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福島における避難指示の解除が孕むもの

「慶事」の裏で進む棄民政策


 去る7月12日、東京電力福島第1原発事故に伴って南相馬市小高区および原町区の一部に出されていた、居住制限区域・避難指示解除準備区域における避難指示が解除された。福島県内における避難指示の解除は、田村市都路地区(2014年4月)、川内村(同10月)、楢葉町(2015年9月)、葛尾村(2016年6月)に続いて5市町村目となる。

解除の理由は除染が“完了”したからだという。しかし、産業廃棄物などの環境汚染ならともかく、放射能汚染の除去には完了などあり得ない。住宅地や農地はまだしも道路際や山林などは手つかず。汚染の元凶である福島第1原発は、未だ事故収束もしていない。

■パネルディスカッションでは、活発な議論が

そのため誰もが帰還できるわけではない。故郷に帰りたくとも安心して帰れる状態にはほど遠いのが現状だ。とりわけ小さな子どもを抱える家族では、避難生活を続けたり、祖父母世帯だけが帰還する場合もあるという。

つまり、避難指示の解除という「慶事」で丸く収まるわけではない。むしろ表面上の慶事が喧伝されればされるほど、それに同調できない人々の姿は否定的なものとして置き去りにされかねない――。そんな懸念を感じていたところ、7月9日に大阪市内で、福島第1原発事故による関西への自主避難者を軸とした「原発事故被害者の救済を求める全国運動・関西集会」が開催されると聞き、参加した。当日は主催者の予想を上回る220名が詰めかけ、会場は立錐の余地もない状況となった。

「チェルノブイリ法」

集会の第1部では、チェルノブイリ原発事故に伴う被災者保護制度について日本への紹介と政策提言に取り組むロシア研究者の尾松亮さんから特別報告が行われた。

旧ソ連では、1986年のチェルノブイリ原発事故から5年後に、通称「チェルノブイリ法」が定められた。これは、年1ミリシーベルトを超える被曝線量が推定される地域の住人の移住などを国が支援するものである。とはいえ、実は国が率先して制定したわけではない。放射能汚染の実態が判明するにつれて、強制避難が行われた半径30キロ圏内以外の被災者や原発事故の収束作業者らが声を上げ、当時は旧ソ連に属していたウクライナやベラルーシの民選議員がその声をすくい上げ、法律の制定にこぎ着けたという。

尾松氏によれば、「チェルノブイリ法」で重要なのは「避難の権利」が明記されたことである。同法では①半径30キロ圏の強制避難者、②年5ミリシーベルトを超える地域で移住が必要な被災者に加え、③年1ミリシーベルトを超える追加被曝が避けられない地域の住民に対しても「避難の権利」を認めている。これにもとづいて避難者たちは一定の条件を踏まえて恒久住宅の提供や雇用支援を受けることができる。また、避難者たちは生涯にわたって定期的な健康診断を受けられるほか、医薬品が無料ないし一部公費で支給されたり、汚染されていない地域での保養についても全額もしくは一部が公費で賄われる。

旧ソ連に及ばない日本

一方、日本では避難者は①避難指示を受けて避難した人、②避難指示がなく自主的に避難した「自主避難者」に大別され、後者については「避難の権利」も具体的な支援策も存在しない。たしかに、「チェルノブイリ法」を参考にする形で、2012年には「子ども・被災者支援法」が制定されてはいるが、実質的な効力が発揮されているとは言い難い。何しろ、福島第1原発事故から5年を迎える中、被曝線量が年20ミリシーベルトを下回れば避難指示が解除され、住民は事実上、有無を言わさず帰還を強いられる現状にある。

ところで、尾松氏によれば「年20ミリシーベルト」という数値はICRP(国際放射線防護委員会)が2007年に示した、事故からの復旧期の参考基準「年1~20ミリシーベルト」の上限を日本政府が採用したことによるという。周知のように、この数値は原発など放射線管理区域で働く作業員と同じ制限基準に相当し、日常生活を営むには相応しくない。

もちろん、旧ソ連でも事故直後は遙かに高い被曝線量を基準値としていたが、ICRPが1990年に公表した平常時の市民の被曝限度を「年1ミリシーベルト」とする勧告を踏まえ、「チェルノブイリ法」に明記した経緯があるらしい。独裁政権下で市民の権利が制限されていた旧ソ連でさえできたことが不可能な日本とは、いったい何なのだろうか。

棄民を生まないために

  ちなみに、事故当時の居住地域における被曝線量が政府による「年20ミリシーベルト」という避難基準を下回ったため避難指示を受けられず、自らの判断で避難をした人々が「自主避難者」と呼ばれる。先に触れたように、自主避難者に対する国の支援はないに等しく、わずかに避難先の自治体における公営住宅等の無償提供を数えるのみだった(だが、それも来年3月末で打ち切られるという)。

避難指示の解除によって、これから福島では続々と「年1ミリシーベルト」以上「年20ミリシーベルト」以下の地域が拡大し、それに伴って自主避難者が増えていくことになる。国策としての原発の事故が原因にもかかわらず、また旧ソ連諸国では法律に基づき国の責任で支援策が行われているにもかかわらず、自主避難者たちは“帰れるのに帰らない人たち”と見なされ、見捨てられようとしている。

集会の第2部、関西への避難者を中心としたパネルディスカッションでは、こうした状況に対する危機感と怒りが異口同音に明らかにされた。たとえば、あたかも避難指示の解除が福島の復興であるかのような世の中の風潮。継続ないし拡充されるべき支援策が次々と打ち切られ、強制的に帰還を迫られていること。その陰で帰らない=帰れない人は無き者とされ、人々の意識から存在を抹消されようとしている不安。そうした不安が避難先の周囲に理解されないかもしれないと思うが故の孤立。

にもかかわらず、国はこうした避難者の意見を無視し、「帰還ありき」の方針しか示していない。その目論見として取りざたされているのは、2020年の東京オリンピックまでに帰還困難な区域をできるだけ狭めることで、原発事故避難者の帰還が基本的に“完了”し、原発事故が“収束”したことを世界に向けてアピールすることだという。これまでの歴史から明らかなように、国家は国民を守るどころか自らの都合でいとも容易く犠牲にする。

パネルディスカッションの中で、福島県浪江町から大阪に避難している菅野みずえさんは次のように言われた。「今日の私たちは明日のあなた方かもしれません」。

自主避難者を棄民にさせてはならない。それは私たち自身のためでもある。

                                                                   (山口協:㈱よつば農産)



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