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ネパール・タライ平原の村から(65)

退役グルカ兵遺族年金の手続き

ネパールの農村で暮らす、元よつば農産職員の藤井牧人君の定期報告。その65回目。

昨年、妻の父親が亡くなりました。かつて忠実・勇敢と称賛された元グルカ兵の一人です。イギリス・インド軍から優先して雇用を受けた民族集団、グルン・マガルのマガルであったことから、当時、村のほぼ全ての若者がそうであったように、妻の父もインド軍に入隊。年金・給料が保証されるグルカ兵は、十数年前まで山岳少数民族にとって、唯一の“職業”でありました。15年務め、退役後の退職金と年金で1977年、山岳部から開拓されたタライ平原へ移住。その後、国道近辺の立地条件であることから、周囲が土地をどんどん切売りする中、苦労して手に入れた土地を意地でも手放さず。農業を営み、山では獲れなかったお米が、一年通して自給できるようになり、そのことに大きなこだわりを抱いておりました。

義父が亡くなり、妻の母が遺族年金の請求手続きをすることとなりました。学校そのものがない時代を生きた義父は、軍隊で読み書きを習ったのに対し、義母は読み書きができません。そのため、妻が全て同行することに。

思い出されるのが、自分自身の婚姻手続きのこと。地元の村落開発委員会事務所で手紙を書いてもらい、それを郡庁に持って行き、郡庁で発行される書類を郡警察へ。その後、地元の警察署に行き、再び村落開発委員会、再び郡警察、再び郡庁へは保証人3人を連れて行きました。各書類を揃えるのが、1日がかりの一仕事でした。各機関で渡される書類も郵送せず、紛失や忘れられることもあるので、すべて自分達で宛先機関へ直接持って行きました。保証人5人を連れて地元の警察署に行った時は、みな一緒にパコゥラ(ネパールの天ぷらのおやつ)をかじりました。日本で警官とおやつを食べながら、書類を作ってもらうなんてありえないと思いつつ、日頃扱うことがないケースにも案外協力的で、時間をかけて手書きの書類を作成。サインが書けない義母は、指紋・捺印していたのを思い出します。

同じように義母と妻は、村落開発委員会に死亡届の証明書を書いてもらい、各機関に赴きました。時に担当官が不在であったり、お祭りで長期休みであったり、急なゼネストであったりもして、ようやく書類を揃えます。そして、かつてイギリス・インド軍の募集基地があったポカラまで、バスで6時間。年金請求書類を提出に行きました。

退役グルカ兵年金事務所で長蛇の列に並び、窓口の担当官が保管書類と提出された請求書類を照らします。少数民族マガルのプン氏族である、義母の身分証明書にある姓はプンですが、年金事務所の書類上は、マガルとなっているとのこと。名の末尾の文字も、SAがSUとなっていました。申請用紙の婚姻年月日については空白で提出したのですが、保管書類によると、義母は11歳で結婚したことになっているとのこと。

年金事務所の窓口の指示に従い、再び地元へ戻り、近所で5人の保証人を揃え、行政書士を呼び、身分証と年金事務所の記録の名前等が同一人物であるという事実証明を作成。再び各機関へ趣き、ポカラへ。義母の婚姻年月日は、そもそも明確でないので、保管書類の通りにして、再度窓口で書類を提出しました。

面接もあり、保管書類の顔の特徴に、顎下と首にほくろがあると記載されてあったのが、首下のほくろは既に消えていたが問題にはならなかったとのこと。また10年前、遺族年金の受給手続きが大変という噂を聞き、生年月日が年金事務所の記録と違うことは把握していたので、年金事務所の生年月日に合わせ、身分証明書の生年月日を既に変更してあったとのこと。そうしたこともあり、約1か月後の3回目の訪問にして、手続きが完了。これだけ手間がかかるのは、義父の入隊当時、全ての書類が手書きによるものであったこと。記載者がインドの書記官であったことによる、聞き間違え。生年月日等の不備は普通のことで、それほど気にされなかったことが考えられます。それでも比較的、順調に手続きが済んだ方で、途中で諦めてしまう人もいます。こんなふうに、時に理不尽に思えることも含め、こちらのペースで、何事もゆっくり進むネパールです。

冒頭、グルン・マガルがイギリス・インド軍から優先的な雇用を受けたと記しましたが、年金事務所の窓口の列に、チベット系少数民族以外の高カースト、低カーストの顔や名前が多数見られたことに妻が驚いておりました。

実際には、一般に知られるグルン・マガルの人以外も、名前を変える等して、現金収入を求め、グルカ兵に入隊していたことを意味します。     

(藤井牧人)

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