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フィールドワーク
『大阪・生野コリアタウンを歩く』


在日コリアンの歴史と文化・暮らしから
多民族共生について考える


文公輝さん(NPO多民族共生人権教育センター)のお話


在日コリアンの介護福祉について

 最初に私たちがいるこの場所についてですが、ここは老人ホームなどの介護保険事業を行う事業所が運営している建物で、事務所をシェアさせていただいています。

 ここの介護保険事業所の特徴としては、90人ぐらい利用者さんがおられて(デイを入れるともっと多いですが)、8割9割は朝鮮半島につながりをもっている在日コリアンです。もともとの始まりは、在日コリアンは国民年金に入れなかった時代があるので、無年金で生活に困っている、日本の福祉行政ともなかなか接点がなくて放置されている、そういう人たちにできるだけの支援をやっていこうということで、立ち上げたものです。介護保険が始まる前から活動をやっておられたみなさんが、ここで介護保険後は事業としてやっておられるわけです。

 おかげさまで、ふたつのビルがあって、つねにホームは満床の状態です。在日コリアンの方で、ここを選ばれるのは、一つは食事です。ここに入っておられる利用者の方というのはおおむね、在日コリアンの2世の方です。生まれも育ちも日本だけれども、朝鮮半島生まれの自分の父母と一緒に育って、朝鮮半島のそのままの食べものを親がつくって、それを食べて育ってきたわけです。やはり、馴染んだものを食べたいだろうと思います。

 二つめは、差別の問題があると思います。在日コリアンの高齢者の方は、日本風の通称名を使って生活しておられる方が多いのですが、日本の一般的な施設に入ったときにはやはり気をつかうわけです。肩を狭めて、自分のことを隠して、生きていかなければいけない。ここに来れば在日コリアンばかりですので、そういう思いはしなくてもすみます。

 三つめは、言葉の問題です。朝鮮半島から戦前やってきた1世の方や、80年代、90年代に働き盛りで日本にやってきて、ここで年をとって、入ってくる方がおられます。韓国・朝鮮語がネイティブの方が年をとって認知症が出てしまうと、日本語を忘れて朝鮮語しか話せなくなってしまう。そういう高齢者が日本の一般的な施設にはいると、言葉が通じないので、極端に言えば放置されてしまう。もちろん生活の最低限のことはしてくれるでしょうが、それはとても不幸なことです。ここには各フロアに必ず1人や2人は韓国・朝鮮語を話すスタッフがいまし、ニューカマーの韓国人の方で、ここでヘルパーをされている方もいますから、言葉ができなくて放置されるということはありません。

 こういう韓国・朝鮮の方に特化したような介護保険サービスを提供する場所というものが必要だということです。



在日コリアンであるということ

 さて、本題に入ります。ここに来る前に鶴橋駅の周辺にチョゴリの店が密集しているエリアがありました。チョゴリ屋さんというのは私たち在日コリアンが、こういった民族衣装を着る機会をもっているから、こういう店があるのだということをお話ししました。そのひとつの機会が、たとえば高校の卒業式です。

 今から5、6年前にある公立高校を取材させていただきました。300、400人ぐらいの卒業生がいる府立高校でしたが、4、5人の女子がチョゴリを着て、卒業式に出ていました。本名を使って通学していた金さんという女子は、在日なのだとみんな分かっていたはずですが、彼女以外の4、5人いたチョゴリを着た女子は、全員普段は通称名、日本名を使っていました。言葉も日本語ネイティブで、ぱっと見ても、会話をしても分からない、だからこの日にはじめて、彼女たちが在日だと気づいた生徒たちがいたはずです。人生でとても大事な場面である高校の卒業式にチョゴリ着たいと思う気持ちが、いまを生きている在日コリアンの若い人たちのなかにもあるということです。

 私はいま48歳ですが、かつてこんなことがありました。高校時代の友人なのですが、私は高校時代には井上公輝という日本名で通学していましたから、彼は私のことをコリアンだと知らなかったのです。大学生になってから文公輝という本名を名乗るようになったので、大学で再会した友人に文公輝という韓国籍のコリアンだということを言ったのです。しかしその友人は「井上君は日本語しか喋られへんし、日本人と一緒やんか。差別なんかないやんか」と言うわけです。

 彼にしてみたら善意で、「日本人と一緒やんか」という言葉を使ったと思いますが、言われた私に
■文公輝さん
はやはりちょっと違和感が残りました。日本人と一緒でなかったら差別されるのかという気持ちと、自分の中には日本人ではなくて、コリアンとして生きていきたいという気持ちがあるのに、それを無理矢理「日本人と一緒」というふうに言われてしまうと、やはり違うという気持ち。顔も同じ、ふだん着ている服も同じ、喋っている言葉も同じなのだけれども、在日コリアンが、日本生まれの、日本育ちの日本人と同じような民族意識をもっているかというと、そうではないということ。当たり前のことですが、結構気づかれないことです。大事なことだと思います。

コリアタウンと祭祀(チェサ)

 チョゴリのことに話を戻すと、チョゴリ屋さんの店先に小さなチョゴリが飾ってあったのに気づかれたでしょうか。かわいらしい、ちいさなチョゴリで、飾りのように見えたかもしれませんが、赤ん坊に着せるためのものです。どんなときに着せるのかと言うと、例えば誕生100日目のお祝い、ペギルという儀式です。日本ではお食い初めですね。朝鮮半島ではこのペギルという儀式をして、記念写真を撮って、親族が集まってご飯を食べるという風習があり、在日コリアンのなかに残っています。

 高麗市場を歩いたときに、いろいろな食材のお店がありました。餅米のお餅、トックや、鮫の肉、チョグや蒸し豚、こういう食材はふだん食べてももちろんおいしいものですが、かならずこの時、タイミングで食べるということがあります。それは、祭祀という朝鮮半島の儒教の教えに基づく祖先崇拝の儀式の際です。こういう食材をお供えして、それを親族のみんなで食べるのです。祖先崇拝という言葉の響きが、めずらしいかもしれません。日本では先祖供養ですが、儒教の教えでは自分の先祖がすなわち神様になります。神様を崇拝して、一族の今後の繁栄を願ってお祈りをするという儀式です。

 チェサの時は、最初に祝詞を詠みます。そうすることで、ご先祖様が下りてきてくれます。下りてきた神様に、スプーンや箸でお供え物のひとつひとつを食べてもらう。ご先祖様が口をつけた食べものをその後、子孫が食べることで、ご先祖様の福を飲む(飲福)のです。それによって子孫が繁栄するという考え方の儀式です。

 高麗市場のように朝鮮半島の食材を売っている店がかたまっているのはなぜかと言いますと、もちろん観光客の方がキムチを買って帰るということもありますが、在日コリアンの社会に、チェサの文化がまだかなり残っているということです。在日コリアンの家庭がチェサをするために必要なお供え物をこの高麗市場に買いにきますし、生野コリアタウンにも買いに集まってきます。特に、どの在日コリアンの家でもチェサをおこなうお盆やお正月の前にはすごい人だかりになります。コリアタウンがなぜあるのかというと、このチェサという伝統的な宗教儀礼を在日コリアンが、ずっとこの日本で守り続けてきたからでもあります。



なぜこの地にコリアタウンが

 では、次に、生野区鶴橋というこの界隈のことについてです。生野区は13万人くらいの人口で、その中の約18%、5人に1人くらいが韓国籍・朝鮮籍をもっています。その合計が2万3499人。生野区というのは朝鮮半島ルーツの人間がとてもたくさん住んでいる街だということです。ちなみにこの数字は韓国籍・朝鮮籍という国籍を持っている人の数ですから、当然ですが、帰化の手続きをして認められた人は入っていません。そしてまた、在日の親が日本人と結婚してできた子どもも国籍上は日本国民になります。ということで、日本には、国籍上で区別が付く韓国人・朝鮮人以外に、たくさんの韓国・朝鮮にルーツをもつ人たちがいるはずですが、はたしてそれがどれだけの数になるのか、誰も分からないというのが実情です。

 生野区にどうしてコリアタウンができて、多くの韓国籍・朝鮮籍の人々が住むようになったのかということです。大正から昭和にかけて、いくつかの船会社が、大阪と朝鮮半島や済州島間の直通航路をもっていて、朝鮮の人びとは、次から次へと船に乗って、大阪の街にやってきました。大阪は明治維新以降、日本最大の工業都市として、発展していました。たくさんの工場ができて、他府県から多くの労働者が大阪に流入してきます。周辺部の田んぼや畑しかなかったところに、続々と住宅街が開発されていきました。しかし、大阪周辺の住宅街には「朝鮮人おことわり、琉球人おことわり」というような張り紙が至る所に張ってあったのです。

 結局、朝鮮の人たちは河川敷や空き地にバラックを建てて住まざるをえませんでした。そういうのを見て、日本の人たちには、「朝鮮人はあんなところに勝手に家を建てて住んでいる、とんでもない連中だ」という差別が強まる。そういったなかにあって、猪飼野の住宅は比較的入れる家が多かった。なぜかと言うと、今はありませんが、猪飼野の西側に旧平野川が流れていて、ちょっと雨が降るとすぐにあふれて、付近の長屋街を水浸しにすることが多かったのです。居住条件が悪い地域で、家主は入居条件のハードルを下げます。それがこの地域に朝鮮人がたくさん住むようになったひとつの理由です。

 もうひとつの理由は、仕事があったことです。工場労働の仕事が多くて、とりわけゴムやガラス、鉄、メリヤス、染色という、きつくて、汚くて、危険という3Kの現場で、日本の人たちが働きたがらないような現場に、より多くの朝鮮人の労働者が集中していました。この界隈は特にゴム工場が多く、工場労働者として多くの朝鮮人が雇われていました。ただそのことについても、差別の問題を抜きにしては語れません。

 日本の工場の経営者は積極的に朝鮮人を雇いますが、それは給料が安いからです。記録によると、朝鮮人が集中している工業分野で、いずれにおいても日本人と比べて朝鮮人には2割3割安い賃金しか払われていません。日本の工場の経営者はこういう差別的な賃金体系をうまく利用しながら多くの朝鮮人を雇用し続けてきました。

 生野区が朝鮮人の集中した地区になった背景というのは、このような剥き出しの差別の問題と直結しているのです。


猪飼野の朝鮮市場

 このようにして、この界隈に多くの朝鮮の人たちが住むようになってきたおかげで、この生野区は日本で最初に朝鮮半島の文化が定着した場所となりました。それが生野コリアタウンです。当時は猪飼野の朝鮮市場と言われていました。チョゴリや、チョゴリを仕立てるための反物、キムチを漬けるための大量のトウガラシやニンニクなどの屋台が、細い路地の両側に数十軒も並んでいました。大阪だけではなく、近隣の他府県からもやってきて、多いときには1日2万人、少ないときでも1日1万人程度の来客があったという記録があります。多いときというのは、お盆や正月のチェサのために、ここで買い出しをするわけです。

 大阪の街の真ん中にこういう朝鮮半島の文化が花を開いています。他にどんな屋台があったかと言うと、スープにご飯を入れたクッパの屋台、チャリという魚の稚魚をキムチのように辛くあえたお総菜など(キムチはそれぞれの家で漬ける習わしです)、朝鮮半島のごま油をつかった和え物・ナムルに使ったりするもやしの屋台、コムシンという朝鮮の靴など、など。ハングルの看板があり、そこでは朝鮮語が飛び交っていたということが想像できます。女の人たちはもちろんチョゴリを着ていましたが、髪型も朝鮮の伝統的な髪型をしていました。

 また、朝鮮市場には、大きな釜を備えた豚屋さんもありました。そこでは豚のバラ肉やもも肉のブロックが茹であげられて売られていましたが、豚の顔の肉も売られていました。お供え物にもなるめでたい食材で、この時代の朝鮮市場で、一日で4、5頭分の豚の顔が売りに出されて、あっという間になくなったそうです。



豚の頭と多民族共生

 豚の顔というのはにっこり笑って、福がある顔をしています。それがお供え物になるのです。祖先を祭るチェサには豚の顔は使いませんが、例えば、家を新築する時や、新しく事業を始める時などに、豚の顔というのは必ずといっていいほどお供えをします。今日歩いてきた高麗市場の中でも、これがそのまま置いてある店は少ないですが、切り身にされて、ツラミとして売っている店が何軒かありました。豚の顔というのは、日本的な感覚で言うと、食材として違和感があるかもしれませんが、でも豚肉の部分ではツラミがいちばんおいしいと言う人もいます。

 ところがさきほど言ったように、豚の顔というのは、日本の人からしてみるとやはり、ぎょっとするものです。朝鮮市場の時代に働いておられた在日コリアン1世の方にインタビューしたことがありますが、昔は朝鮮市場で豚の顔を売っているのを見て、日本の人は、「朝鮮人は豚の顔を食べている、あいつらはなんて野蛮な連中なんや」と言われて差別されていたと語っておられました。

■鶴橋駅近くの商店街の様子
 私たち多民族共生人権教育センターでは、いろんな民族、人種の人たちがともに生きていく、人権が保障された世の中をめざす活動をしています。在日コリアンについて、例えばこういうことが言われます。昔は差別があったけれども、今はもうみんな焼肉も食べるし、キムチも食べるし、韓国の文化もどんどん受け入れられて、差別は全然なくなってきたと。しかし私は、それでは本当に差別がなくなったことにはならないのではないかと思っています。

 キムチや焼肉などの食べておいしい物、自分たちが受け入れやすい物は、好きだと言って受け入れるけれども、どうしても自分たちには違和感がある物、例えば豚の顔を見て、「そんな物を食べるの? 気持ち悪い」と言う、そういう社会というのは多民族共生ではありません。いかにその文化、習慣というものが、自分たちから見れば異なって、違和感があるものであっても、それはそれとしてきちんと認める、お互いの大切な文化として尊重しあうことができたときに多民族共生の社会というのはできると思います。

 自分たちと異なる文化と出会ったときに、否定的な言葉を使ったり、否定的な態度をとらないように改めていかないと、多民族共生というのは難しいと思います。そういった意味で、今回こういった形で来ていただいて、生に在日の文化に触れあってもらうということは貴重なことだと思っています。


ヘイトスピーチは許せない

 最後に、ヘイトスピーチの話をさせていただきます。今日はヘイトスピーチ解消法ができて1年目になるということを最初にお話ししました。昨年の6月3日に国の法律ができましたが、実を言うとそれに先駆けて、昨年の1月15日に、大阪市がヘイトスピーチ対処条例という条例をつくりました。そしてつい先日、条例に基づいて、インターネット上の動画について大阪市がヘイトスピーチであると認定をして、インターネット業者に対して削除の要請を行い、実際に削除されました。さらに、インターネット上のユーザー名を発表しました。画期的なことですが、その大阪市の条例ができるきっかけとなったのが、生野区鶴橋を襲った2013年2月24日のデモ行進と街頭宣伝の形でおこなわれたヘイトスピーチです。

 そのヘイトデモは、1時間半ぐらいかけて、生野区・鶴橋周辺ををぐるっとまわりました。先ほど言ったように、この周辺というのは5人に1人くらいは韓国・朝鮮籍の人が住んでいますが、日曜日の昼下がりに、自分の家でくつろいでいたら、とんでもない言葉が飛び込んでくるわけです。みなさんとても怖がっていましたし、老人ホームで生活している認知症の高齢者のなかでは自傷行為も起こりました。大変なことが起こったのです。日中部屋の中に一人でいるのが怖くなったと訴えるお年寄りもおられました。この地域の在日コリアンの平穏に暮らすという権利が、たった1回か2回のデモと街頭宣伝で、後戻りできないぐらいに侵害されたのです。

 うちのセンターもそれを見てから、なんとかしなければという思いで取り組みを始めましたが、行政はなかなか取り合ってくれませんでした。やはり日本の人たちにこの問題を分かってもらわないとダメだということで、この地域の自治会や商店会やPTAの方を訪ねて、こういう問題があるということを伝えていきました。商店会のなかのある方を訪問したところ、はじめは「ヘイトスピーチ? なんやそれ」という反応だったのですが、現場のビデオを見せたところ、その人の顔が見る見る険しい顔になっていきました。腹の底から怒っているのが分かるのです。そして訥々と自分の話を語りはじめるのです。

 「自分は70年以上、この街で暮らしてきた。韓国の人はずっとそばにおった。昔は韓国の人とケンカをすることもあった。でも今は仲良く暮らしている。商店会ひとつとっても、韓国の人がいなかったら商店会そのものが成立しない。ここはそんな場所や。それを外からやって来たこいつらが好き勝手言いやがって、許されへん」と。

 その方は地域の連合会長を紹介してくれたり、どんどん渡りをつけてくれて、生野区全体がヘイトスピーチは許さないという発信をすることになっていったのです。ヘイトスピーチというのは在日コリアンの人権が侵害されるという問題なのですが、一方でその会長さんが言われたように、韓国・朝鮮人や日本人が仲良く暮らしてきたこの街を否定する行為です。この街の課題として、ヘイトスピーチをなんとかしなければという声をあげていってくれたからこそ、大阪市は昨年1月に、国の法律に先がけて、ヘイトスピーチに対処するための条例をつくるということにつながったわけです。

 生野区は文化の面でも反差別という面でも、日本全体の中でもいちばん先を行っている街だということを、自慢したいと思います。ぜひともこの生野区という街の良さを感じていただけたらと思います。




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