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市民環境研究所から


脱原発社会・避難者救済の確立を


 梅雨入りしたと発表された6月7日にカザフスタンから帰国し、雨の中を帰宅した。しかし、その後は快晴続きの梅雨とは思えない日々で、その内の数日は、荒野沙漠のカザフの空のように、湿気で光が散乱することもなく、どこまでも澄み渡る青空に雲もなく、カザフにいると錯覚する毎日だった。そんな中、25日に市民環境研究所の年次総会を開催し、一息ついている。

 2003年6月に本欄に第1回目を掲載していただいてから14年が過ぎた。筆者は京大を定年退職し、設立したばかりの市民環境研究所というNPO法人で、深刻化する環境問題を市民社会の仲間たちと学習し、議論し、行動し始めた。それを知った本誌の編集者が声をかけてくださり、14年間も駄文に付き合っていただいた。関係者に感謝である。

 当時は、反原発の学習会や集会には参加していたが、自らがそのような集まりを企画することも稀で、主には「水」を中心にした農業と市民社会を考えていた。琵琶湖やアラル海やミカン山が主なフィールドだった。2011年3月11日は、翌朝に琵琶湖市民大学の調査船を出す準備の日だった。

 その後、同年の本誌6月号には、「原発以外の課題も山積であるが、今はそこまで気が回らない状態に人々が置かれている。『ツナミ』と『フクシマ』が心に重くのしかかり、その余のことは、申し訳ないがちょっと待ってという気分」と書いた。

 続く7月号では、こう記した。

 「6月26日、市民環境研究所も共催団体となった『バイバイ原発・京都』のデモを開催することができた。参加者は1000人と、予想より少なかったが、猛暑の中、関西電力京都支店の前を経由しての行進だった。ようやく、京都の市民としてフクシマの被曝者への連帯を表す機会をつくり出せ、遅ればせながらも我々の思いがフクシマに伝わったかと思う。

 主催者からデモ前のリレートークの一番に指名され、次のように述べた。

 私たちは、第二次世界大戦を広島,長崎への原爆投下という、人類史上はじめての惨事を受け敗戦を迎えた。戦後、その惨事を学びながら、私たちは世界の唯一の被爆国として非核三原則を掲げ、おろかな核使用の根絶を目指し、すくなくとも我が国が核の国でないようにと願ってきた。『核兵器を持たず、作らず、持ち込まず』を守ることを国是として『戦後」を創ってきた。『持ち込まず』はアメリカによって破られているにもかかわらず、守られているかのように装いつつ、『持たず、作らず』だけは固く守られていると思ってきた。

 しかし、今回のフクシマ原発崩壊は『原発という核を持ち、作っていたこと』をすべての人に気づかせた。フクシマ原発が地球上に撒き散らした放射能は被爆国として受けたそれよりも大量であり、放出はまだ止んでいない。最早、被爆国にとどまらず自爆国であり、放射能をまき散らした加害国となった。『原子力の平和利用』などというインチキを撲滅することができなかった我々の責任である」と。

 そして今、安倍政権による戦争法の制定を阻止できず、「共謀罪」を成立させ、「放射能はアンダーコントロールである」と大ウソを振りまき、オリンピックへと進むこの国で、私たちはどのような運動で脱原発社会を確立し、放射能に追われた避難者を救済するのかが問われる毎日である。

 福島原発告訴団が提起した運動に呼応して、告訴団・関西として2000名近くの告訴人を集めた。東電の責任を問う告訴は3回の検察審議会の結果、東電元会長ら3人が起訴され、やっと5年後の明日6月30日に第1回公判が開かれる。告訴団は福島原発刑事訴訟支援団に変わった。

 傍聴できるかどうかは分からないが、前夜の明日から東京に出かけることにした。

                                                  (石田紀郎:市民環境研究所)



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