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アソシ研リレーエッセイ

“場所と表現”について思うこの頃


 タレントと俳優の違いはなんだろう。タレントは大衆の願いを実現するために見た目で勝負する。自分が表現したいことは身体の中心にはない。俳優は、自分の中に表現したいことがあり、それを舞台や脚本に見出して身体を通じて演じて見せ、人の心を震わせる。ただ、テレビの「俳優」はたいていがタレントの延長であり、バラエティ番組と恋愛ドラマの境目がなくなり、本質的な違いはない場合が多い。だから、映画、音楽にも「恋愛至上主義」が身体化されるほど広まっているとの論説、消費社会を組織している企業活動が消費するタレントを必要としているとの指摘、それはそれで当たっているとは思う。

 それでもおもしろいテレビドラマはないわけではない。倉本聰という脚本家がいる。この人の書いたドラマはおもしろい。何が面白いかというと、〈愛〉について逃げないことだ。代表作である『北の国から』はずっとファンだった。自然の中ににじみ出てくる愛について1981年から同じ役者で21年をかけて描き続けた。最新作は連続ドラマ『やすらぎの郷』。ビデオで撮って、夜遅くに見たりしている。テレビに貢献した人たちが老後を過ごす特別養護老人ホームの物語だ。テーマ曲は中島みゆきが作詞作曲している『慕情』。これが味わい深くすばらしい。出だしだけ紹介すると、

 ♪ 愛より急ぐものが  どこにあったのだろう ♪
 ♪ 愛を後回しにして  何を急いだのだろう ♪

というものだ。活動家と目されている人には、噛みしめてほしいフレーズだし、私も噛みしめざるを得ない人生を送ってしまった。中島みゆきはこの仕事に対して、こう言っている。「倉本さんがね。ひと言ひと言を、命を削るようにして紡いでいらっしゃるんですから。そこへあだや疎かな歌詞など書いてはならない…と思えば思うほど、もう、冷や汗が…」

 この作品はテレビ文化への彼の遺言となるのだろう、と楽しみにして毎回みている。このようなアプローチをしてみると、大衆の支持を受け続けるテレビというメディアには、その存在理由があるのだと私は思う。

 表現の場がテレビであるか、舞台であるか、映画であるか、それは表現したいことの質によるのだと思う。私は、新劇を小学生のときから見ており、『労演』の宇野重吉や滝沢修などにはしびれた。レーニンは滝沢修の役どころで、ボルシェビキの政治姿勢がよく理解できた。私は大学で最終的に政治闘争を選んだので、俳優のいる場所から離れた政治的表現の場所で暮らすことになっていった。

 1970年のころ、表現の場所を演劇として選んだつかこうへいや唐十郎や寺山修司がいたし、その動向はたいへん気になっていた。しかし、連合赤軍以降の状況の変化でそれどころではなくなってしまった。だから私たちの「それどころでない」政治の質が問われることになったのだった、と今にして思う。革命党を作っていくときに問われるのは、こうした「表現の場を選び取った人たち」に対する評価の基軸を持っているかどうかだ。つまり大衆の気持ちに寄り添えているかどうか、と言ってもいい。

 20世紀の社会主義革命党はこの点で、ほとんど駄目だった。私は24歳のとき中国で、文化大革命時代のプロレタリア演劇をみせられたことがある。あの四人組の江青が指導部にいたころだ。ひどいものだった。この演劇論のもとになったのは、毛沢東の『文芸講話』だ。この話は、延安という解放区内の矛盾を解決するために「労農兵士のための文芸」 を考えよう、という限定した意味合いだった。ところが権力を中国共産党が握り、文化大革命のなかで絶対視されてしまった代物だ。民衆に寄り添う点からは、とても付き合えるものではなかった。

 ところで私も『恥逃げ』を見ているわけでないけれど、恋ダンスは注目している。私たちの一回り下の世代は、ピンクレディの♪ペッパー警部~(^^♪であり、その曲がかかるだけで体が自然に動いてしまう世代だ。テレビはこの身体表現の場として大きな影響力を持ってきた。一昨年、国会前の戦争法案反対集会に行った多くの人たちは、リズムの刻みかたと体が一定の方向に動いてしまう自分を、“政治的表現”として発見したのだと思う。シュプレヒコールを壇上でリードする女性たちのファッションが、たとえ「好まれそうな服装をし、自慢できそうなアイテムを身に付け、自信を持ってアプローチできるような顔や体を作ってい」(前回の松原竜生さんの引用)たとしても、身体性のレベルから見ると、これは愛のある表現だ、と私は感じいったものだ。表現の場として、You-tubeをはじめとするITの領域が広がっていく時代にあって、テレビ文化が生き延びるすべはあるだろうと思う。これはテレビで飯を食っている人たちが本気で考えていることだろうし、聞いてみる価値はあると思う。

 だから老婆心ながら付け加えると「恋愛至上主義」という言葉づかい自体が、もうテレビ文化に負けているということだ。このような言葉で括って何かものを言ったように思い込む政治的体質に、私はもうギブアップだ。例えば、橋下維新政治の弱点は〈文化〉だ。大阪の文楽界が橋下の無理解から追い詰められたとき、どの政治勢力も見て見ぬふりで文楽は孤立無援だった。「民が朝から晩まで弁当持ちで楽しめる場」を、維新政治が生み出せそうもないのにだ。

 せっかくテレビドラマや映画や音楽を「表現」という角度から取り上げたのだから、ここから“場所と表現”というテーマを掘り下げてほしい、と思う。今、私は畑から受け取るインスピレーションによって芸術表現を展開しようとする若者の行動様式に関心を持っている。21世紀の民衆に寄り添った芸術運動、つまり近代芸術、近代デザインを超える潮流はどこから生まれるのか、という関心だ。“農”はこれを創り出すのではないか、とひそかに期待し楽しみにしている私の晩年である。       
                         (本野一郎:研究所運営委員)


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