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ネパール・タライ平原の村から(66)

被災地集落を再訪① ―ナガリタがない人に会う―

大地震から間もなく2年が経過。1年ぶりにラスワ郡の被災地集落、ガッタラン村を訪問しました。

ローカルバスでカトマンドゥの北、ランタン山群の方向へ移動中。震災10か月後の前回の景観は、広範囲に渡り、崩壊や半壊した家屋、散乱した瓦礫と災害当日に近い状態でした。対して今回は、トタン張りの仮設、整頓されたレンガ、復興住宅モデルの看板もいくつか見られ、ようやくある時期を脱した、あるいは当分続くであろう、仮設暮らしが通常となった、そんなふうに見えました。一方で今も変わらず、災害時の様子をそのまま残す地域。そうした地域の中でも、鉄筋コンクリートで建築中の家、被災しなかった2階建ての立派な家、その隣の小さなブルーシートの仮小屋から、小学生が数人出て来る…そんな情景が印象に残りました。地域間あるいは地域の中で、復興の進展に大きな格差が生じています。

ガッタランへ向かう途中、一日中雨に見舞われ、山肌には雪が積もりました。往生して一日滞在した村のゲストハウスには、地方では見かけない、目新しい電子レンジとロティという雑穀の粉を水に溶いて焼く、無発酵パン焼き器が置いてありました。ゲストハウスの主人によると、震災後に宿泊施設に対する援助として受けた、(都会にある)電化製品とのこと。テレビCMで見た人気メーカーだけど、無発酵パン焼き器で作るロティの味はイマイチで、電子レンジは、食べモノを温めるだけとの感想で、使っていないとのことです。外は倒壊した家屋とトタンの小さい仮設が並ぶ、被災後の様子そのままの状態の地域でした。

たまたま入った小さな雑貨屋で、雨宿りしながら店主と話していると、そこはチベット人のお店でした。彼らは、1951年中国軍によるラサ進駐、1959年のチベット蜂起でヒマラヤを越え、国境を越え、インド・ネパール側へ逃れた数十万人のチベット人の一家族です。カトマンドゥやポカラの難民キャンプや集住区以外に、チベット国境近くの地域にも、数軒のチベット人世帯がチベット仏教徒のタマン人に混じって暮らしています。そして、「私達にはナガリタ(身分証明書/市民権)がない」という話を聞きました。

それで震災後に救援物資の支給は、ちゃんと受けられたのか?と尋ねると、インド・ダラムサラにある亡命政府から支援を受けたとのこと。被災者として認定されない彼らに、ネパール政府からの支援はないとのことです。ネパール側は中国政府による、「一つの中国」を支持し(配慮し)、チベット人を正式に難民として認めていません。僕の手元にある国勢調査の統計冊子の難民に関する統計も、ブータン難民の年度ごとの男女集計のみ、記載されてあります。チベット難民の項目は、空白となってありました。

また、チベット国境ゲートは、国境近辺のチベット人・ネパール人は、許可証を提示して、行き来できるのに対し、身分証明書のない彼らは、自分の国に帰ることもできないとのこと。チベット側には、親戚、土地、資産もあるが、そこへ行く(ボーダーを越える)ことは許されないとのことです。電話も傍受されるのでは?と恐れてかけられない。娘はエージェントを介して、欧米へ移住したこと等を教えていただきました。

チベット茶(バター茶)をいただき、亡命政府による支援で建てられた、仮設小屋を案内していただきました。ダライ・ラマ14世の写真があり、額縁に飾られた民族衣装を着た家族写真や室内装飾を見ていると、独自の文化を大切にされているのが伝わります。

僕自身、まだ日本にいた2008年。チベット暴動をテレビニュースで見て、その後、北京オリンピックをテレビで一喜一憂していた頃。彼らは、どんな思いでその時を過ごしていたのだろうと思うのです。 (次号は、ガッタラン村の復興住宅)

(藤井牧人)


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