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逸脱しがちな人も含め 地域で共に生きていける場所をつくる

地域における相互扶助活動 インタビュー報告

いにしえの難波の枕詞「おしてるや」。大阪市東住吉区南田辺、長居公園にほど近い住宅街の一角に、この言葉を冠した建物がある。“アベノミクス”のかけ声もむなしく、庶民の景気は一向に上向かない中、さまざまな理由から仕事や住居を失い、社会から排除されてしまう人々が存在する。そうした人々と手をつなぎ、地域社会の中で一緒に生きていこうとする活動の拠点だ。“夕陽の光が海原と空一面を明るく照らすさま”を意味する「おしてるや」に相応しいものといえるだろう。以下、活動に至る経緯や問題意識、いま抱えている諸問題、今後の展望などについて、中心を担っている中桐康介さんにお話を聞いた。文責は当研究所にある。

「オシテルヤ」へ至る道

【研究所】まず、オシテルヤの取り組みに至る経緯について紹介して下さい。

【中桐】僕は大学に入った1995年、初めて釜ヶ崎(註1)を訪れました。先輩に誘われて越冬闘争(註2)の支援として行きました。それ以降、大学内での講演会や釜ヶ崎でのフィールドワークなどに取り組んできましたが、そのなかで釜ヶ崎パトロールの会(釜パト)に出会いました。

釜パトは1995年10月に大阪・道頓堀で藤本さんという労働者が若者に襲われ、殺された事件をきっかけに結成されました。当時、バブル経済が崩壊した後で、釜ヶ崎でも日雇い労働者の多くが仕事を失い、釜ヶ崎の外に出て野宿生活をするようになっていました。そんな状況を背景に、釜パトは釜ヶ崎の地域外での活動を組織しようとしていました。

こうした活動に没頭する中で、僕は2002年に大学を中退し、長居公園のテントで暮らしながら野宿労働者を支援する活動を始めました。公園での活動を通じて、地域で活動する様々な人と出会いましたが、それが現在のオシテルヤのベースになっています。

【研究所】どのような人々と出会ったのですか。

【中桐】たとえば、僕は現在NPO長居公園元気ネット(元気ネット)に参加し、法人理事として活動もしていますが、元気ネットとも長居公園で出会いました。元気ネットはもともと身体障害のある人を中心に、地域の作業所や福祉事業所をネットワーク化し、地域の福祉まつりを呼びかけるなどして、障害のある人もない人も共に生きる「ユニバーサルな街づくり」に取り組んでいたグループです。彼らがいわゆる「ノーマライゼーション」(註3)を拡大解釈し、「野宿者も地域の一員としてつき合おう」と言って声をかけてくれたことに共鳴して、僕も参加するようになりました。

NPO関西仕事づくりセンターでいっしょに活動しているMさんとも、このころに出会っています。Mさんは障害者のヘルパーを仕事とし、元気ネットが呼びかけた福祉まつりにも参加する一方、音楽やアートの文化活動、車イスの人が立ち寄れるスペース作りなどに取り組まれていました。このスペースがもともとのオシテルヤなんです。僕らも当時、学習会や緊急時の宿泊などにオシテルヤを利用させていただいていました。

【研究所】オシテルヤを活動拠点としたきっかけはなんですか。

【中桐】実は2007年2月5日、長居公園のテント村は行政代執行による強制排除を受け、僕らの活動拠点がなくなってしまったんです。でも、強制排除されたからといって地域で野宿する人がいなくなったわけではありませんから、夜回り活動は継続しようと考えていました(幸い、友人たちや支援者のおかげで、夜回り活動は現在に至るまで途切れることなく続けています)。夜回りの活動拠点を探しているとき、たまたまMさんが諸事情でオシテルヤを畳む予定と聞いたんです。“もったいない”と思って、元気ネットの仲間といっしょに共同運営を持ちかけ、運営体制を整備して存続することになりました。

ただ、僕自身はその前後する時期に友人の自殺などもあってうつを患い、活動を続けるのがしんどくなってしまい、いったん離れざるをえなかったんです。

転機となったのは2008年10月、Mさんに誘われて若者の就労支援活動に携わったことです。当時、Mさんは大阪府若者サポートステーションで就労体験事業のスタッフとして働いていましたが、新規事業に取り組むということで、そのメンバーとして声をかけてもらいました。2008年のリーマンショック後に麻生政権の下で始まった、緊急雇用創出事業による若者就労支援事業です。国の交付金で都道府県が基金をつくり、市町村に補助して雇用を生み出す枠組みですね。

【研究所】その当時にもお話を伺ったことがありますね(註4)。

【中桐】長居公園で活動していたときは、行政との攻防が活動の一つの中心でした。言い換えると、行政こそ「敵」だったわけです。そんな僕が、まさか行政の事業に参加するとは夢にも思いませんでした。

しかし、活動を離れたこともあり、いっそのことまったく畑の違うことをやってやろうと思い、この業界に飛び込むことにしました。スーツを着て、名刺を切って、商店や飲食店等をあいさつして回り、「若者の就労体験に協力してもらえませんか」と営業する仕事です。

残念ながら、結果としてはうつがひどくなりました。

ただこの仕事を通じて、ニートや引きこもりの状況が、いわゆる労働問題の範疇に収まらない実情をより深く理解するようになりました。たとえば、一口に「就労困難」と言っても、その背景を見ると、親をはじめ家族関係の不全がある場合、未診断の障害や精神疾患のあるような場合、幼少時の虐待やいじめなどが現在に影響を及ぼしている場合など、深刻な要因がいくつも絡まり合いながら状態像(註5)を構成していることが少なくありませんでした。

そんな実情を知るにつけ、単に就労支援に取り組むだけではなく、個人の生活全体、あるいは生活歴全体の問題として考えなくてはならないということを理解するようになりました。実はこれは野宿者においても同じなんですね。生活保護を利用してアパートで暮らすようになったらそれでいいというわけではない。

【研究所】なるほど。

【中桐】当時、民主党政権下で湯浅誠さんが内閣府参与をされていましたが、湯浅さんの旗振りによって「パーソナルサポート・サービス(PS)」という事業が各地の自治体で取り組まれました。これはまさに、「様々な生活上の困難に直面している方に対し、個別的・継続的・包括的に支援を実施するもの」(内閣府ホームページ)です。現在の生活困窮者支援事業につながっています。

僕自身も2011年4月から大阪府のPS事業に参加し、専門研修も受けながら支援員として多くの若者と接してきました。

一方、Mさんは若者就労支援事業をベースに、2012年4月から仕事づくり活動に本格的に取り組み始めました。行政事業から自立し、自主財源・若者との協同による就労支援事業です。一部で有名な「ニート引越センター」などの活動もこのころからです。

ヘルパー派遣事業を設立

【研究所】ヘルパー派遣の事業はいつからですか。

【中桐】それも同時期です。2011年7月にオシテルヤ・ヘルパーステーションを設立しました。これは介護保険による訪問介護事業であると同時に、障害福祉サービスによる居宅介護事業でもあります。ヘルパーステーションを設立することになった背景には、こんなことがあります。

以前から野宿者との付き合いを続ける中で、生活保護を利用してアパート生活をしたいといった相談をよく受けましたし、いまも受けています。オシテルヤでは、そのための行政手続きやアパート確保などの支援をしています。

考えてみると、2000年前後から生活保護が利用しやすくなりました。その背景の一つには、野宿者に対する行政の対応の変化があります。野宿者が増え、野宿者に対する社会的な関心も高まったことで、それまでの排除一辺倒から生活保護を利用したクリアランスへと変化したようにと思います。それと、野宿者の生活保護利用に関する裁判で重要な判決が確定したことも忘れてはならないでしょう(2003年、佐藤訴訟)(註6)。

いずれにせよ、生活保護の利用が拡大したことで、当事者の選択肢が保障され、地域で暮らす可能性が拡大したという点ではプラスの状況がでてきたことは間違いありません。しかし、同時に難しい問題も数多く現れました。

【研究所】と言うと。

【中桐】たとえば、まとまったお金の管理が難しいということがあります。それから、野宿の生活とアパートの生活では勝手が違うので、周囲とのコミュニケーションがとりづらく、寂しさからアルコール依存症になったり、近隣とトラブルを起こしたりしてアパート生活を維持できなくなったり。最終的には、誰にも知られずに部屋で亡くなっていた。そんなことが僕の知人にも相次いでいました。

アパートを確保することも重要だけれども、その後の生活を支える活動が必要なんじゃないか、そのための仕組み作りが必要なんじゃないか。そんなふうに考え、元気ネットの仲間やMさんたちと相談を重ねました。そこから、制度を活用して、オシテルヤでヘルパー派遣の事業所を設立する流れにつながったんです。

つまり、僕にとってヘルパー派遣の事業は、野宿の労働者OBといっしょに地域で生きていくための仕組みであり、あくまでオシテルヤのさまざまな活動の一環なんです。この手段と目的を間違ってはいけないと、常々思っています。

【研究所】その他の活動についてお願いします。

【中桐】2015年8月には、就労継続支援B型事業(註8)としてオシテルヤ就労支援センター(よろず工房)を開設しました。これも野宿者支援活動やテント村での活動の延長です。NPO関西仕事づくりセンターと協力した、地域での仕事づくりの一環でもあります。

生活保護を利用しても、労働者は労働者。世間の見方とは逆に、多くの人は仕事をして過ごしたいと思っているんです。しかし、仕事をしたくても働く場がないからパチンコで時間を潰したり、アルコールに漬かったりしてしまう人がいる。

そんな状況に対して、いろんな制度を駆使して働く場を確保することで、生活の安定につなげようという試みです。高齢になって肝機能障害をもったり糖尿病を患ったりすると、障害福祉サービスを利用できる場合があるし、もともと野宿の労働者の中には未診断の知的障害やうつなどの精神疾患を持った人が少なからずいる。

と言うより、本来は福祉による支援を受けられたはずの人が、制度の使い方がわからなかったり周囲の支援を受けることができなかったりしたために、福祉サービスを利用できなかったから野宿せざるをえなくなったという事例が結構あります。そういった人が適切な支援を受けられるように環境を整えることが、オシテルヤの役割の一つです。

【研究所】ヘルパー派遣の事業をはじめて5年ほどですが、当初の想定からみて現状はどうでしょうか。

【中桐】5年経って、やっと黒字を出せるようになったので、ようやくこれまでのことを振り返ることができるという状況です。これまでは、いつまでこの活動を続けられるのか、という気持ちでした。資金の面では想定よりもずいぶん苦労しました。

見通しが甘かった、ということもありますが、利用者の獲得云々よりも、職員のヘルパーさんを雇用して給料を払うということ自体が大変でした。なにしろ、これまでそんな経験はありませんから。

入ってくるお金についてはあるほど度見込みがつきますが、出すお金について、どう考えたらいいのか分かりませんでした。当初は、お金をプールすること自体がいけないことのように思い、“全部職員に還元すべきだ”と考えたこともありました。

実際、給料について言えば、僕が受け取るのは最後で、職員がとった残り、小遣い程度あればいいと思っていました。当然ですが、そうなると支出がドンドン膨らんでいく。この辺りのコントロールは、正直いまでもよく分かりません。

【研究所】赤字の時はどう凌いでいたんですか。

【中桐】借り入れ、カンパを募る、職員の親から引っ張る、法人の理事から引っ張る……などですね。繋ぎの資金が足りないときなどは、アコムで借りて返すを繰り返したときもありました。僕自身も長い間「給料」という形ではもらっていませんでした。ヘルパーの仕事が少ない時期には、僕が外で働いて「外貨」を稼いで事業所に入れていたこともあります。いまも内職的な仕事はいくらかしています。

「逸脱系」から社会を捉え返す

【研究所】ヘルパーさんの賃金は、何を基準に決めていますか。他のところと比べて仕事の内容としては何か違いがありますか。

【中桐】周辺の同業者の水準を見て、それにいくらか上乗せするような形で決めています。だから、僕らのところは比較的多く出している方だと思います。

「違い」という点では、やはり利用者でしょうね。利用者に野宿の経験者が多いということが特色の一つです。現在、利用者は35~40人ほどですが、その6~7割、作業所の場合は利用者15人の7~8割は野宿の経験者です。

逆に、ほかのところのように80歳や90歳といった高齢の利用者はほとんどいません。だから、身体介護が必要な人の割合もかなり少ないと思います。亡くなる数ヶ月の間にそうした状態になることはありますが。

それから、僕らのところは介護保険と障害福祉サービスの両方を受け持っているので、知的、精神、身体、発達といった障害の部分に対する対応が必要になります。多くは介護保険中心に携わってきたヘルパーさんからすれば、いろいろな状況に対応しなければならない、という面があると思います。

それに関連して、独特な特質を持っているが故に手が掛かる人も結構います。コミュニケーションの取り方、つきあい方で難しい面があるかも知れません。

たとえば、未診断の傷害や疾病がある人が多いんです。僕らと利用者の関係で言うと、入り口は“野宿状態にある□□さん”に出会うわけです。ほかの事業所の場合、区役所とか福祉事務所から連絡があったり、ケアマネージャーさんから、“介護区分がこれこれの人で、こういう障害があって、障害支援区分がこれこれ、こういう特性があって”と相談されたりして利用者と出会う。それに対して、僕らのところはまず「アウトリーチ」(註8)です。だから、出会って、アセスメント(査定)をして、どういう傷害や疾病があるのか、医師のところに行って検査を受け、診断を受け、というところからやっていきます。

ただし、素直に病院に行ってくれる人ならいいですが、実は「ワシは病気じゃない、障害じゃない」というように医療を拒否する人が多いのです。しかし、僕らからすれば、活動面からは仲間だし、事業面からは利用者なので、何とかして納得してもらわないといけない。そういう「前捌き」の部分で苦労する面が多いと思います。

もう一つ、僕は「逸脱系」と呼んでいますが、僕らのところに来る利用者は、社会的排除を受けた結果として社会の秩序から逸脱してきた人、いわゆる触法行為、犯罪行為を何度か経験してきた人がけっこういます。僕らと出会ってからも、そういう言動を繰り返す人もいます。僕がかつてつきあっていた野宿の労働者の中にも、そういう人は多かったと思います。万引きを繰り返してしまう「クレプトマニア」の人もいれば、息を吐くように嘘をついてしまう、それがギリギリの生きる術だったという人もいます。

いずれにしても、なかなか生活の実態が見えなかったり、当人の本質的なニーズが見えなかったりという場合が多いです。表面的には、嘘をついたり、誤魔化したりして人間関係でトラブルを起こすため、背景にある障害や特性を見抜いていかないと、いつまで経っても周囲は振り回されるばかりです。よそと比べれば、そういう人たちへの対応の比重が多いと思いますね。

【研究所】専門的な領域に踏み込むことになりますね。

【中桐】そうです。そのあたりは、この5年間でずいぶん勉強してきました。実際、そうしなければ利用者とつきあえません。僕だけが我慢すればどうなるという問題ではなくて、ヘルパーさんも守らなければいけない。そのためには、知識やノウハウを持たざるを得ないわけです。

僕は「キャリアコンサルタント」という国家資格を持っていますが、これはかつて就労支援にかかわる仕事をしていたときに取得したものです。当時は僕にとって転機の時代で、意識的にそれまでの活動家のレールとはまったく違った領域の仕事をしてみようと考えていました。そんなこともあって、カウンセラーの講習に通って資格を取りました。

それを入り口にして、認知行動療法をはじめとして、いろいろ勉強していったんです。きっかけとなったのは、当時の職場でたまたま少年院や少年鑑別所で指導教官をされていた方から、少年院で行われている指導プログラムを学ぶ機会があったことです。興味を覚えて、それ以降も独自に勉強を重ねたりしましたが、野宿の労働者の支援にもずいぶん役に立っています。

【研究所】そうですか。以前にお話を伺った際には、てっきり野宿労働者の支援活動の延長線上で携わったような印象を持っていました。

【中桐】たしかに基本的なモチーフとしては同じだと思います。要するに、現役/OBを問わず野宿労働者と地域でつきあい続けていくために何ができるか、そのための条件をどうつくっていくか、ということをずっとやっているわけです。というのも、「逸脱系」の労働者は、ある面で社会的排除を不可避とするこの社会の真実の姿を現していると思うからです。かつて釜ヶ崎や路上に社会の矛盾を見出していったように、僕としては現在、逸脱しがちな労働者の姿に同じものを見出しています。その意味では少しウィングが広がっただけのことだと思います。

「逸脱系」の中に「野宿」も含まれるし「刑務所」も含まれる。典型的な社会の行動規範に適応することが難しいという点では、「ニート」や「引きこもり」も同質のものとして捉えています。彼らと一緒に生きていくためには、それなりに専門的な知識やノウハウや技術を身につけていかなければ太刀打ちできません。

“地域にあり続ける”という問題提起

【研究所】ところで、現在はヘルパー派遣の仕事がメインですよね。それは、事業収益という面でもそうなんですか?

【中桐】いや、収益という点では作業所です。ヘルパー派遣は全然ダメです。ヘルパー派遣を単体で考えれば、おそらく赤字でしょう。ただ、労働者の生活支援で一番使い勝手がいいのがヘルパーなんです。

というのも、僕らとつきあいのある労働者はほとんどが単身で暮らしていて、何かあったら頼れる友人もほとんどいないような人たちです。さらに、もともとの障害や疾病が背景にある。だから生活上のいろんな出来事やつまづきがあると、まちまち困ってしまう。テレビが映らなくなった、自転車を盗られた、隣の部屋の人とトラブルになった、区役所からの郵便が届いたがどうしたらいいかわからない、入院時に連帯保証人を求められたが頼める人がいない、親が死んだので寺にお骨を納めたい……。どれも制度上はヘルパーを利用できませんが、僕らは柔軟に対応しています。

作業所が収益がいいのは、利用者が作業所を利用することで行政から支払われる「支援費」の額がいいからですが、逆に言えばヘルパー派遣事業に支給される介護報酬や支援費が低すぎるということでしょう。いずれにしろ収益面では作業所ですが、活動面ではヘルパー派遣がないと成り立たないのが実情です。仕事づくり事業の場合、僕らは経費もとっていませんし。

【研究所】職員の構成についてお願いします。

【中桐】作業所の場合、中心的な職員は3人、アルバイトが2~3人という態勢です。職員3人のうち2人は、以前の野宿労働者支援の時代からいっしょに活動を続けてきた仲間です。だから、僕と同じ視点・問題意識で利用する労働者に接することができる。とても助かっています。アルバイトの経緯はいろいろで、ハローワークの紹介できた人もいれば、就労支援事業の時代に出会った若者もいます。

ヘルパー派遣のヘルパーさんも、これまで介護関係の事業所できた人もいれば、就労支援の活動やMさんの紹介で来てもらった人もいます。常勤が3人、非常勤が7~8人です。

【研究所】昔から一緒に活動してきた人はともかくとして、そうでない職員との間で、問題意識の交流のようなことはどうですか。どうしてこうした事業をしているのか、そんな話は。

【中桐】職場のミーティングを使って、いろいろ話したりすることはありますが、これまではどちらかというと僕自身があまり積極的に働きかけにくい構造ができていました。雇用主・雇用者という関係を下敷きにした権力関係になりかねないんじゃないか、と意識しすぎた面があるのかも知れません。実際、社会的な問題に関する催しに関して言えば、利用者の労働者の方が気楽に誘いやすいですね。雇用する立場になることの難しさを感じています。

【研究所】活動全体の思想的な核を担っているのは、中桐君とMさんと作業所の2人ですか。

【中桐】そうですね。それに加えて夜回りを一緒に担ってきた人たちもそうです。それ以外の、たとえばヘルパーさんたちと比べれば、最初の動機や問題意識が大きく異なることは確かですね。そうした違いそのものは事実ですから仕方ないにしても、それがいつまでも固定されてしまっては意味がない。これはむつかしいところです。

ただ、だからといって悲観的なわけではありません。長居公園でテント村をやっていたときから、ある意味で同じような状況にありました。公園でテント暮らしをしたり、野宿をしている労働者だからといって、特別に「階級的な自覚」のようなものがあるわけではありません。

経歴も考え方もいろいろ。むしろ、厳しい状態に置かれているが故に他者に対して攻撃的だったり、差別的だったりする場合も少なくない。しかし、生きていくための利害で結びついて、公園という場所を守っていくという意味では協同して生活空間を維持してきた。たとえば一緒になって掃除や炊事をしたり、集会をしたり。そういう生活の営み自体が地域に対する働きかけ、問題提起になっていたと思うんです。それが大事なんじゃないでしょうか。

オシテルヤも、ただでさえ“困った人”が溢れているような場所です。正直、地域からは奇異の目で見られているし、ちょっと前まではガンガン苦情も寄せられていました。本当にここでやっていけるのか、ノイローゼになりそうだったこともあります。そんな状況を踏まえて思うのは、いろんな立場や考え方の人がいながらも、逸脱しがちな人も含めて、何となく集ってくる変な場所として地域にあり続けることができれば、それが一番かなと思っています。

【研究所】そういう場所を共有しているということそのものが、いわゆる仕事として加わった人たちに対して本質的な働きかけになっていると。

【中桐】そうですね。言葉で理念を伝えて自己変革を求めていくような働きかけよりも説得力があるし、持続的は働きかけになるんじゃないでしょうか。何よりも、思想信条云々以前に目の前に人(利用者である労働者)がいて、日常的に関わりを持たざるを得ないわけですから。

課題は山積でも困りはしない

【研究所】問題点はどうでしょうか。

【中桐】ヘルパーさんとの関係、雇用の問題、利用者の適応の問題など、いろいろありますね。とくに利用者の適応については、この人が地域で暮らしていけるのかどうか、その場その場でモロに問われてきます。そんなことが積み重なれば、この事業所そのものの存立に関わるという問題と常に隣り合わせです。ただ、いずれにしても乗り越えるべき課題なので、困っているわけではないですね。

【研究所】新たな領域での展開などはどうですか。そうした領域を担うような人はでていますか。

【中桐】現場を任せられるような人というと、なかなか。若い人も社会的な課題に対処する事業に対する関心はあるんでしょうが。その点、湯浅誠さんはフードバンクを作ったり、保証人バンクを作ったり、もやいを作ったり、そうした活動の過程で人を育てて手渡してきた。それはすごいことだと思います。

【研究所】他の団体と方向性も含めて議論するような関係はありますか。

【中桐】一つは、介護の事業所でネットワークを作っていこうという動きがあります。大阪で、おもに社会運動の活動家が中心になって作った介護事業所がいくつかありますが、そうしたところがつながっていこうという動きです。港区や西成区あたりが中心ですね。ここに参加していけたらというのが、一つです。

この地域でいえば、近隣にも最近「子ども食堂」をはじめたところがあります。それから生活困窮者の支援に取り組んでいるところとしては、住吉区矢田の解放同盟関連の法人とか。そういったところと事業について話をしたりしています。地域で連携して生活困窮にかかわる支援を使いやすくしていくことが軸です。

【研究所】以前、「配食事業を考えている」と聞きましたが。

【中桐】現在は事業としてはやっていません。ただ「ランチの会」という名称で、食事会を週4回やっていまして、ここで作ったものを弁当箱に詰めて何人かの利用者のところに届けたりはしています。あくまで「賄いのお裾分け」で、事業という位置づけではありません。

地域福祉の面からすれば、事業としてやりたい気持ちはありますが、弁当配食の事業はこの近辺でもかなり増えていて、供給過多なのが実情です。会社や工場などで30~40食、コンスタントにまとめて取ってくれるところがあれば成り立つんでしょうけど。

【研究所】ところで、かつて携わっていた若者就労支援事業について、いまはどうなんですか。

【中桐】現在は休業中です。相談を受ける条件もないのが実情です。ただ、僕もMさんも、関心は持ち続けています。Mさんは現在、生活保護世帯の子どもたちに対する学習支援の活動を尼崎や東淀川で行っていて、小学生3~4年生を見ているそうです。彼らが中学校を出る頃に、就労体験で受け入れるような受け皿を作っておきたい、と話しています。

僕自身で言えば、先日いたみワーカーズコープ・高木さんのお話を聞く機会があり、お話の中で出された生活困窮者の自立支援に関する事業について取り組む必要性を感じました。就労準備支援から認定就労訓練事業という、いわゆる「中間就労」(註9)の枠組みを使える制度にしていくためには、こちらから行政に働きかけていく必要があるわけで、僕らはまだまだそこまでできる条件はありませんが、そうできたらいいなとは思いますね。

【研究所】ただ、行政の仕組みに関わると、どうしてもそれに引きずられる面もあるのでは。

【中桐】たしかに。実際、かつて僕が携わっていた若者の就労支援の仕事は完全に大阪府の事業で、当時、僕らは各種の委託事業に対して企画書を書いては受託することを繰り返していました。その過程で行政と一緒に事業を作っていくという経験もしましたが、発想の仕方、事業を通していくための提案の仕方などについて、すでに一定のやり方があることに気づかされました。

これまで活動家としてやってきたこととは、言葉の使い方一つとってもまったく違う文化が存在すると、いまさらながら感じました。それは一面ではいい経験だったと思いますが、逆に、その文化の中にいると、モノゴトの発想の仕方そのものが、たとえば「この事業をとって(受託して)いくためにどうすればいいのか」とか、「こういう受け皿を作れば行政のあの制度やお金は使いやすくなる」とかいうようになっていくので、危険な面もあると実感しましたね。

それもあって、ある段階で手を引いたということです。労働者とのつきあいを出発点とするところに戻っていかないと、ということで、いまは一切行政の事業を受けていませんが、逆に自分のスタンスがはっきりしていれば、利用できるところは利用していくことも必要かなと思っています。

【研究所】最後に、今後の方向性についてお聞きします。

【中桐】そうですね。正直に言えば、この1年、そのあたりは何も考えないでやってきました。とにかく目の前の労働者に対応していくことで精一杯だったので。

ただ、この1年、仕事の面でいろいろな人に手伝ってもらえるようになり落ち着いてきたこと、それと僕自身のメンタル的にも具合がよくなってきたこともあるので、いま取り組んでいる現場から社会的に発信していきたいという気持ちが強くなってきました。

そうした中で昨年、ある人から誘いを受けて福島原発事故の被災地を訪問したり、この年末年始の越冬闘争の中で、参加した若者たちにビラを配ったりするようなこともできるようになりました。

なので、今後の方向性と言われても、まだまだ議論の途中ですが、僕としてはあくまで野宿や「逸脱系」というところに根ざしながら、社会的排除を被りやすい人たちと具体的に連携を作っていく現場を多く生み出していきたいというのが基本です。

その手段の一つとして、このオシテルヤに関連する事業を拡大していくこともあるだろうし、仕事作りセンターを展開していくこともあるだろうし、その他の展開も考えられるかも知れません。

たとえば、介護の事業で言うと、この春から外国人実習制度が改訂され、外国人実習生が介護の仕事に入れるようになる状況が生まれます。実際、事業所向けのセミナーも開かれており、僕自身も事業所の管理者という立場を使って参加し、そこでどのようなことが行われようとしているか、見に行ったりもしました。

釜ヶ崎の地域内にもベトナム人実習生の寮ができて、その実習生を使う介護の事業所ができています。もちろん、そのほかフィリピンやインドネシア、ミャンマーからも人が来ると思いますが、いずれにせよ、釜ヶ崎の労働者の介護を外国人がするという状況がすぐにも生まれるでしょう。当然、実習生の労働問題、生活問題も出てくるはずですから、それに応えられる準備をしておくべきではないか。そんな話を関係者との間でしています。

僕ら自身が外国人実習生を雇用していくということも視野に入れて、対応していく必要があると思っています。つまり、釜ヶ崎の労働者の介護に関する事業を展開していく中で外国人実習生と結びついていくということですね。

【研究所】お忙しい中、どうもありがとうございました。

【註】

(1)大阪市西成区にある日雇い労働者の街。

(2)年末年始は日雇い仕事が途切れるため、宿泊所の代金が払えずに路上生活を余儀なくされる労働者が増える。そのため毎年、労働組合や支援団体なども含め、労働者が冬を越すための取り組みが行われている。

(3)障害者や高齢者など社会的に不利を受けやすい人々が、社会の中で他の人々と同じように生活し活動することが社会の本来あるべき姿であるという考え方。

(4)「インタビュー:雇用と労働の現在--就労支援事業と仕事づくりをめぐって」、本誌第87/88号(2011年6月30日)。ただし、インタビューの内容が行政からの受託事業に関連していることもあり、「田山一洋」の仮名で登場している。

(5)医療・福祉の分野で使われる言葉。たとえば、人が精神的な変調を来した場合、その様相や言動でいくつかの類型に分けることができる。この類型をまとめて状態像と呼び、具体的な各々の状態像をうつ状態など「○○状態」と呼ぶ。

(6)施設などへの収容(収容保護)ではなく、居宅での生活保護(居宅保護)を求めた野宿労働者に対し、大阪市側が「住居を持たない者は居宅保護はできない」として収容保護を決定したのは違法だとして提訴。収容保護決定の取消しが認められた事例。

(7)障害のため一般の就労が困難な人に就労の機会を提供するとともに、能力の向上のために必要な訓練を行う事業。雇用契約を結んで利用する「A型」と、雇用契約を結ばないで利用する「B型」がある。

(8)潜在的な利用希望者に手を差し伸べ利用を実現させるような取り組みのこと。

(9)一般的な職業に就くこと(一般就労)が難しい人を対象に、それに向けた準備の一環として、日常生活の自立や社会参加のために就労体験を行う仕組み。この過程では、公的な生活支援を受け続けながら、就労体験や軽作業に対して一定の賃金が支払われる。


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