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フィールドワーク
『大阪・生野コリアタウンを歩く』


在日コリアンの歴史と文化・暮らしから
多民族共生について考える


  『大阪・生野コリアタウンを歩く』フィールドワークを6月3日に開催しました。案内はNPO多民族共生人権教育センンターの文公輝さん。鶴橋駅周辺の高麗市場や生野コリアタウンのあたりを案内していただき、また「コリアタウンで学ぶ多民族共生」についてお話をうかがいました。渡来人の時代からの関わりや、戦前から現在に至る在日の歴史、在日の文化、暮らしに触れることができ、学ぶことの多いフィールドワークになりました。以下、報告します。(研究所事務局)


 フィールドワークを行った6月3日は、ちょうど1年前にヘイトスピーチ解消法が施行された日だ。そのきっかけ、震源地のひとつが集合場所のJR鶴橋駅中央改札口前広場を出てすぐの千日前筋。2013年の2月24日、100名以上のヘイト団体がデモをし、大々的な街頭宣伝を行った。そのようなヘイトスピーチを許さないという3年あまりの取り組みの結果、ようやく1年前に解消法が施行された。そこがフィールドワークの出発点。


焼肉屋が密集したエリア

 JR鶴橋駅のガードをくぐって西側に焼肉屋が密集したエリアがある。その由来は戦後の闇市にさかのぼる。ここは南北にJR、東西に近鉄が走り、両者とも戦前からすでに高架鉄道だった。空襲による延焼から高架鉄道を守るために、周辺にあった建物、店舗や民家などが強制的に取り壊されて、空き地がつくられた。いわゆる「建物疎開」だ。

 敗戦後、このあたりは広大な空き地だったが、物不足、食べもの不足の時代に、やがて大阪でも有数の闇市になっていった。環状線と近鉄が交差して交通の便も良く、特に近鉄線は大阪の郊外から、奈良、三重にも仕入れに行ける。志摩湾まで行って、魚を仕入れることもできる。ということで大阪でも有数の闇市として賑わった。その中に現在の生野コリアタウン(猪飼野)のあたりで暮らしていた朝鮮半島出身の人たちもいた。もちろんいろいろな商いをしただろうが、その中に、ホルモンの串焼きがあった。

 肉や内臓を下処理し、下味をつけて、炭火で炙って食べるというのが、朝鮮半島での昔ながらの肉の食べ方だ。当時の日本人はそのような朝鮮半島の食文化を、差別的な視線から避けて、あまり食べなかったが、闇市からすこしずつ朝鮮のホルモン文化が広がっていった。ここはその始まりの場所。

 屋台の人たちは次第に、焼肉の店をオープンしていったが、ここには80年代の終わりくらいまで、屋台で串焼きのホルモンを売る店が残っていた。しかし公共のスペースだとして立ち退きを要求され、交渉の結果、高架下の空きスペースに移転して営業することになった。今もそこには当時のままの串焼きホルモンの店が残っている。


チョゴリの店が密集したエリア

 再びJRのガードをくぐって東側の商店街に入っていくと、戦後の闇市の時代を彷彿とさせるエリア。闇市の時代の露地や商店の区割りがほぼそのまま残っている。狭い通路に間口の狭い店がひしめいている。

 チョゴリの店「安田商店」、創業1923年という看板。すごく歴史が古い。同じ在日の店でも、駅周辺のキムチ屋とか、食堂の多くは、このあたりが観光地として賑わってきて以降に、観光客を相手に店を始めたのだが、チョゴリの店というのは在日コリアンのためのものだ。在日コリアンが、卒業式、成人式、結婚式などの場面でチョゴリを着る、子どもに着せるという習慣を持っているから、チョゴリの店というのはある。同じように見えるコリアタウンでも、そのように成り立ちが違う。

 このチョゴリの店の安田さんというのは日本風の名前だ。在日コリアンが経営している歴史の古い店であればあるほど、屋号にはこのように日本名、通称名をつけている場合が多い。一方、いわゆるニューカマーと呼ばれる1980年代以降に新しく日本にやってきた韓国の人たちの店は、韓国の故郷の地名や、金さんや李さん、朴さんといった民族名、本名を店の屋号につけているのが多い。


■高麗市場周辺
高麗市場

 近鉄線のガードから南のエリアは、高麗市場と呼ばれ、このあたりでいちばん古いキムチ屋が並んでいる。ここは今から50年程前は、帽子や学生服、日用雑貨の店などだったが、1950年代の終わり頃から少しずつキムチ屋などが出てきて、今のような高麗市場と呼ばれるエリアになった。

 ここから商店街を抜けて、鶴橋本通商店街を南へ、多民族共生人権教育センターの方へ歩く。キムチ屋の他にもいろいろな朝鮮の食材の店がある。魚屋では鮫の肉、赤身と白身。鮫を食べるのは朝鮮の済州島の文化だ。チョグという、朝鮮でよく食べる魚。日本ではイシモチとかグチといわれる魚だが、日本ではあまり出回らない。あるいはキムチと食べると絶品の蒸し豚。それから豚足。スケソウダラを乾燥させた干物。トックという朝鮮半島の小判状の白いお餅。お餅を粉にして蒸し上げたシルトというケーキ、などなど。


疎開道路とつるの橋

 鶴橋本通り商店街の東側を並行して、南北にいわゆる疎開道路が走っている。鶴橋駅前の建物疎開と同じように、焼夷弾による火災の延焼を食い止めるために、建物を全部取り壊して空き地にした。それで今も疎開道路と呼ばれている。この道路をつくった理由がもうひとつある。この道路を北に進むと、今の大阪城公園のあたりに大阪砲兵工廠という大規模な国営の兵器工場が広がっていて、その部品の製造をこのあたりの町工場が下請けとして担っていた。つまり、この疎開道路というのは兵器製造のための物流の動脈でもあったわけだ。

 当時の基準でかなり広い道路だと言えるが、もとはそれだけの規模で家や商店が建っていた。いくら戦争末期のこことはいえ、国の命令ひとつで、自分が生まれ育った家を文句も言えずに取り壊されて、別の場所に移住することを余儀なくされた。戦争というのは個人の人権や財産権など根こそぎにしてしまうということだ。

 さらにもうひとつの理由としては、まさにこの道路をうねうねと蛇行するような形でかつて川が流れていて、氾濫予防のために付け替えの工事が行われ、埋め立てられたということもあっただろう。

■つるの橋の石碑
 1919年頃から川(平野川)の埋め立てが始まり、かつてあった橋を記念する石碑が建てられた。つるの橋と呼ばれ、伝承では日本で最も古い橋だということだ。日本書紀の中に、「仁徳天皇、猪飼野に橋をつくる、このところをつると名付く」という記述がある。その橋を架ける技術を伝えたのは、朝鮮半島の百済という国からやってきた渡来人たちだったと伝えられている。

 猪飼野というのはこの地域のもともとの地名なのだが、なぜこの地が猪を飼う野という地名になったのかと言うと、これも渡来人と関わりがある。渡来人はこの地で豚の畜産を営んでいた。豚を育てて食肉にするという技術も渡来人たちが伝えたわけだ。中国では豚のことを猪という漢字で表すが、猪(豚)を飼う野原、ということで地名がつけられた。

 また、この地は猪甘津とも呼ばれていた。津というのは港。当時、大阪湾はずっと内陸に張り出していて、生野区のあたりまで海がきていた。ここで育てられた豚が、渡来人たちの手によって、甘露煮のように調理をされ、それが宮中に献上されたという故事が伝わっている。そのことから猪甘という地名がつけられた。

 古代から朝鮮半島の人びとと深いつながりがあった場所であるということも、この生野区鶴橋、猪飼野という地域の特徴である。

御幸森神社の石柵

 御幸森神社は猪飼野村に古くからあった神社なのだが、注目すべきなのはこの神社のまわりを囲む石柵だ。三つの時代の石柵を見ることができ、それぞれの時代の改修工事に寄付をした人たちの名前が刻まれている。古い時代の石柵には、朝鮮半島出身らしき者の名前はないが、最も新しい平成18年、今から11年前に、本殿が大阪府の文化財に指定された際の改修工事に寄付をした人たちの名前が刻まれた石柵には、聖光園という焼肉屋やその経営者の西原さんという在日コリアン、他にも安さんとか池さんという在日の名前が民族名で刻まれている。最も古い石柵の時代からすでにこの地域には朝鮮半島出身者が多く住んでいたはずなのだが、地域の一員(氏子)ではなかったということだ。

 ちなみに生野区内にある公立中学校でも、ほんの10年前ぐらいまで、PTA会長には在日コリアンはなれなかった。そういう規則があるわけではないが、暗黙のルールだった。ある時に、どうしてもなり手がなくて、在日の方が手を挙げたことがきっかけとなって、PTAや地域の中で話し合いが進んで、変わっていった。

難波津の歌碑

 御幸森神社にお祀りされているのは仁徳天皇で、この地と仁徳天皇はとてもゆかりが深い。本殿の脇に、地元の人たちの協力によって建てられた難波津の歌碑がある。「難波津にさくやこの花ふゆごもり今ははるべと咲くやこの花」。日本でもっとも古く、有名な和歌として知られている。この歌を詠んだのが、仁徳天皇に招かれて百済からやってきた王仁博士であると言われている。

 仁徳天皇も王仁博士も実在の人物ではなく、古事記や日本書紀を編纂した人たちが、古代の日本においてさまざまな王族や渡来人が果たした役割や出来事をまとめ上げるために作ったというのが、歴史学の常識となっている。そのことを前提にしながら、王仁博士という渡来人が詠んだ歌をこの地域の人たちが伝えていることの意味を考えてみたい。古代の朝鮮半島と日本とのとても友好的で対等であった関係をメッセージとして伝えるために、2009年に石碑を建てたわけだ。

■難波津の歌碑
 この2009年の頃というのは竹島の問題や歴史認識の問題など、日韓関係の冷え込みのために、生野コリアタウンへの客足が途絶えていたときだった。2ヵ月後には京都にある朝鮮第一初級学校をヘイト団体が襲撃するという事件もあった。まさにヘイトスピーチが悪化の一途をたどる時期に、あえてこの石碑を地域の人たちは建てたわけだ。なんとかして当時の悪化する日韓の関係や、在日コリアンと日本人の関係を良い方向に変えていきたいという思いがつまった石碑なのだ。

朝鮮市場

 最初の朝鮮市場があった場所は、生野コリアタウンから南に伸びる細い路地だ。露地の左右に立ち並ぶ長屋に住んでいた在日コリアンたちが自分の家の軒先に屋台を出して、朝鮮半島の食材や日用雑貨品などを売り出した。

 ところがこのエリアは45年の空襲で焼けてしまった。今の生野コリアタウンの方も、当時は9割以上が日本人の経営だったのだが、戦争末期にはみんな疎開で空き店舗になっていた。朝鮮市場の焼け出された人たちは、路地裏の朝鮮市場から表通りに移転した。表通りの商店街は御幸森朝鮮市場と呼ばれてものすごく流行った。ところがその御幸森朝鮮市場も日本が高度経済成長に入ると、次第に客足が途絶えてきた。見切りをつけた人たちは人通りの多い駅前のエリアに移動していった。チョゴリ屋や高麗市場のエリアなど。

 それでも頑張って商売をやっていた人たちが、なんとかして盛り返そうとして、93年に生野コリアタウンと称して、朝鮮風の街作りをしたところ、爆発的に流行るようになった。5、600メートルぐらいの長さの商店街に店が120、130軒あり、うち8割、9割ぐらいが韓国・朝鮮にゆかりのある商品を
コリアタウンの位置
■コリアタウンの位置
売っているし、経営者も在日コリアンであったり、ニューカマーの韓国人であったりする。

平野川

 フィールドワークの最終地点、平野川の橋のうえだ。もともと疎開道路のあたりを流れていた旧平野川が氾濫をたびたび起こすということで、1919年から戦中の中断期を経て50年代のかかりくらいまで大阪市による工事が行われ、この人工の運河に川の流れを付け替えた。この運河が完成してから、地域の生活環境は劇的に改善された。

 とりわけ戦前にはこの運河を掘る作業に朝鮮半島出身の人たちが、土木作業員としてたくさん従事した。大阪市が主体の工事なのだが、大阪市は朝鮮人の労働者をたくさん使うことによって、工事費を安くおさえたということを国に自慢げに報告をした。

 ここに立つと左右の家の雰囲気が分かるが、1階部分がシャッターの家が結構ある。今はほとんど工場としては閉まっているが、30年ぐらい前には、この界隈の家というのはどこを見ても、1階が工場、2階が住居という家ばかりだった。在日の人たちが自分の家を改造して、自分と家族が働いてなんとか生活していた。30年ぐらい前には、いくら日本の学校を出て、どれだけ優秀な人であっても、日本の会社に雇われるということはほぼできなかったのだ。在日コリアンに対する差別の現実というものが、例えばこの街の建物の構造に透けて見えている。

                                                    (下前幸一:研究所事務局)





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