タイトル
HOME過去号>133号

市民環境研究所から


鶴見俊輔さんを偲びつつ思うこと



困難な時代を迎えるときに限って、頼れる方が居なくなるという世のならいを、今年も酷暑の中で味わった。
 市民環境研究所は、京都の東大路に面したビルの3階にある。東の窓から大通りを眺めると、すこし南に大きな病院がある。そのリハビリテーション の病棟で、7月20日に鶴見俊輔さんが逝去されたと教えられた。ご病気で入院されていることは知人から聞いていたのであるが、まさか毎日眺めてい る風景の中に先生がおられたとは思ってもいなかった。合掌してお別れをしたのは酷暑が終わる頃だった。「お葬式も、偲ぶ会もするなよ」とおっ しゃっておられたとかで、親しい方々もお別れの催しがないままだったようである。
 そして、秋を迎えた昨日(11月9日)、同志社大学の教室で、愛弟子の高橋幸子さんの講演会という形で、教え子や活動仲間が集う催しがあり、先 生の考えや人との接し方や人柄・生き方が伝わる言葉を聞くことができた。そんな日の翌日なので、締め切り間近の本欄に鶴見俊輔さんの思い出を書か せていただくことにした。
 1970年代の筆者は、公害現場で公害調査とは何を、どのようにやるのかを一から勉強していた。いろんな現場の調査を要請され、ひたすら現場へ 出かけ、試料を取り、研究室に持ち帰って分析、結果を現場に返す日々を送っていた。月の半分は調査行だったので、その他の運動に関係する時間を持 ち合わせていなかった。
 1965年に鶴見さんや小田実さんなどが結成されたべ平連(ベトナムに平和を!市民連合)に若者や市民が参加し、活発に活動されていた。大いに 関心を持ちながらも、参加する余裕のない毎日であった。この運動に加わっていた人々が、その後の筆者の市民運動の仲間となり、大きな影響を受けた が、鶴見さんの話を直接聴くとか、お会いする機会がないままに、べ平連は1974年に解散となった。
 大学闘争の時代にもお会いすることはなく、鶴見さんは機動隊導入に抗議して同志社大学教授を辞任され、同じ頃に筆者も逮捕され、それまでの研究 課題をすべて捨てて、公害現場での修行を始めた。
 それから十数年が経過し、1985年に丸木位里・俊さんの「原爆の図」の展覧会を京都市美術館で開催した。飯沼二郎さんに実行委員会の代表に なってもらい、筆者が事務局長を務め、入場者が3万人だった。飯沼さんはご存知のようにべ平連京都の元代表で、当時の京都には、鶴見さん、飯沼さ ん、日高六郎さん、岡部伊都子さんという、我が国を代表する「文化人」と呼ばれる方々がおられ、何かにつけて相談したものである。この展覧会の会 場で鶴見さんに初めてお会いした。そして展覧会運動に参加したいろんな市民運動を繋げたいと思い、「きょうと・市民のネットワーク」を結成して、 左京区の三軒長屋の2軒を借りて事務所にした。
 1992年に陸上自衛隊をカンボジアに派遣する、という愚挙を政府が決定した。最初の海外派兵である。鶴見さんたちが「自衛官110番」とい う、海外に派兵される自衛官を対象にした駆け込み寺的電話相談所を開設されたが、適当な事務所がないとの相談を受けたので、それなら長屋の一角を お使いください、と提供した。そんなある日、場所は覚えていないが、鶴見さんにお会いする機会があった。鶴見さんが「ボクは石田さんの云うことを 何でも聞かないとだめなんだ」と当方が何のことかと思うようなことをおっしゃったので、一体どうしてですか、と尋ねると、「だってキミは大家でボ クは店子だから、店子は大家の云うことを聞かないと」と。「先生、その言葉を一生忘れないでくださいね」と云って2人で笑った。
 戦争法が成立し、「自衛官110番」を再開しなければならない今、鶴見さんはもうおられない。その次にお会いしたのは2005年の飯沼さんを偲 ぶ会の会場だった。この時も、鶴見さんが「ボクは京都大学を見直したよ。たいした大学だね」と突然云われたので、「何をバカなことを云われるんで すか」と返したら、「だってそうだろう、キミのような者を最後には教授にしたのだからね」と返されて、「ほんとにそうですね」と同意して、また 笑った。鶴見さんとはこれが最後の会話となり、ほんの4回しかお会いしていないのに、記憶に残る言葉をかけていただいた。
 文化人という言葉は社会からなくなり、戦前に回帰するような平成の時代に去られた鶴見さんを偲ぶことで、私たちの役割と運動を再考、再構築して 行かねばと思う、秋のはじめである。

(市民環境研究所代表 石田紀郎)


200×40バナー
©2002-2019 地域・アソシエーション研究所 All rights reserved.