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「アソシエーションの理論と実践」の前進へ

─増補新版『マルクスと

アソシエーション』刊行を機に
田畑 稔(季報『唯物論研究』編集長)─


はじめに

 1994年に『マルクスとアソシエーション』の初版を出しました。 折しもベルリンの壁崩壊、ソ連邦や「社会主義世界体制」の崩壊などを受けて、マルクス思想の是非や社会主義再生の可能性について広く深刻な討論が なされていました。こういう背景もあってマルクスに内在しつつ「アソシエーション論的転回」の必要を強く訴えた初版には沢山の反響、支持、批判的 論評が寄せられました。
 しかし私自身はこの「転回」の訴えを何か過去の出来事と考えているわけではありません。全く逆に「アソシエーションの理論と実践」は、安倍政治 の「暴走」が続く現在の日本でも核心的テーマであると思っているのです。そういう思いで今回、詳細な用例一覧などを加えて増補版を出し、とくに若 い世代にも検討してもらいたいと考えました。 


T.今日の核心的テーマとしての

 「アソシエーションの理論と実践」

  「ア ソシエーションの理論と実践」は今日の事態を把握する核心的テーマでもあるということを5点あげてみたいと思います。
 第1。SEALDsや「学者の会」をはじめ、行動のためのアソシエーションが各地で多数形成され、相互に行動調整しつつ国会を包囲するなど全国規模 での「対抗的連合化」を形成しました。19世紀フランスの歴史家アレクシ・ド・トクビルの『アメリカにおける民主主義』(1835-40)が強調する ように「近代人は、アソシエイトする技(わざ)を身につけなければ国家の奴隷になる」のです。これはいままさに問われている非常に重い言葉です。近代 人は自由だと言われますが、前近代社会のような共同体や職人組合などの伝統的中間集団に帰属することなく、直接国家に向き合うことになります。だから 何か事あるたびごとに「アソシエートする技」を発揮しないと、安倍さんたちのような国家主義者の跋扈を抑えられなくなる。デモクラシーとか自由とかい う時に、忘れてはならないのは、「アソシエイトする技」を再生産する政治文化が非常に大事だということです。そのことを今回、学生たちも学者たちも学 んだと思います。過度に楽観はできませんが、新しい何かが始まったという印象は受けます。シールズが出している本を読みますと、若者たちの「自律空 間」から始まって、「特定秘密保護法に反対する学生有志の会」ができて、それからシールズになっていく。つまりアソシエーションはプロセスなのです。 歴史というのは常にプロセスであって、固定したものではない。シールズの若者たちもそういうプロセスを踏みながら、アソシエーション過程をたどってき たと思われます。
 第2。もちろん国家主義や排外主義や言論弾圧や軍事強化路線と一線を画すリベラルなジャーナリズムや知識人や専門家や研究者や教育者や学生たちの役 割や責任も非常に大きい。NHKの最近の変質ぶりを見ても、ジャーナリズムや学校や大学の現状を見ても、現在の日本社会における「リベラル」な言論の 弱体化と国家主義への同調圧力の強さを甘く見ることはできません。ジャーナリズム、学問研究、そして教育の国家権力からの独立原則は、言論抑圧と国民 動員政策で植民地支配と侵略戦争の道を突き進んだ過去の教訓の上に闘い取られたものです。「リベラル」とは、もともとは偏見が少なく、過剰な不寛容を 抑制し、幅広い教養(文学や哲学や歴史や自然・社会諸科学などからなる「リベラル・アーツ」)を身につけた知性の活動のあり方を表現しています。教育 や研究が資格取得や専門研究に収れんしつつある事態こそ「リベラル」の危機の根っこにある事態です。肝心なことはリベラルな言論や研究や教育もまた、 ジャーナリストや教育者や学者や学生の、多様な自立的「アソシエーション」の活発な活動の再生産の上にはじめて維持されるということです。たとえば現 在、防衛省による大学での軍事研究委託に応募する学部や講座が沢山出てきている。心ある研究者や学生は「アソシエートする技」を発揮し、応募で手を挙 げた講座や責任者に対し、一般学生や一般教員の前にでてきて説明責任を果たすよう求めねばなりません。こういう当然の要求が出ない方が余程おかしいと 思います。
 第3。なぜ安倍内閣が暴走するのか。これは国内面と国際面の両方を見ておかないといけないですが、とりあえず一国視点で見ますと、まずは民主党政権 への幻想と幻滅、議会内Oppositionが真っ当に機能しない事態があります。しかしその背後にある社会全体での力関係の大きな変動を見ておかね ばなりません。つまり「古い対抗波」の歴史的退潮(国労解体1987年、総評解散・連合結成1989年、小選挙区制移行1994年、民主党結成 1996年、など)とそれに代わる「新しい対抗波」の未成熟があります。古いカウンターパワーは崩されたけれども、新しいカウンターパワーが再生産で きないでいるのです。現在の事態は深刻であり、とりあえず対抗陣地を若者たちと一緒に再構築することが問われているといって良いでしょう。しかし長期 的に見れば「新しい対抗波」の中心は、「新しい社会運動」(反原発、エコロジー、フェミニズム、人権・障がい者運動、反戦平和構築、地域・エスニシ ティー・自己決定運動、グリーン系党派など)と「刷新された社会主義」(新しい労働者ユニオン、新しい協同組合、刷新された社会主義党派など)との連 合にあると思われます。そして「アソシエーションの理論と実践」はこの連合を支える極めて重要な位置を占めるのではないか。あえて図式化して結論だけ 言えば、こう私は考えているのです。
 第4。「社会主義の刷新」のためにはロシア経由の「ML主義」の根本的克服が不可欠でしょう。そのカギもアソシエーション論にあると私は考えるので す。ソ連や中国ではアソシエーション(結社)の自由は認められず、マルクスの思想の核心にあるアソシエーション論も隠れてしまいました。それが教義や 戦略論や組織論や世界認識にも深く浸透しています。これらは機動戦型の運動ではごまかせても、陣地戦型運動ではごまかせないでしょう。何れにせよ過去 の社会主義運動の誤謬や欠陥を、あれもこれもと数え上げるだけではだめで、過去を根本で総括すると同時に未来とも繋がるような基本総括こそが問われて いるのであって、まさにそれがマルクスのアソシエーション論ではないかと私は言いたいのです。
(注)日本の社会主義運動は米欧経由のキリスト教社会主義や社会民主主義から始まります(1901年、社会民主党結成、1912年労働組合友愛会結成 など)。その後、ロシア10月革命とコミンテルン(1919年結成)の影響下に共産主義運動も始まり(1922年日本共産党結成)、すぐに弾圧されま すが、戦後合法化されて影響力を拡大しました。1956年のハンガリー事件をきっかけに、スターリニズムを批判する新左翼運動も始まりますが、これも 党派としてはML主義に立脚していました。日本におけるこれら社会主義運動を全否定する態度は、全肯定する態度と同様、自分の歴史的センスのなさを告 白するようなもので、当然、避けねばなりません。
 第5。現在の国際情勢はどうでしょう。自民党の中でも安倍さんのようなナショナリスト、「闘う」右翼政治家が勝利し、国民的支持を維持するというの は、やはり国際情勢のバックアップがあったからです。第1にアフリカや中東の一部で国民国家という形そのものが崩壊し「パックス・アメリカーナ」(ア メリカによる平和)が無力化して、イスラム原理主義者たちの一部による無差別テロの脅威が世界全体へと波及しています。また中国における資本主義の急 激な不均等発展の結果、アメリカの金融的経済的政治的軍事的文化的な世界ヘゲモニーを直接脅かすという事態には程遠いにせよ、内外に多くの衝突を生ん でいるという事態もあります。とりわけ南シナ海や尖閣諸島をめぐる衝突は、ナショナリズムの相互エスカレーションを呼び起こし、日本の右翼勢力に格好 の扇動材料を与えています。
 中国とロシアはもともと「帝国」でしたが、現在、共産党一党専制および権威主義国家のもとでそれぞれ資本主義的超大国化と大国化の道を歩んでいま す。国家権力の正当化根拠は、「共産主義」から資本主義発展による国富と国力の増進、「超大国」としての威信(大国ナショナリズム)へと大きくシフト しました。とは言え資本主義発展に伴う多様で深刻な問題の噴出、中間層の大量形成の現実に、一党専制や権威主義体制は外見とは別に根本的欠陥を孕んで います。中国の場合で言えば、世界経済との一体化が進んだ今、かつての日本のような異論弾圧と国際孤立による侵略と破局の道は当然避けねばなりませ ん。結局、輸出主導の経済成長から内需拡大へ、中間層形成と民主化へという、先に韓国や台湾などで成功した道を、困難ではあれ内戦を回避しつつ歩むほ かないでしょう。アソシエーション(結社)の自由の承認(民主化勢力からは獲得)、多様な自立的アソシエーションが活躍する社会の形成と定着は中国に おいても課題の中心にあると私は見ているのです。民主化と言うと選挙のことを考えてしまいますが、そうではありません。民主化の中心は言論やアソシ エーション(結社)の自由です。それがないと、権力に対抗するような政治的行動や政策提示はできないのです。その意味で結社の自由の「デファクト(実 際上)」の拡大から法的承認への突破こそが中国の民主化で鍵になると思われます。もちろん私は安倍政治を支えている中国脅威論には組みしないし、中国 包囲網は危ない議論だと思っています。日本でも「民主主義は工場の門前で立ち止まる」現実が深刻なのに、自国の身近な問題は見えず、あるいは見ようと もせず、もっぱら外国を攻撃する。「くに」への自分の過剰なアタッチメント(愛着)から攻撃性の情念を次々汲み出してくる。反知性主義のこの政治運動 は初期消火に失敗すると歴史に禍根を残すことになります。

U.アソシエーションの理論と実践の前進へ:

   いくつかの論点


(1)大谷禎之介『マルクスのアソシエーション論』(2011年)も出ました。大谷さんは長年新メガ編集に携わる日本人研究者の中心人物であり、大月 版資本論草稿集刊行などで、新しいマルクス研究を文献的基礎で支えてきた人です。彼は学問的形式を堅持しつつ、マルクスの「アソシエートした労働の生 産様式」の指標の整理、妥当な訳語として「アソシエーション」「アソシエイトした」を定着させたこと、ソ連に実在した経済システムを「国家資本主義」 (の一形態)として把握すべきと主張したことなど、貴重な定式化を行いました。「マルクスとアソシエーション」は「マルクスのアソシエーション論」と 現在の「アソシエーションの理論と実践」を繋ごうとするものです。そのために必要な理論的実践的課題も非常に多く、現実の実践と繋がりつつ、若い世代 を含む個別的共同的取り組みの一層の進展、それこそ「アソシエートした知性」の発揮と蓄積が問われていると考えます。

(2)マルクスと「生活過程」。マルクス思想の陣地戦向け再構成も問われています。現在の若い研究者たちに比較的親しまれているJ・ハーバーマスや H・アーレントはマルクス思想を「労働の思想」として括り、返す刀でマルクスを限界づけております。しかし私の理解では、むしろマルクスの思想は「生 活過程の思想」と見られるべきでしょう。「生活過程」は「現実性」や「条件づける」などと同様、ヘーゲル論理学の本質論や概念論を下敷きにしているの で、マルクス‐ヘーゲル関係の体系的洗い直しも必要です。また「マルクスの生活過程論」をめぐる中野徹三さんのオリジナルな先駆的作業もあります。た だ中野さんでは物質的生活過程以外の社会的生活過程、政治的生活過程、精神的生活過程それぞれの「端初規定」を限定する作業が未着手なのです。紙数が 限られているので、暫定的図式だけ示しておきます。
(図1)
 「端初規定」はヘゲモニーと対抗ヘゲモニーが長期に対峙する「土俵」を限定するものです。機動戦期には「国家権力の奪取」にすべてが集約され、「一 挙に」飛び越えられる「外観」がありますが、事実上は問題が「先送り」されたにすぎません。たとえば「精神的生活過程」について、それが「土台」に 「制約」されているとか、「イデオロギー的倒錯」を孕んでいるとかで済ましていては陣地戦は闘えません。我々自身にとって「世界について、その中の私 /私たちの位置について、従って人生の意味について」考えることは本質的関心事なのです。だからこそ心ある生活者、宗教者、表現者たちと人格史的対話 や歴史的対話を進めねばならないのです。同じことが「社会的生活過程」についても、「政治的生活過程」についても言えるでしょう。

(3)「一枚岩の前衛党」から「アソシエートした知性」(マルクス)による行動調整へ。かつての「一枚岩の前衛党」は一方向の指導性を前提し、「分 派」も禁じ、建前上無謬性を誇りがちでした。党内の、意見を異にするものへの査問や除名、殺戮を伴う激しい党派間攻撃もこの無謬性の建前と表裏一体で す。この組織論は社会に拡大されると収容所社会をつくってしまう危険を孕んでいます。アソシエーション型の運動は、問題意識の「パースペクティヴ性」 (見る位置により世界の見え方が違う)を積極的に認め、運動論や組織論に組み込まねばなりません。女性の視点、非正規雇用者の視点、沖縄の視点など は、当事者たちが独自に「アソシエートする技」を発揮し、「声を荒げて」訴えてはじめて、我々は知的に理解しようと努力し、協議と合意の「アソシエー トした知性」へ至ろうとするのです。
 アソシエーション間の相互調整は、直面する政治課題についての行動調整、政策上の協議と合意形成を行う政策的調整、経済的連携をめざす経 済的調整、倫理問題を協議する倫理調整など、いろいろなレベルがあります。ベースは明らかに行動調整と共同行動の組織化であって、これがさらなる協議 や調整のための信頼ベースを築くのです。対抗陣地構築で特に重要と思われるのは、多領域多目的のアソシエーションの地域ネットワーク形成と運動の立体 化にあるでしょう。たとえば新しい協同組合、新しいユニオン、障がい者団体、女性の会、9条の会、エコロジー団体、弁護士などが、闘う市議たちを擁立 して連携し、協議や行動調整を重ねるという形です。

(4) 中長期的にみてアソシエーション型の運動を促したり、アソシエーションがドミナントな社会へ前進する歴史的諸条件(Bedingungen)の存在は 明らかです。「アソシエ―ティヴ・デモクラシー」(P・ハースト)の構想や「新しい公共性」の呼びかけ(鳩山首相施政方針演説)などは、市民の自主的 連帯組織の積極的位置づけなしには、国家と家族と会社と市場だけではもはや未来展望は語りえないことを訴えています。ポスト・フォーディズム経済では 対人サービス部門が製造部門より比重を高め、しかも医療、教育、介護、福祉、保健など営利主義になじまない対人サーヴィスの比重が増大しています。巨 大化した経営権力をコントロールするために、従業員、消費者、地域住民などの利害関係者のアソシエーションが情報公開、説明責任、協議をもとめる「ス テークホールダー・ビジネス倫理」が建前上は受け入れられています。徐々にではあれ「国家の安全保障」から「人間の安全保障」と「平和構築」へのシフ トが進み、NGOが軍隊以上に重要な役割を果たしつつあります。ブッシュ大統領とネオコンたちの無謀なイラク戦争の結果、一見すると中東では戦争の時 代にまい戻った感があるが、テロリストを根絶するには結局のところ「平和構築」しかないことが毎日といって良いほど確認されています。生活世界では 「個人化社会」(U・ベック)が深刻化し、子育てネットをはじめ生活者アソシエーションの積極展開の必要性が痛感されています。
 しかしこういう指摘をすると決まって「あまりインパクトがない」という感想が返ってきます。未来社会を「鉄の必然」と誤解する人が後を絶 ちません。そういう理解はマルクスの初歩的誤読です。「鉄の必然」は資本主義の「構造の論理」を言っているので、解体現象や破局の不可避性を語ってい るのです。それ自身はあくまで資本の論理の枠内の話です。未来社会への前進では、偶発性や創発性が複雑に絡む「生成の論理」が問われます。そのための 諸条件、つまりアソシエーションがドミナントな社会の実現可能性を構想し実践できる諸条件が主体面と客体面の両面で、資本主義の運動を通して構造的に 生み出されるということです。歴史運動の方は、偶発性や創発性を「織り込み」つつ、歴史的生成過程を実践的に一歩一歩「織り上げ」ていかねばなりませ ん。
 他にも言いたいことはありますが、議論の中で補足できればと思います。以上です。

(会場)アソシエーションの連合体としての政党というのをイ メージしたらいいのか。そういう政党と、社会主義の思想との関係がちょっと分からないのですが。

(田畑)私は政党を「アソシエーションの連合体」とは見ており ません。政党は綱領的見解(基本的現状認識や変革路線や未来構想や基本思想)を共有し、その実現を目指す政治的アソシエーションです。ただ、政党形成 の歴史的条件を考えると、重要な闘争課題に直面して、各地のさまざまな団体が政策調整や行動調整を重ね、共同闘争を組織し、そこで築かれた信頼関係を 基礎に政党を設立するケースが多いと思います(自由民権運動と自由党など)。その意味では結成当初は「諸アソシエーションの連合体」という性格を歴史 的に持つ場合もあるといえるでしょう。
 1871年のマルクスの構想では未来社会について、政治はコミューンの連合、経済は協同組合の連合です。自治能力の進展に応じて国家は「社会に再吸 収」されるとマルクスは見ました。今日お話したのは、こういう方向性をもつボトムアップ型の対抗的アソシエーションの組織化、それら相互の行動調整、 政策調整による、直面する政治的課題での運動と力の結集ということです。私は政治を、つまり「社会の公的総括」をめぐる抗争過程を、特に政党や職業的 政治家や選挙や議会に限定して考えていませんし、むしろそういう限定された政治とは異なる政治について強調したいのです。「一枚岩の前衛党」の問題に も言及しましたが、これもアソシエーション型政治の対極にある姿を示すためです。
 もちろん私は今日の対抗運動に政党や政治党派など不要だなどとは考えておりません。また今日の実情から見て、職業的政治家や政党員の道を選ぶ場合、 人生を賭すだけの志や日常政治活動に耐えるタフさ、政治的コミュニケーターとしての資質形成の必要なども問われるとも思います。ただ政治過程、つまり 社会の公的総括過程は、決して政治家たちだけ、党員だけ、議会だけ、選挙だけの問題ではないことは不断に自覚されねばなりません。

(会場)ひとつは、この間の運動に関わっていて、60年代後半 からの新しい社会運動、住民運動の層の厚さというものを次の世代に継承していくというのは非常に大事だと思うのですが、いまひとつ進んでいない。それ をどうしていくのかという問題意識があります。もうひとつは、政治的アソシエーションという言葉がありますが、ぼくは「政治」という言葉が今ひとつわ からない。田畑さんのアソシエーション論で、政治というのはどのようにとらえられているのでしょうか。

(田畑)若者については、僕も自分がおこなっている運動では舞 台づくりを心掛けています。舞台づくりはするけれど、中身には干渉しない。若者たち自身に公共空間で主張なり表現なりをしてもらう。ものを言ってもら う。そこから内発的に行動するというプロセスが始まるのではないでしょうか。シールズも最初は「自律空間」を作りましょうという集まりでしたし、京都 の「ユニオンぼちぼち」のリーダーも同様のことを言っていました。60年代末から本格化したいわゆる「新しい社会運動」も世代的継承という点で困難を 抱えているという点についてですが、68/69年運動やそれ以降の政治的帰結についてのドイツと日本の比較を最近何冊か読んでみたのですが、運動の質 において当初から大きな落差があったことを知りました。緑の党や社会民主党のリーダーを輩出し閣僚も出し、原発廃止を実現するなど結果を残しているド イツと日本の現状の落差は、今に始まったことではないと思い知らされました。彼我の落差を嘆くというより、歴史運動の奥行きの深さを自覚させられま す。ただ歴史運動はこれで終わりというものではありません。私の意見としては「新しい社会運動」と「刷新された社会主義」とを「アソシエーションの理 論と実践」の前進によって繋いでいくことが問われていると考えています。
 「政治」を僕がどう考えているかというご質問についてですが、天皇の存在ともかかわって、政治家ないし政治に対して日本では一般市民の評価が非常に 低いということです。たとえば、欧米とくらべ大学に「政治学部」が一つもない。政治家もそれを応援する業界や宗教団体も利益分配への対応には長けてい ますが、政策上、路線上の議論の質は低く、官僚依存で、島国的狭さも否定できません。自分が政治を軽蔑していることを自慢する醜悪な学者も多いので す。
 マルクスでは「政治的生活過程」の端初規定は「社会の公的総括」です。つまり我々は社会の中で部分的にあれこれ総括(束ねる)しているのですが、社 会全体を公的にも束ねる活動を行っている。この活動が政治であり、その制度が国家なのです。これまでのML主義では「政治的生活過程」の端初規定が曖 昧なまま、また分業国家(官僚制など)も扱わないまま、機動戦的発想で「国家=階級支配の道具」や「国家=暴力装置」といったテーゼを超越的に強調し てきました。しかし「社会の公的総括」過程は他人事ではなく、そこでヘゲモニーと対抗ヘゲモニーが衝突する自分たち自身の生活過程の問題なのです。そ ういう発想がないと陣地戦も闘えないし、若者の政治的無関心も克服できないし、アソシエーション型の社会への前進も不可能でしょう。

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