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アソシ研リレーエッセイ

あっさりとした雰囲気に感じる
新たな政治的表現



 前回のリレーエッセイで、本野さんから“場所と表現”というテーマを掘り下げてほしいとの提案があった。しかし、自身の乏しい能力ではこの提案に応えられそうにない。本野さんには申し訳ないが、この件は次回の筆者にお願いしたい。

 さて、話は変わって先日のこと。大阪弁護士会主催の「共謀罪廃案を! 大阪大集会」に参加してきた。この法案がテロやオリンピックや国連の条約のためでもないことは明らかだが、国会の数の論理で押し切られようとしている状況もあって、自分も抗議の声をあげにいくことにした。

 沖縄からは、照屋寛徳衆議院議員や、逮捕され現在保釈中の沖縄平和運動センター議長の山城博治さんが登場し、「沖縄で基地に反対しているものはみんな共謀罪の対象となる」と訴えた。主催者発表で参加者4000人、年齢層は比較的高めだったが、若い世代の参加もあった。

 集会のあと、うつぼ公園から難波までのデモに参加、還暦を過ぎてますます歩くのが億劫になってきた自分も最後まで脱落しないでデモができた。自分らのグループのすぐ後にいたグループが、ドラムをいっぱい並べて鳴らすリズムに合わせて行進していたおかげかもしれない。感謝、感謝である。

 マイクを持ってコールしている若い女性に「どこですか?」と尋ねたら「うちら市民です」という答えだった。彼女のコールに合わせて自分も声を出していこうとしたが、何を言っているのかほとんど聞き取れず適当に自分の創作でコールした。

 横断幕もなくグループに名前もなく、ただひたすら、大きなドラムの音と聞き取りにくいコールが続いていたが、本人たちはあまり気にする風でもなかった。ゴールの小さな公園で、仲間と談笑しているわずかな時間にドラム隊はいつのまにか姿を消していて、何かあっさりした印象だけが残った。でも、いまどきはこんなものかもしれないと自分を納得させて帰路についた。

 昔は、ヘルメットをかぶって大きな横断幕を掲げ自分たちの独自コールに政治的主張を込めるというスタイルが多かったが、その「他との違い」を強調する姿勢は、全体としては先細りになっていったように思う。

 毎月集まって勉強会をしている「農研究会」は、「農」や「人と自然の関わり」について考えることを通して次の社会を構想するという立派な課題がある。自分も先輩たちに倣って「アソシエーション研究所の研究会なのだからちゃんとした位置づけや目的意識みたいなものがないといけない」と考えてきた。しかし、参加している産直センターなどの若い世代は、月に1回「農」をテーマに集まって読書会をすること自体が目的だったりする。「そこで学んだことを現場の仕事に生かせればラッキー!」といった様子である。

 別段悪いことではないと思う。変に気負ったところからはあまりいいものは生まれない。食べものや農業・畜産・加工の事業を通して見えてくる「政治」もある。普段の生活の中のあらゆることに「社会全体との関わり」が、「政治」がある。マスコミ報道やテレビ番組の中でしか「政治」を意識しなかった人たちもいるだろう。しかし、みんな政権の言っていることを鵜呑みにするだけの人ばかりではない。

 自らを特別な存在として他者との違いのみに汲々とするような自己意識からは何も変えられなかった。いま若い世代の中に生まれてきている、あのあっさりとした雰囲気は、次の時代の何かの「萌芽的形態」なのだろうか。いや、こんな風に大げさな表現にすることでしか、自分の頭の中でうまく位置づけられないこと自体がもう終わっている証拠かもしれない。

 どなたか「政治的表現のあり方」というテーマを掘り下げていってもらえると嬉しいのだが……。あれっ! この台詞どっかで聞いたような……?
                                (田中昭彦:関西よつ葉連絡会事務局)



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