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市民環境研究所から


自治の喪失


今年の秋は気温も雨量も不順で、京都の紅葉も惨めな状況であるが、急増した海外からの観光客は紅葉の下で喜々として記念写真を撮っている。ゴミひとつない社寺巡りは日本人 の良さの一面を知ってもらうには大事な場面の一つであるが、ゴミひとつない風景ばかりでは、そこに生活する者としては実につまらない生活空間でし かない。例えば、散乱ゴミは御法度であるが、壁にはカレンダーひとつ、ポスターひとつないのでは味気ない。人間が利用するそれぞれの空間にはそれ ぞれの特徴ある雰囲気が必要であり、そのための小道具が要るだろう。生活空間にしろ、活動空間にしろ、単に便宜供与が尽くされているから最適では なく、そこに自分も含めて使用者、利用者がその空間を自分たちのもの(もちろん私有ではない)と思えるかどうかが大事だ。
 そんなことを考えていたころ、ある私立大学の教室での講演会を聴きに行った。大きな構内には同じ系統の色でまとめられた奇麗な校舎が立ち並んで いる。会場は長い廊下の奥にあると案内板が教えてくれているのでまっすぐに延びた赤い絨毯のある廊下を静かに歩いていく。いくつかの教室を過ぎて 会場の教室に至る。
 長年大学に勤務していたが、今歩いて来た廊下が大学の廊下だったのかと、教室という空間に入ってから思い出した。歩いている間はホテルの廊下を 客室に向っているとしか思えない雰囲気で、教室には教室らしき装置があったが、美しさだけが印象に残っている。この大学では各建物ともこんな佇ま いだという。学生はこんな教室で、出席を取ってもらって静かに座り、先生の講義を聴き、講義が終われば静かに退出し、下校する。大学という施設の お客様であり、授業料という料金を支払い、卒業という資格を与えてくれるだけの空間である。
 教員と学生と職員が共に力を出し合い、教育機関として、また社会組織としてこの国のあり様を考える空間=大学キャンパスの主役の一部が自分達で あるとの認識などは、ここでは生まれないだろうなと思った。もちろん学生の自治会もなく、大学とは何かと議論することもなく、議論しようと呼びか けるビラやポスターが廊下の壁に貼ってあるわけもない。学生がお客様の域を出ることはない、寂しい風景である。
 こんな寂しさは学生だけだろうか。どの大学を見ても、この寂しさは教員にまで広がっている。多くの大学では教授会が存在し、学部の在り様を議論 し、進んで行く方向を定める機関と思われているが、文科省や教育委員会の方針を伝達するだけの場と化した小中高校の「職員会議」と同様に、今や大 学の教授会も大学当局の決定を伝える場でしかないと言う。学部長の選出は教授会の重要な議題であるはずが、選挙ではなく学長の指名で決まる大学が 増えてきているという。「学部自治」という大学の根幹はもはや形骸化し、学部自治という言葉すら忘れ去られているのではないか。さらに、学部自 治、学科自治のもっとも重要な作業である教授選考を構成員の教員が行うのではなく、学部長や大学当局が教授を決める制度に変更した大学もあるとい う。
 そんな大学の教員から、「面倒な教授選考に関わる必要がないならありがたい」と言っている教授が多数居るという、怒りと嘆きの電話が最近あっ た。教授たちは給料と研究費さえ確保できれば、面倒な大学運営に関与したくないというのだろうか。もはや学部自治や大学自治などという言葉さえな いのだろうか。かくして文科省・国家の統制の中で、趣味の研究と教育だけが大学の営みとなって行くのだろう。「自治」を放棄した大学は「学問の自 由」を守ることなどできない。赤い絨毯の敷かれた学舎は虚ろな空間でしかないことを学生や教員はいつか気づいてくれるのだろうか。

(市民環境研究所代表 石田紀郎)


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