タイトル
HOME過去号>140号

福島第1原発事故5年
ー避難指示解除の現在ー

葛尾村、南相馬市、そして自主避難者たちのいま

 2011年3月11日の東日本大震災と福島第1原子力発電所の事故から5年が経過した。関東地方、とりわけ福島県は、未曾有の放射能災害に晒されたけれども、5年が経過したいま、復旧・復興の声が喧しく、被災者たちの切実な声はかき消されてしまう状況だ。帰還、避難継続、定住の狭間で、人々はなにを感じているだろう。
 6月12日に避難指示が解除された双葉郡葛尾村を訪問した。また同時期に大阪で、南相馬市の現状、自主避難者たちが直面している問題についての二つの講演会が開催されたので、あわせて報告する。(事務局)

【特集①】葛尾村訪問の報告

 2015年6月の福島復興指針(改定)によって、空間線量20mSv/年以下が帰還の目安とされ、避難指示解除準備区域(20mSv/年以下)、居住制限区域(20m~50mSv/年)について、住民の帰還が促されている(約5万5千人)。

 6月12日葛尾村、6月14日川内村、7月12日南相馬市において居住制限が解除され、年間50mSv以上の帰宅困難区域以外は、2017年の3月末に解除するというのが政府の方針だ。それとともに東電が一律で支払っている精神的損害賠償(慰謝料)月10万円は17年度末で終了する。東電は、解除後1年以内に帰還した住民に対して、早期帰還賠償として1人90万円を支払うということで帰還を促している。

 一方で福島県や国は、避難指示区域以外の避難者(自主避難者)への借り上げ住宅制度(無償住宅提供)を、2017年3月で打ち切るとしている。多くの避難者が延長を望む中で、その影響は大きい。

 また、このような帰還政策は、空間線量の測定だけで判断され、土壌や環境の放射能汚染はほとんど測定も評価もされていない。内部被曝の影響が心配だ。

 復旧・復興の掛け声の下、原子力災害と放射能汚染の現実をなかったことにしようとするかのような政策が推し進められている。いま、被災地域における人々の状況はどうなのだろう。帰還、避難継続、定住の狭間で、人々はなにを、どのように感じているだろう。

 6月12日に避難指示が解除された福島県双葉郡葛尾村の「いま」を訪ねた。

福島から葛尾村へ

葛尾村は放射線量の高い浪江町・
飯舘村の南にある。そのため葛尾
にもいまだに線量が下がらず、帰還
できない「居住制限区域」
「避難指示解除準備区域」が
残っている
 福島駅前モニタリングポスト、0.159μSv/h。(大阪では0.05μSv/h)。レンタカーを借り受け、福島県双葉郡葛尾村へと向かう。ちなみにICRP(国際放射線防護委員会)は、「公衆の被曝限度は1mSv/年が望ましい」と勧告している。1mSv/年は換算すると、0.11μSv/h。もっとも、丸山前環境大臣は1mSvには何の根拠もないと切り捨てたが。

 7月12日、午後1時。まだ明け切らない梅雨、曇り空の下を走っていく。国道114号線を南東方向に約1時間。一本道だけれども、カーナビは律儀に指示を伝えている。伊達郡川俣町。山あいの国道を走っていると、ときおり、除染廃棄物を詰め込んだ黒いフレコンバッグの陸続とした山が目に入ってくる。さらに黒い覆いをかぶせた台地のような威圧的な景観も。その傍らには「太陽の恵みを復興のちからに!」と謳った看板と「復興メガソーラー発電所」の太陽光パネル群。原発・核災害の除染廃棄物の山と太陽光、自然エネルギー施設がここでは葛藤しつつ、共存している。その深い軋みが風景の中に感じられて、ようやく福島に来たということを実感する。

 順調に、川俣町から、葛尾村へ。と、視界の先に、「帰宅困難区域」の標識と、立ち入りを阻むゲート。警備員たちの「ここから先は通行できません。迂回して下さい」という素っ気ない言葉。ちなみにモニタリングポストの数値は、0.232μSv(以下、/hは省略)。カーナビ頼りの運転なのだが、カーナビには帰宅困難区域や通行禁止の情報は入っていないのだ。

 それから幾度か通行禁止に阻まれ、迷いつつ、ようやく葛尾村へといたる県道50号線へ入って、やっとの思いで葛尾村の村営団地の一ノ瀬さん宅へ。

*    *    *

 一ノ瀬さんが大阪から葛尾村に移り住んだのは、つい2週間程前のことだ。大阪から被災者支援の車に同乗して通ううちに、葛尾村に惹かれたのだという。まだ冷蔵庫もない仮住まいの風情の家だ。しかし、引っ越し間もない暮らしが仮住まいである以上に、葛尾村自体が仮住まい、というか、ほとんど廃村に近い状態なのだ。

 かろうじて村で動いているのは役場、JA、郵便局とガソリンスタンド、それに一ノ瀬さんが働き始めた「みどりの里 せせらぎ荘」くらい。コンビニも、スーパーも、医院も、食堂も、なにもない。バスもない。小中学校も閉校中。「せせらぎ荘」は以前は食事・宿泊もできる慰労施設だったのだが、現在は風呂だけの営業(無料)で、クルマのない一ノ瀬さんは歩いて15分ほどかけて通っている。買い出しは、後述する松本さんの差し入れなどに頼っているとのことだ。村の商工会による「かつらお 帰村応援宅配サービス」というのが始まっていて、今後それが暮らしの命綱になるかもしれない。新聞は福島民報。見守りパトロールの人がついでに配達してくれるそうだが、村で10部ほどだということだ。

 村営団地というのは震災前につくられた移住促進のための団地で、二階建ての戸建ち住宅が山を切り開いた敷地に30戸ほど建てられている。今、そこにはほとんど人はいない。たまに昼間に手入れのために通う人がいるくらいだ。ちなみに線量は0.24μSv(簡易型測定器による)。団地の山際の高いところで0.52μSv。

 ひと息ついた後、福島第1原発近くを案内してもらった。原発の近くを南北に走っている国道6号線というのがあって、東京から仙台まで続く幹線道路なのだが、原発事故対策の作業のための交通路にもなっていて、閉鎖されていない。避難地域内の道路ということなので、一般人が立ち止まって写真を撮って、ということはおおっぴらにはできないけれども、走り抜けることはできるというので、行ってみることにした。

ゲートで封鎖された帰還困難区域(大熊町)
 葛尾村から南へ行くと田村市。そこから山道を西へ、海の方へ向かうと大熊町。0.3~0.5μSv。大熊町に入ると「ふるさと再興メガソーラー発電所」というのがあった。3.2haの敷地で、600世帯分の発電をするのだという。常磐自動車道の高架を過ぎると6号線なのだが、ここでも帰宅困難区域につき、通行禁止。南の方へ迂回し、迂回し、ようやく6号線に出た。6号線を北上したが、そこは原発から近く、放射能汚染のひどい帰宅困難区域で、事故以前は賑わったであろうレストランやコンビニ、スーパー、ガソンリンスタンド、そば屋、営業所、ホームセンターなど、ことごとく打ち捨てられて、廃墟と化していた。放射線の数値は0.72μSv、1.15μSv、最も高いところで、モニタリングポストの3.245μSv、約28mSv/年。海の方に向かって高圧鉄塔が並ぶ、その向こうが福島第1原発。国道6号線から、今は閉鎖されているJR双葉駅の方を指さして、一ノ瀬さんが「原子力明るい未来のエネルギー」の看板があったところだと教えてくれた。看板はすでに撤去されたということだ。そこには今、だれもいない。

 常磐線、夜ノ森駅、0.72μSv。常磐線は東京五輪に向けて、2019年度末を目標に、除染・復旧工事を進めるということだが、町や村の除染作業と同じく、労働者に被曝労働が強いられることになるだろう。

 帰り道、コンビニで夕食の買い出し。そこから葛尾村まで約10km、コンビニも商店も、ない。寂しい夜の山道を走った。

 次の日、葛尾村の松本操さんのお話を聞くことができた。松本さんは田村郡三春町の仮設住宅で自治会長を務め、村人たちのまとめ役として活躍されている。去年の11月からは葛尾村の議員(定員8人)の一人として避難解除に向けた議論も行ってきた。震災以降の歩み、思いを語っていただいた。その要約を掲載する。

松本 操さんのお話

松本操さんは、仮設住宅自治会長で、現在、村議会議員
 葛尾村の70%は農家です。兼業農家。まず農業だけではやっていけない。仕事は役場や農協や建築関係やいろいろ。原発は日当がよくて、安定していました。昔は出稼ぎで東京に出て、大手工務店の下請け孫請けで働いた。葛尾村の基幹産業としては、昔は葉たばこ。それから水稲、畜産。しいたけ。林業など、いろいろです。

 私も兼業農家で、消防に勤めていました。37年間勤めて、ちょうど震災の1年前に退職しました。10年前から防火の講師をやっていて、毎年、防火管理者協議会から依頼されて、消防から指導者が何名か派遣されていくのですが、私は最初5年間は従業員教育を担当して、その後、交代して今度は地震対策をやることになったのです。

 最初から震度8クラスの地震は99%あるということで、私もそれは言っていました。自主防災のために私は浪江の方に行っていました。地区の区長にお願いして、自主防災組織をつくって、みんなで訓練をやってきたのです。太平洋側の海岸近くの請戸地区は、いの一番にやらなくてはならないのですが、なかなかやってくれなくて苦労しました。

 私たちの地区は原子力を抱えているから、そういう勉強も訓練もやっていました。消防に入って本部に配属になったときに、最初に、東海村に原子力の勉強に行きました。事故があったときに消防が一番先に現場に行くので、その対応の仕方を覚えていなくてはダメなのです。東海村へ行って、あとは東京の原電に2回行って講座を受けました。福井も行ったし、そのあとにまた東海のオフサイトセンター。青森も行ってきたし、放射性物質の課程があって、1ヶ月間、消防隊学校に行ってきました。全国の消防が集まって、原子力の訓練を受けました。

 私たちの訓練はどちらかというと救助方面でした。放射能が漏洩したということになれば、誰も彼も入るわけにはいかないので、化学防護服を着て、空気補給機を背負って、線量計を持って、3人ぐらいで入っていくのです。救助して出てきてから、その人たちをまずは測定して、除染して、放射能を飛散させないように体を覆って、車輌やヘリコプターで医療機関に搬送する訓練をやっていました。

 あとは、被災地には避難のためのバスがどんどん来ますから、地区の人を誘導してバスに乗車させるとか、高齢者は高齢者で、自衛隊が来てどうのこうのとか、いろいろ部門部門で、警察はなにするとか、消防はとか、自衛隊はなにをするとか、まあ一通りの訓練はやってきました。

 2011年の1月7日でしたか、村の予算で原子力発電に研修に行きました。東電から、そういう金が来ているのです。30人くらいで行きました。それは東海村だったけれども、なにか質問はありませんかというので、私は、「震度8クラスの地震が来るそうですが、原発は大丈夫ですか、耐えられますか」と言ったら、苦笑いしていました。

 私は原子力発電所の中に何度も入りましたが、こんなので大丈夫なのかと指摘もしました。制御室の屋根が落ちれば、そこで制御している人たちはたいへんだ。天井が落ちたらそれこそパニックです。

葛尾村内の避難区域にあるモニタリングポスト。
環境放射線量は「0.232μSv/h」を示していた
 現実に3月11日の地震と福島原発の事故があって、実際には避難はスムースにはいかなかった。患者が病院に取り残されたり。みんなパニックになってしまって、逃げる方が先になって、病院が孤立してしまったり、いろいろありました。



3・11「消防OBとして助けられる人たちを助けたい!」

 地震のあった日、11日午前中は田村市の方に行っていて、帰りに軽トラックで走っていましたが、なにかパンクでもしたのかと思ってとまったら、電柱が揺れているのです。すごく長かった。みんな地面に伏せていました。とにかく学校へ孫を迎えに行かなくてはと思って焦りました。あちこちの瓦は落ちているし、道路はひび割れしていて、なんとか走りましたが、とにかく孫のことしか頭になかったので、無事な顔を見てホッとしました。たまたま校舎の耐震補強をしたばかりだったのが幸いでした。

 夜はテレビにかじりついていました。津波がどんどん上って、陸の方に入ってくるのです。仙台空港ではどんどん飛行機が流されていくし、どんどん水が上ってきて、住宅が飲み込まれていきました。

 これは、原発も危ないのではないかと思い、12日に近所の人といったん避難しました。しかし、まさか放射能が漏洩している、ベントしているなどと思わないので、その日に県の災害対策本部に電話しました。元消防のOBとしてなにかできないかと。電話しましたが、「いや松本さん。請戸地区には入れないんだ」。請戸に私の姉がいて、甥っ子も亡くなったのですが、「助けて、助けて」という声がいっぱい聞こえたということだったのです。それを聞いて、黙っていられなくて、なんとかして助けられるのなら助けたいと。私ひとりではダメなので、十人くらいで部隊をつくって入ればいいのではないかと言ったのですが、「いや、双葉郡はダメなんだ」とそれしか言わない。「なにを言ってるんだ、いま生きているのに」と言ったのですが。

 私たちは、線量計さえ持っていれば、あとは、完全な装備はできないけれども、一回に50mSvくらい浴びることは、消防の場合は許されているわけだから。まあ、許されているというのはおかしいけれども、そこまでは活動義務がある。だけど、県の職員などは放射能についてまったく知らないから、ダメなものはダメだと言うばかりでした。結局は何人もの人が死んでしまいました。あのとき浜通りの請戸地区は私たちの所よりも線量は低かった。福島なんかよりも低かった。だから、いくらでも助けられたのに。

*    *    *

 とりあえずは、福島のあずま運動公園に避難しました。12日に避難して、請戸の姉ちゃんから食べものがなくて困っているとメールで連絡があったので、葛尾に戻ってきました。請戸に14日に行って、午前中捜して、家族で行ったけれども、見つけられなくて、戻ってきました。

 あとで私がみんなを捜して、たまたま私がPTA会長をやっていたときに、学校の先生として葛尾の学校に来ていた人の子どもと奥さんもいましたが、家まで連れてきました。みんなで、風呂入って、ご飯を食べて、布団を敷いていました。

 そしたら今度は、防災無線で、直ちに避難しましょうという報せです。9時45分くらい。じゃあどうするかということで、先生の家族は郡山に行きました。私たちは福島の息子の所に、とりあえず行きました。姉ちゃんたちと、たまたま姉ちゃんの娘がここまで来たので、それじゃあ一緒に行こうと言って、行きました。

 福島に行って、「お父さん、いつ帰れるの」と聞くので、「分からん、一生帰れないかもしれない」というと、みんなわんわん泣くわ泣くわで大変でした。

 私は9人家族だったから、とてもじゃないけれども、避難所なんか入れない。息子の所にお世話になるしかない。ばあちゃん、じいちゃんがいるし、みんなで生活することにしたのですが、今度は毎日やることがない。10日ぐらいは家内も休んだけれども、いつまでも休んでいられないので、福島からこっちの病院まで通って、私は私で、遊んでいるしかなくて、じゃあ避難所まで行ってくるかと、頑張れ頑張れと励ましてまわったり、天皇陛下を迎えたり、中国の首相が来たり、韓国政府から慰問に来たり、そんなときは行ったりしました。

 6月から警戒隊が始まるということで、その前から週に1度は葛尾に来るようになりました。家の犬はもう放してしまったのですが、持っていったパンを近所の犬にもやったりしました。避難所では毎日パンをもらっていたので、パンはいっぱいあったのです。人が恋しいのか、腹が減っていたのか、跳ね上がって喜んでいました。

 警戒隊として、葛尾に通い始めました。ところが村の中に、他県ナンバーのクルマがどんどん入ってくるのです。九州、北海道や東京からも。それで、警察にも言ったのだけれども、手が回らないので知事に言って下さいと言う。もう6軒も7軒も漁っているのです。全部で11軒かそこらやられました。そのうちに、だんだん他県から応援の警察官が来るようになって、今度は私たちまで職務質問されたりしました。不審車輌が猛スピードで逃げ出したこともありました。

 7月に仮設に入れることになりました。みんなで、ここで生活するしかないんだからねと言って。じいちゃんは県にかけあって、施設に入れたけれども、みんな行くところがなくて困っていました。病院に入っても3ヶ月で追い出されるから。ばあちゃんはばあちゃんで、仮設で生活していたけれども、家が恋しいんだろうけれども「いつ帰れるんだ」なんていつも言っていました。じいちゃん、ばあちゃんは福島で殺してしまったようなものです。毎日閉じこめられて、ストレスが溜まってしまって。

 そういうふうに仮設の暮らしが始まって、みんな最初は「こんな狭い仮設に閉じこめられて」なんて言っていましたが、もう5年も住み慣れて、病院は近いし買い物は近いし、葛尾村より住みよくなってしまった。仮設が狭いだのなんだのと言っても、みんな4時になると戻っていくのです。仮設にはみんないるし、安心ができる。村には誰もいない。村にいるのはぽつんぽつんと数えるほどだから。私も夜になると、今晩ひとりでここにいると思うとなにか寂しくなってしまって、今日は帰ろうか、ということになる。

 原子力災害さえなければ、なにも悩むことはなかった。家族ばらばらになることもなかった。いまは、みんなばらばらです。自分たちだけでもここに戻って、やっていかなければならないのだけれども、私たちのあとはこの家はどうなるのかなと、やはりそういう心配もあります。果たして孫たちが戻ってくることができるのか。それは期待はできないけれども、そういう環境をこれから作るしかないのかなあと思うのですが。

*    *    *

 結局、田んぼはそのまま放っておいたままでした。2年以上はそのままで、雑草は背丈以上に延び放題でした。除染が始まったのが2013年頃で、だいたい1年半くらいで終わりました。雑草を刈って、全部運び出して、田んぼの土を5~10cm剥いで、山の土を入れる。一番いい土を取ってしまって、石ころがゴロゴロしている山の土を入れました。

 除染した廃棄汚染土はフレコンバッグに入れて、まとめて田んぼの中に積み上げられています。

除染廃棄物を詰め込んだフレコンバックの山(川俣町)
 葛尾の場合は農業しかないけれども、昔に戻るのはむつかしい。米が安いから、農業をやる気になれない。原発で1俵につき1800円ぐらい補償があって、それでやっと1万2千円くらいになる。それがなくなったら1万円を切ってしまう。肥やしや除草剤、殺虫剤などを考えたら、とてもやっていられない。

 だからこれからなにをやるかと言っても、若い人たちはとてもじゃないけれども、米づくりはやらないだろう。ただ、骨を折るだけだから。やはり、採算が合わなければ。問題は一番、採算性だから。

 農協もダメです。あてにならない。よその農協はそうでもありませんが、ここの農協はダメ。金をたくさん持っているけれど、結局は人の金です。賠償をもらっているから。

 去年の11月から村の議員をやっていますが、村もダメです。若い人の声を聞かないし、人材を育てようとしていないから。いま、葛尾村の予算は80億円。被災前は16億いくら、多くて22億円ぐらいでした。復興予算やいろんな事業が入ってきたからです。新しい体育館を、結局、小中学校2つ作ることになったけれど、議会で反対したのは私ひとりだった。なにも2つ作ることはない。一貫校にすればいろいろなメリットがあるし、全国からも見学にも来るし、研修にも来るし、そういう学校にしたらいいだろう。そして、のこった半分を村民が使えるようにしたらいいと、私は主張した。それがダメだった、国からお金が来るからと言って。そんな問題ではないのに。今は仮設のある三春町の方に小中学校があって、葛尾では2017年に再開するということだけれども、誰も来ないでしょう。まあ、9人、10人来ればいい方だと思います。

 葛尾の村民は今、1400人。避難指示が解除されて、「6月いっぱいで、61人が帰ってきた」と新聞では伝えていますが、アテにならない。帰ると言っても、昼だけとか、2、3日だけとか、いろいろあるでしょう。おそらく完全に村で生活しているという人は5、6人でしょう。

 避難指示が解除されたのが、6月12日。しかし、村人は全員が早いと言っていました。買い物をしようと思っても、なにも買えないですから。私は村民の意見を1人1人聞いて歩いて、時期尚早だと言っているわけです。自分の意見ではなく、皆さんの意見を聞いて。店屋もない、病院もない、みんなそう言っているのに、それは通らなかった。

 私たちばかりが反対しても、議会では4対3で負けてしまう。いままではなにを決めるにしても7対1ぐらいだった。だからみんなから役に立たない議員だと言われていた。それで、私が11月から入ってきて、それであーだこーだと言って、村長の顔を立てるとか立てないとかではなく、ダメなものはダメだと言う。なにも無理をして帰すことはないと。

 それで賛成だと言っていた人間がみんな来ていない。村に帰っていない。賛成だ、みんな早く帰すべきだと言っていた人間が帰ってきていない。勝手なことをやっている。店屋もない。たばこもない。自販機もない。そういう生活に必要なことをきちっとやって、それで解除ならいいけれども、こんな不便なことをやっておいて、だれも暮らしていけない。

*    *    *

 三春町の仮設住宅では自治会長をやっていて、みんなが楽しめるように、できるだけいろいろなことをやってきました。駐車場に舞台を作って、コンサートなどの催しをやったり、みんなで焼き肉パーティーをやって親睦を深めたり。自治会で旅行に行ったり、食事会をしたり。ベイブリッジにも行きましたし、スカイツリーにも行きました。80歳、90歳の人も、みんな高速エレベーターに乗って、スカイツリーに上りました。

 また大阪から支援に来ていただいている唐住さんのお誘いで、千葉の成田、三里塚に、毎年春と秋に行っています。じゃがいもとさつまいもの植え付けと収穫。みんなで畑でご飯を食べたりしています。

 去年、震災後初めて実証栽培のモチ米を収穫しました。(有機栽培で収穫したコメを検査した結果は、セシウムが玄米で2.0Bq/kg、白米で1.0Bq/kg、洗米で「検出単位未満」だった。食品基準値は100Bq/kg:「人民新聞」2016年4月25日号、一ノ瀬さんの報告)。大阪の支援者たちのところで餅つきをしました。みなさん、おいしい、おいしいと言って、あっという間になくなってしまいました。大きな励みになりました。

*    *    *

 高速だって近いわけだから、葛尾もまんざら捨てたものではないと思います。山の中だからこそ、できることがあるわけだから。ここは日帰りゾーンの畑、ここは長期滞在の畑というようにして、都市との交流をしながら、葛尾に入ってくるような環境にしたらいい。あと牧場があって、家畜と触れあえるというレクリエーションゾーンみたいなのをつくるといいのではないかと思います。

 都市との交流で、希望があると思うのは、学校との交流です。小中学生の子どもたちがここに来て、野菜を採って食べる。レクリエーションをやってもいいし、そこで子どもたちがのびのびと汗をかいたり、体験できるという授業、森の学校のような。子どもたちは、いまは勉強、勉強ですから、頭も心もおかしくしてしまう。だから、なにも考えないで、もう勉強のことなんか忘れて、思う存分一日中そこで、レクリエーションでもいいし、野菜やイチゴを食べてもいいし、そういう環境というのが必要だと思います。無心になって遊ぶ、新鮮な野菜を食べる、そういう体験、環境を提供してやればいいのではないかといろいろ提案してきました。

 微生物や虫たちが、土の中、腐葉土の中で活動している。微生物や虫がいるから、大地は守られているわけだから、たとえばガラス越しに土の中を見られるような施設を作って、森の学校として研修や見学ができればと思います。大地が守られているというのは、そういうことなんだということを勉強できればと思います。微生物や虫が活動しているから、森が汚れないで、きれいな水を吐き出してくれる。そういうことだと思います。その大地に植物や野菜が育っていく。そういうことを体験する学校を作って、それがひとつできることによって、また新たなことができるのではないかと思っています。

 いまはまだまだむつかしいですが、そんなことを思っています。

*    *    *

 話を聞いた後、松本さんの案内で、葛尾村の見所をいくつかまわった。梅雨の小雨が降ったり止んだりしていた。

 まず最初に、被災後、2度目の作付けを行った松本さんの田んぼを見学した。村には、除染後そのまま放置されている田んぼが目立つ中で、青々と育った田んぼの風景は厳しい現実をふと忘れさせ、やはりどこか癒されるような気がする。近くには田植え後、手入れの行き届かないまま、見るからに元気のない田んぼも目についた。

 県道から山道をかなり上った所に「もりもりランド」と名付けられた山の中のキャンプ場があった。もちろんいまそこは閉鎖され、管理棟にもアスレチックにも人影はない。

 江戸から明治にかけて生糸や製鉄業などで財をなした葛尾大尽屋敷跡の庭園。磨崖仏。磯前神社と葛尾大尽墓石群…。

 たっぷりとした自然の中に、魅力的な場所がいくつもあったけれども、避難指示が解除されたばかりで、どこも整備はまだまだで、ひっそりとしていた。見所のかたわらには深緑色の除染廃棄物の台地が不気味に見え隠れしていた。その山を見ていたら気が変になりそうだと松本さんは言う。莫大な金をかけた除染にもかかわらず、いまも葛尾村に薄く拡散する放射能。原発さえなければ、と心底から思う。

飯舘村から福島へ

 7月14日、朝。「せせらぎ荘」への出勤の準備(食堂も商店もないので、なんとかして弁当を用意しなければならない)をする一ノ瀬さんにお礼を言って、葛尾村をあとにする。12時過ぎに福島発の新幹線に乗る予定なので、午前中に、12日に避難指示が解除された南相馬をちょっとまわろうかと思う。

 県道50号線から49号線を経由して、1時間ちょっとで着けるはず。ネットで調べたところではカーナビの指示通りに行けばいいとのこと。だがそれは間違いで、昨日、一昨日思い知らされたとおり、浪江町は帰宅困難区域につき通行禁止。警備員に追い返された。

 50号線を逆に西へ向かい、いくどか道に迷いながら、二本松市から川俣町を経て、飯舘村へと至る。時間がなくなってきたので、南相馬はあきらめて、来年3月の避難指示解除に向けて除染作業が急ピッチで進められている飯舘村に入った。県道12号線から脇道に入り、飯舘村役場の方へ向かった。

 至る所に除染廃棄物のフレコンバッグの山、それを深緑色の覆いで被せた台地が拡がっている。フレコンバッグ脇のモニタリングポストの数値は0.762μSv。かなりの高線量だ。雑草だらけの農地。雑草を刈り取られた農地のそこここに作業用の重機が置かれていた。表土を剥ぎ取られて、茶色い地面をむき出しにした田んぼや畑が広がっていた。かたわらには黒いフレコンバッグの山。牛のいない牛舎があり、牧場には馬が佇んでいた。

来年3月末に避難指示が解除されることになっている
飯舘村で進む除染作業
 飯舘村役場の駐車場や向かいの立派な施設にはびっしりとクルマが並んでいた。復興作業や除染作業にたずさわる作業員たちの宿舎になっているのだろうか。除染作業や復興に向けた工事は大きなお金を動かし、多くの雇用を生み出し、復興バブルというような状況を生み出していると聞いた。来年3月の避難解除に向けて、なにが行われ、どのような将来が展望されるのだろうか。葛尾村の厳しい現実を目にして、複雑な思いが胸をよぎった。

 飯舘村をほとんど一瞥しただけで、後ろ髪を引かれる思いで、福島の方へ向かった。朝方、葛尾を後にした頃にまた降り始めた雨は、しだいに本降りになってきた。

 言葉なく運転をしながら、私は一ノ瀬さんのことを思った。福島や被災地から避難し、あるいは自主避難を続ける人たちが、今なお多くいる中で、彼はなぜ葛尾村への移住を決意したのだろう。除染が終わり、避難指示が解除されたとは言っても、放射線量は大阪の数倍以上という地に。そこが故郷というわけではなく、いまそこでしなければならないせっぱ詰まった仕事があるわけでもなく、なぜ。

 その、なぜは、月に一度、大阪から被災者支援のために福島の三春町を訪れ、三里塚の野菜を届ける唐住さんたちの行動にもつながっている。5年後のいまも、なぜ。一ノ瀬さんは唐住さんたちと同行するうちに、移住の決意を固めたのだという。

 善し悪しは別として避難指示が解除され、仮設の村人たちはひとりひとりと村へ帰って行く。松本さんのお話にもあったように、喜んで帰って行くわけではない。政府や福島県の帰還方針に促されて、それに同調して帰って行くわけではない。むしろ早期の帰還には反対だからこそ、うまくは言えないけれども、むしろ政治の流れに抗う思いで、帰って行くのかもしれない。

 それとともに唐住さんたちの被災者支援は仮設の三春町から葛尾村へと軸足を移していくのではないか。葛尾村に移住した一ノ瀬さんが自分の将来の方に見ているビジョン。「帰るのは自分たちだけかもしれない」と危惧しながら帰ってきた松本さん。そして数少ない村人たち。いまはまだ姿形も分からない将来に向けてのビジョンを手探りつつ、それぞれは帰還するのかもしれない。それはたぶん原発再稼働へとひた走る政府・電力会社の復興ビジョンとは真っ向から対抗するものになるのではないかと思う。(下前幸一)


200×40バナー
©2002-2016 地域・アソシエーション研究所 All rights reserved.