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アソシ研リレーエッセイ

【特集②】福島第1原発事故5年 福島(南相馬)ではいま

同慶寺(南相馬市)住職・田中徳雲さん

 葛尾村訪問の報告に、南相馬市へも行ってみることを試みて行けなかったことを書いたが、実はその数日前、7月8日、大阪で南相馬市小高区にある同慶寺住職の田中徳雲さんのお話を聞く機会があった。講演会は、南相馬市の仮設住宅などでボランティア活動を続けている大阪の教員たちのグループ「あいむひぁ大阪」の招きによって実現したものだ。

 同慶寺は福島原発から17㎞。避難指示解除準備区域にあり、この7月12日、お寺を含む南相馬市の大部分は避難指示が解除された。今回の解除の対象は、避難指示解除準備区域と居住制限区域の約1万1000人で、対象住民が1万人を超える自治体の避難指示が解除されるのは初めてだということだ。

 住職の田中徳雲さんは、震災直後から福井県で避難生活を送りつつ、檀信徒の求めに応じて福井と福島という長距離を行き来し、3年前に福島県いわき市に家族で移住された。避難指示解除前から、週に最低でも5日は国道6号線を北上し、片道1時間半をかけて同慶寺まで通っておられる。檀家さんも避難されている方が多く、1ヵ月平均の移動距離は7000㎞にもなるということだ。

「線引き」で持ち込まれた分断と反目

 講演では、まず最初に、部屋の掛け時計を原発に見立てて、そこからの距離で、参加者を20㎞圏内(警戒区域)、30㎞圏内(緊急時避難準備区域)、それ以外に分けて、それぞれに震災直後の状況を想像してみるように促された。

 3月11日の午後2時46分に大きな地震があり、それだけでも大変な状況だけれども、そこに巨大な津波が襲った。人々は避難や捜索のために右往左往していたけれども、さらに12日午後3時半、大きな爆発音があり、ガラス窓がガタガタ揺れた。街全体がパニックになり、防災無線が「原発で爆発があったようです。直ちに避難して下さい」と告げた。20㎞圏内の人たちは避難しなければならない。しかし、いったいどこに?「なるべく遠くに」。南相馬市は7、8割が農家で、じいちゃん、ばあちゃん、若夫婦、孫たち、多いところではひいじいちゃん、ひいばあちゃんというのも珍しくない。そんな大家族がどうして直ちに避難できるだろうか。

 30㎞内の緊急時避難準備区域では、いつでも屋内退避や避難ができるように準備して、家で待機するようにと言われた。窓には目張りをして、エアコンもつけないで、不安の中で待機した。

 30㎞以遠の人々は「直ちに健康には影響がありません」ということで、避難の対象外に置かれた。この3つの区域分けは機械的にコンパスで円を描くように行われた。

 さて、そのようにして福島の原発事故被災者は2つの境界線で分けられたのだが、そのことによって多くの問題が生まれた。最も大きな問題は賠償金(慰謝料)の問題だ。1ヶ月に1人10万円の賠償金。それが20㎞と30㎞内の被災者には支払われることになったが、30㎞から1㎞でも外になると対象外ということになった。30㎞という境界線の内外に分断が持ち込まれた。その線引きはコンパス、数字の問題だから、必ずしも放射能汚染の被害とは一致していない。実際は30㎞以遠の地域でも放射能汚染のきつい場所はいくらでもあり、住民が何度も行政に訴えて、避難勧奨地点として認められた地域もある。

 さて、それ以降も生活は続くわけだけれども、この境界線の存在が住民たちの生活に大きな影響を及ぼすことになる。たとえば、避難者のための仮設住宅が30㎞外に建設される。避難者たちに加えて、大工や建設会社の社員、復興のためのあらゆる人たちが30㎞外に住み、働き、食べ、暮らす。人口が一度に倍くらいになってしまう。レストランでたまに外食をしようとしても、2時間待ち。慢性的にどこも満員満員で、生活にはストレスが充満する。しかも元からの住民には賠償は入らない。

 四畳半一間か二間の仮設住宅は狭い。元の家にいつ帰れるか分からない避難者たちは、耐えかねて土地を捜し、家を建てる、あるいは中古の家を買う。そうすると今まで100坪1千万円だった土地が倍以上に跳ね上がる。大工の手間賃も高くなる。復興バブルのなかで、元の住民たちの一戸建てを持ちたいという夢は遠ざかる。しかも賠償は入らない。

 このようにして、被災者たちの間に分割のひび割れが生まれ、お互いの間に反目が生み出される。それが被災するということだ。外から見ていればわからないことで、根の深い問題がある。地震、津波は天災、しかし原発事故は人災、20㎞、30㎞の線引きはもうひとつの災害だと言える。

 以上のように、徳雲さんは震災、津波と原発事故に見舞われた南相馬市の状況を説明し、住民たちの思いをできるだけ具体的に想像してみて下さいと話された。それから本来ならば、何㎞という線引きや空間線量によって賠償を判定するのではなく、放射能によってその場所がどれだけ汚染されたかによって判定されるべきだったと指摘された。つまり土壌の汚染度をベクレルで測定するということ。しかし政府も福島県もそれはやらない。なぜかというと、それは放射能汚染の具体的な証拠であり、それをやると福島県の3分の2は人が住めなくなってしまうから。放射線管理区域の基準は4万ベクレル/㎡。徳雲さんの同慶寺の敷地は除染の後でも70万ベクレル/㎡だ。福島県だけではなく千葉県でも、他の関東圏でもホットスポットはいっぱいある。それらはすべて補償の対象外だけれども、放射能汚染という意味では同じなのだから、1万ベクレルにつきいくらというように補償するべきだ。それがいちばん平等な補償のあり方だと思う。

 このように放射能汚染を評価する上での問題点を、徳雲さんは指摘されたのだが、その言葉を裏付けるように、最近、福島県における土壌汚染の調査結果が発表され反響を呼んだ(女性自身2016年3月22日号)。それによると福島県の小中学校周辺の土壌の約8割の場所で、放射線管理区域の4万ベクレル/㎡をはるかに超える値が出たということだ。なかでも二本松市の中学校の周辺では108万ベクレル/㎡という、チェルノブイリ原発事故の影響を受けたベラルーシなら「第二次移住対象地区」に相当する高濃度の汚染も確認されている。国や福島県はこのような土壌汚染の実態をほとんど調べようとはしていない。

人任せではなく自分自身から変えていこう

 田中徳雲さんが住職を務める同慶寺は、鎌倉時代から740年以上続いた相馬中村藩侯の菩提寺で、地域寺院の本寺的な役割もあるお寺だということだ。しかし、600軒いた檀家さんのうち、いまも550軒が避難されている。そのうち250軒くらいは県外に避難され、300軒ほどは原発から30~50㎞のところに避難されていて、そのうち150軒はすでに避難地に家を建て、もう帰らないという。お寺というのは地域密着のものなので、本当に厳しい。いまは同慶寺始まって以来の存続の危機だということだ。

 同慶寺が存続の危機だということは、つまり南相馬市の地域コミュニティーが存続の危機だということだ。避難指示は解除されても、子育て中の世代は、比較的線量が低い県外や都市部に避難を続けているし、父親だけが南相馬市で仕事をしているという家庭も多い。すでに故郷への帰還を諦めて、避難先に家を建てたり、中古の家を買ったりした人も多い。かつては同居していた家族も二ヵ所、三ヵ所と分かれて暮らしていて、帰ってくるのは高齢者だけ。いろいろな精神的な苦痛が癒されるわけではない。地域のつながりは途切れてしまい、祭りなどの伝統文化の継承も厳しい状況だということだ。

 避難指示解除は、いったいだれが解除するのか。永田町の、福島には住んでいない人たちだ。解除しても、そこに暮らすことのない人たち。後々健康被害が出ても、決して責任を取ることのない人たちだ。徳雲さんはそのように強調し、もう人任せにするのはやめようと訴えられた。大事なことを人任せにすると、また繰り返してしまう。原発事故が起こったけれども、最初みんなは原発に反対だった。そのうち少しづつ押し切られ、話しにくい雰囲気が生まれた。話しにくいは、やがて話せないになり、そのうちに無関心に、人任せになってしまった。だから、自分の責任で判断して、行動しようと。原発事故によって、子ども、お年寄り、自然が、山や川の生き物たちが真っ先に痛めつけられた。だからその、子ども、お年寄り、そして自然のことを考えて行動しようと。

 原発のことはもちろんだけれども、それだけではない。お金の流れのこと、ゴミのこと、電気のこと、それらはどこから来て、どこへ行くのか。みんなつながっているのだから、責任をもって考えよう。いろいろなことを立ち止まって考え、自分自身から変えていこうと徳雲さんは話された。

コンクリートではなく「森の防潮堤」を

 講演の最後に、徳雲さんが特に紹介されたのは森の防潮堤の取り組みだ。いま、巨大津波による被害を受けて、コンクリートの巨大な防潮堤が各地で建設されているけれども、それは海の見えない高い建造物で、人びとを海から隔てるものだ。しかもコンクリートはせいぜい100年しかもたない。徳雲さんは漁師の息子として育ったそうで、地震のあと海から水が退いてしまったら津波がくる印だと教わったという。それは海とともに生きる者たちの知恵だ。

 コンクリートの防潮堤で、海を見えなくするのではなく、東北の市民たちが手を携えて、森の防潮堤を作ろうとしている。松や杉ではなく、大昔からそこに自生していた椨や椎や樫の木。これらは深根で直根性の木で、津波にも耐えることができる。土の中に震災のガレキを鋤込んで、植えているという。岩手から宮城、福島まで、全長300㎞。とても地道な作業だけれども、みんなの力で続いている。福島では毎年3万株を植えて、今年で3年になる。宮城でも今年10万株を植えた。いまはポットで苗を育てて植えているけれども、5年10年でそれが木になってドングリを落とし、それはやがて500年1000年の大木に成長する。子や孫やその子孫まで、森の防潮堤が育っていく。そこに行くと、生きとし生けるものがすべて喜んでいるのを感じる。土の中には震災のガレキを鋤込んであるので、津波で亡くなった人たちも、ともにそこにいるように感じる。そのように話し、田中徳雲さんはぜひ森の防潮堤を見てほしいと、講演を結ばれた。
(アソシ研事務局 下前幸一)
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