市場、農産物の販売に関心を持つ中で、それらと協同組合が深く関係しているということを知り、農民にとって安心できる流通販売の枠組みとしての協同組合について研究を深めたいと思いました。

 実は、ジンバブエでも1980年代から協同組合に関連するような動きがあります。そこで、日本ではJAについて勉強したり、よつ葉の取り組み、あるいは生活クラブ生協と提携関係にある農事組合法人「さんぶ野菜ネットワーク」(千葉県)など、いくつかフィールドワークを行いました。日本で勉強したり見聞したりしたことをジンバブエの状況と比較し、ジンバブエの農民が何をしたらいいか、方向性を見出すことが目標です。」

 とはいえ、日本とアフリカでは、かなり違いが大きいのではないだろうか。

 「最後に、これまで短期間ですが日本に暮らしてみて、ジンバブエとの違いを感じた点について紹介したいと思います。

 まず、ジンバブエでは階級的な分岐がとても見えやすいですが、日本の場合、存在しているものの表面的には見えにくいと思います。

 また、ジンバブエでは出生率が高く乳幼児が多いのに対して、日本ではその逆ですね。ジンバブエでは町でも村でも若者を目にしますが、日本で多いのはお年寄りです。

 あるいは、ジンバブエでは農業はとても重要な経済セクターですが、日本ではあまり重要視されていないようです。ジンバブエでは農家が事業を拡張しようと思っても資金不足が悩みのタネ。でも、日本の農家は農業関連の資金にアクセスする機会が多いようですね。

 さらに、ジンバブエでは自給的な農家が多いため農産品に対する商業的な需要は比較的少ないですが、日本では国内の農産品に対する需要が高いように感じます。

 最後に、ジンバブエは地域や民族で文化が多様ですが、日本の場合はあまり多様性を感じません。もっと長く暮らせば、違った感想になるかもしれませんが……。」



質疑応答

 このあと行われた質疑応答の中から、かいつまんでいくつか紹介する。

 
【問】ジンバブエは社会主義的な体制だと言われましたが、どんな特徴がありますか。

 
【答】政権与党(ジンバブエ・アフリカ民族同盟愛国戦線)の政策が社会主義的かどうかは一旦おくとして、ジンバブエに社会主義的な面があるとすれば、それは“政府がやる”のではなく、“民衆に力を与える、それによって変革していく”というところだと思います。

 土地改革「ファスト・トラック」もそうですが、実際には黒人たちが下から白人の土地を奪還していき、政府はそれを追認する形で振る舞ったわけです。そうした関係のあり方が社会主義的と言えるのではないでしょうか。

首都ハラレ中心部
■首都ハラレ中心部の風景
 政策の面で見れば、社会主義の路線を打ち出しながらも、外部環境の変化などからなかなかそれを貫けず、紆余曲折を経ているのも事実です。たとえば、80年代~90年代にかけて世界銀行・IMF(国際通貨基金)から「構造調整政策」を強いられ、社会主義路線の棚上げを余儀なくされました。しかし、その後、下からの土地奪還の動きが起きるとともに、ジンバブエ全体が社会主義の方向に回帰する動きがありました。ただし、2007年~08年に食糧危機が発生したため、再び脱社会主義的な方向への揺り戻しも経験しています。そうした紆余曲折がありながら、全体としては社会主義的な路線だと思っています。

 
【問】①外国の基地はありますか。②教育システムはどうですか。③土地占拠闘争の時に武器は使われたのでしょうか。社会に武器所有はありますか。

 
【答】①独立後は完全にイギリスから離れたので、ジンバブエに外国の基地はありません。アメリカがアフリカの拠点を求めて打診してきたこともありますが、断っています。

 ②毀誉褒貶の激しいムガベ大統領ですが、間違いなく功績と言えるのは教育の普及。どんな田舎にも小学校はあるし、大学も全国で15校あります。農村人口が圧倒的に多い割には識字率は70%ほどに達しており、アフリカでは高い方だと言えます。ただ、教育は受けられても職がないという問題がありますが。

 ③独立した後、政府はゲリラ戦士を讃えつつ、「闘いの時代は終わった」として政策的に武器の回収を行いました。これは、かなり成功したようです。元ゲリラによる土地占拠闘争も基本的に平和的なものであり、銃器などが関わる事態はほとんどなかったようです。

 (峯さんの補足)ジンバブエに行くというと、周りの人からは「何であんな危ないところへ行くのか?」と言われることが多いです。日本ではあまり報道されませんが、欧米ではジンバブエは北朝鮮と同じような特異な国として扱われています。ところが、実際に行ってみるととても治安がいい。夜中に首都のハラレを歩いても、ほとんど問題ありません。暴力が多発するのは選挙のときで、普段は警官もあまり武器を持っていないそうです。その意味で、独立後のジンバブエは武器の極めて少ない国だと言えます。

 
【問】アフリカと聞いてイメージする飢餓のような事態はありませんか。

 
【答】ジンバブエは日本と比べれば栄養状態は良くないし、とくに農村へ行けば貧困状況は存在します。しかし、世界銀行や世界食糧計画など国際機関の統計は、かなり誇張されていると思います。たとえば、“ジンバブエでは人口の60%が飢餓状態にある”と言われたりします。しかし、その根拠となっているのは市場での売買に基づく商業ベースの食糧流通で、それ以外はカウントされません。つまり、ジンバブエの農村で大きな位置を占める自家消費は見落とされているのです。その結果、市場流通する食糧を人口で割って、“食糧不足、飢餓”と判断されてしまうわけです。

 
【問】能勢農場での研修の感想をお願いします。

 
【答】本当に楽しかったです。家族以外のバックグラウンドの異なる多様な人々が集まって共同で暮らし、農作業をするというのは、ジンバブエでもありません。夢のような空間だと感じました。印象的だったのは「草抜き(畑の除草作業)」です(笑)。

 
【問】ジンバブエの農業と日本の農業、似ているところと異なるところはどこですか。

 
【答】似ていると思ったのは、営農規模です。ジンバブエでは比較的狭い農地を家族で手をかけて耕作するのが基本ですが、日本のコメ農家などを見ると同じような感じがします。

 違うのは、やはり機械化の状況ですね。日本では狭い農地でも機械を使っていますが、ジンバブエの家族農業ではほとんど機械を使いません。その代わり、ジンバブエでは小規模農家でも農業労働者を雇うことが多いです。それは必要に応じた一時的なものもあれば、定期的な雇用の場合もあります。ところが、自分が見た限り、日本では農業で人を雇うことがあまりないように思いました。

 あと、協同組合の役割に関わりますが、ジンバブエでは協同組合も含め農民の組織化が遅れています。それに比べると、日本では、いろいろ問題があるようですが、農協やその他の農民組織が存在している点が違います。

 
【問】協同組合の研究を通じて、最終的に目指しているものは何ですか。

 
【答】まずはジンバブエの農業の中で協同組合を主流にしていきたいと考えています。ただ、ゼロからすべて作り上げるのは困難です。制度を作ったり、資金を提供したり、という点では政府の役割が重要だとも考えています。もちろん、政府が口を出しすぎると、農民の自主的な協同にとっては逆効果でしょう。だから、農民を組織化する最初の段階で必要な環境整備については政府が前に出て枠組みを作りつつ、それを基盤に農民自身の力で農業協同組合を全国的に普及させていく。今のところ考えているのは、そんな方向性です。あなたの質問で、方向性がクリアーになったような気がします。

 【注記】峯さんには通訳をしていただいただけでなく、適時ランガさんのお話に補足を入れていただいたが、煩雑を避けるため、一部を除いて明記していない。当研究所として、ご容赦いただくとともに、あらためてお礼申し上げる次第である。


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