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ネパール・タライ平原の村から(67)

  被災地集落を再訪②
         -安全なだけの復興住宅-


 1年ぶりにラスワ郡ガッタラン村、チベット系タマン人の被災地集落(約250軒)を訪ねました。今も瓦礫が散乱した状況ではあるものの、集落内の小道は以前よりずいぶん歩きやすくなっていました。また、倒壊した家屋の割石が整頓され、積み上げられたところが数ヶ所。家族が亡くなられ、低所得世帯に対するNGOの援助で、割石を再利用し、2階部分が木材でロッジ風の住宅が3軒(建設中)。さらに、遠方から資材を輸送し、都市部で見られるのと同じ、鉄筋コンクリートとレンガ造りの自力で建てられた家が2軒。そして、国の基準に従った建築途中の復興住宅が2軒と、わずかな変化が見受けられました。

 集落内を案内してくれた青年、復興援助団体との調整役を務める住人、国の支援金で復興モデルの基準に沿う家を建築中の住人らとの会話から、復興住宅に対して厳しい声が聞かれました。

復興住宅モデルの看板
■復興住宅モデルの看板
 「地震アーヨ(来た)、お金アーヨ(来た)」。各国・機関から多額の援助が投入される中、復興事業の進展が実感できない状況に呆れたジョークです。
 「これまでも、たくさんの援助団体が入り、地震でさらにたくさんの援助団体が来るようになった」。
 援助で特定の人だけ潤ったという批判もあれば、村の暮らしは良くなったと賛否両論が聞かれます。
 「数日内にトイレの穴を掘らないとプロジェクトが打ち切られ、その次のプロジェクトに進めなくなってよいのかと言われ、(慌てて)穴を掘らないといけない」という村人の話もあれば、「識字教室を“要望に応じて”始めたが参加者が少ないので、今日はそのことを話し合いに来た」。こちらは、滞在中に来ていた指導の人の話です。良くも悪くも、村人自らも認める、援助漬けが日常の村です。

 いくつものモデル住宅がある中、「この地域で建てられるのは、平屋の1種類のみ」。これまでの石積みではなく、セメントを使った設計基準を満たすことを条件に、「段階を得て30万ルピーの支援金が支給されるが、外部から購入する資材や人件費を考慮すれば、全く足りない」とのこと。

 この地域全般では、子だくさんの世帯が多く、それ以外にも家畜や穀物の貯蔵場所がないことから、「復興住宅は、大家族が住める作りではない」「農民の家ではない」「復興住宅には納得していない」「安全なだけ」など、総じて耐震性があるのみという意見が聞かれました。地域色が強く、一律でない農業・住居・文化が混住するネパールにおいて、国による画一的な復興援助の難しさがあります。

 ガッタランを歩いていると、仮住まいの雨避けとして配布された救援物資のブルーシートがあちこち見られます。SAMARITANと書かれ、十字架のロゴの入ったブルーシート。ISLAMICと記されたモスクのロゴのブルーシート。こうした中、ガッタランの住民は、それらを、乾季にはシコクビエを干すのに使ったり、段々畑につないだ家畜と共に移動するゴート(移動式仮住まい)のテントに利用したりと、上手に利用されていました。集落に戻る帰路、糸を紡ぎながら歩く女性。段々畑の垣に自生している、この季節の産物であるイラクサ(湯で練って食用にもなる)を家畜用にカゴ一杯背負い、段々畑のゴートへ向かう男性。ガッタランの人々は、淡々と農作業に明け暮れていました。

 再建への道のりは厳しい状況ですが、ガッタランの農の営みそのものは、ほとんど崩れてないことに気付かされます。

                             
(藤井牧人)


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